第8話 「現実」
「わおーん」
狼系の魔物の叫び声で俺は自分の置かれた状況を部分的に理解した。というより、理解せざるを得なかった。
声がした方を見ると、ぎりぎり見えるか見えないかという位置に魔物の群れが見えた。森なのでよくわからないが、離れたここにも振動が伝わってきたのでたぶん物凄い大群だ。
静かな森での叫び声とはいえ、それほど遠くからの声が届くのは尋常ではない。
「そうはいっても、俺はどうすれば」
俺は自分の生死が危ういというのはわかっていた。
腹は今もすごく痛いし、そうでなくともあんな魔物の大群を相手にすることはできない。
走って逃げることも不可能だ。今の全力疾走ではいずれあいつらに追いつかれそうだ。すべての魔物が俺よりのろまというのは考えにくい。
つまりだ。俺は詰んだってことか。俺の人生、こんなところで終わっちまうのか。
日本での日々が頭に浮かんでくる。これが走馬灯っていうやつか。初めて見たな。そしてできれば病院か自宅のベッドの上で家族に囲まれて見たかった。
人生、辛いこともたくさんあったはずだが、思い出すのは楽しいことだけだ。
無理ゲーな状況に諦めそうになったが、俺は策を思いついた。それはなんともいい加減な策だった。
でも、俺の弱い頭ではそれが限界だとも思った。日本でも冴えた策なんてものは、思い浮かんだことがない。ましてこんな状況だ。
そんな策でも無策で死を迎えるよりは何倍もマシに思えた。
俺は小さい頃、木登りが好きだった。
森の中で多くの木に登ったし、公園の木から落ちて親に怒られたこともある。インドアな今の俺からは想像もできないだろう。人間は変わるものだ。
時の流れは残酷だという話でもある。今の俺の運動神経はひどいからな。
最近は木登りなんてしてないし、装備をつけて腹に剣が刺さっている状況で登れるかなんてわからない。
木の上に攻撃できる魔物もいるだろうし、空を飛ぶ魔物だっているだろう。いるのがバレたら一貫の終わりだ。
うじゃうじゃいる魔物たちに生きたまま食われるかもしれない。そのときは自分で死ぬしかない。
でも、生き残る確率はある。少なくとも、逃げたり戦ったりしようとするよりは。
この森の木は高く、木の枝も太いので上に行けば落ちずにしばらく休めるはずだ。木も滑りやすいと言う感じではない、はずだ。きっと。多分。もしかすると。
この際、俺の運が悪いという事実は、計算外にしておこう。主に俺の精神衛生のために。
俺はアイテムボックスから非常用のポーションを取り出し、腹から剣を抜いた。
短剣。
痛かった。
その痛みに耐えながら、ポーションをかけると、少し痛みが弱まった。ポーションを再び穴の中に入れる。登るのに邪魔になるだけだ。
そこで俺は、深く息を吸った。
ここが俺の勝負所だ。痛みなんか気にするな。失敗はできないんだ。落ちたらもう一回登れるなんてことはない。魔物の餌になるだけだ。
それでいいのか。いいはずないだろ。
いくぞ。
やるぜ。
よしっ。
助走をつけ、俺は勢いよく木を登っていった。幸いなことに木は比較的上りやすく、すんなり登ることができた。
俺は魔物が上を見ても気づかないように、下から4段目の枝に座った。幹にもたれかかっても下の葉と枝で隠れられそうだったからだ。
俺が一息つくと、魔物が木の下を通り始めた。やはりものすごい大群だ。葉の間から見ても、ゲーム・ラノベ御用達の魔物がずらり。ゴブリン、オーク、ボーンラビット、ワイルドウルフ。
いわゆる雑魚(俺にとっては全部単体でも脅威)の魔物もいれば、ブラッドベア、オーガのようなそれよりも強い魔物もいる。
空の方からも声が聞こえてくるが、枝と葉に隠れてどんな魔物かはわからない。
いったい、こんなに多くの魔物がどこから来たのかなんてことは、この世界に疎い俺には完全に謎でしかない。
でも、それらは俺に気づく様子もなく、がむしゃらに森の出口に向かって突き進んでいる。
とりあえず、成功だ。
俺は目線を元に戻す。
「ひとまず、安心だ」
つい口に出てしまい、慌てて手で口を抑えた。恐る恐る下を見るが、魔物たちは気がついた様子はない。
はあ、今度こそ安心だ。次は気づかれないとは限らない。声を出さないように気をつけなければ。
身の安全を当面確保できて気が緩んだからだろうか、腹部がまた痛みを訴え始めた。今までに経験したことがない痛みだ。
日本にいたとき、中学・高校と文化部に所属していた俺は骨折すらしたことはなかった。
でも、この痛みは骨折を遥かに凌駕しているだろう。そう思えるほどの痛みだった。
俺はさっきしまったポーションをもう一度取り出し、残っている分を傷口にかける。
少し痛みが減るが、全然治らない。くそ、どういうことだ。この非常用のポーションは大きな傷でもすぐに治ると言われたんだが。
実際、もらったときに試してみるとあっという間に切り傷を治していた。まさか不良品か?
そこまで考えて思い出した。さっきマルクさんはもともと俺を殺す気だったと言っていた。そんな相手に正直に高性能ポーションを渡すわけないじゃないか。
きっとこれは低品質なポーションだ。試すときにわざわざ大怪我することはないから、低品質でも実際に使うまでは騙されたとは思わない。
そして、護衛のマルクさんたちがいる限り、俺がこの森で大怪我することはない。本当に護衛をしている限りは。実際に、俺も間抜けなことにこの瞬間まで騙されていた。
いや、それは多分正確じゃない。もっというと、問題の核心ではない。俺はマルクさんたちを信じていた、というべきか。
そう、俺はこの後に及んで、まだマルクさんたちを信じていたかった。あんなに気のいい人たちが俺を進んで殺すはずなんてない。これはきっと何かの手違いなんだ。
心のどこかでそう思う自分がいる。
この世界に来て、俺は、日本でのどうしようもない「現実」が変わると思った。思いたかった。
だから、日本人組とはそれまで通りの関係でも、この世界の人たちとは積極的に関わり、信頼していった。
信頼できる人が欲しかった。
そのためにはこちらから相手を信頼する必要があると思った。
でも、マルクさんが俺を刺したことも、ジョンさんもモーリスさんもそれになんとも言わずに俺を見捨ててさっさと逃げていったことも、紛れもない「現実」だ。
このことは他に解釈しようがない。マルクさんたちは俺のことを大切だとは思っていなかったということだ。
ただ俺が、「現実」を直視できていないだけだった。
そのとき、俺の心の中にある疑念が浮かんだ。他の人はどうなんだろうか、と。
すると、クリストフさんのあの顔が浮かんできた。悪事が露見したともいうべきあの顔。
どうして俺はあの顔のことを忘れていたのか。
昨日の夜はあんなに頭にこびりついていたじゃないか。
俺はまた「現実」を思い知らされた。
俺はやっぱり信じたかったのだ。
証拠なんてない。俺の思い違いだ。
そう思ってあの顔のことを忘れようとした。裏切られるなんて思いたくなかったから。
信じられる証拠なんて何もないのに。
クリストフさんもこの計画を知っていたのだろう。だから、実地訓練の話のときに顔が変だった。
ここまでくればアンナさんだってどうだか。実際のところみんな裏では手を握っていたという可能性もある。
俺はこの世界で信用できる人が誠だけの気がしていた。
誠なら、あの状況でわざわざ俺に話しかけてくれた誠なら、この世界で役に立たなそうだとわかった俺にも話しかけてくれた誠なら、信頼できると思う。
誠は損得なしで俺に付き合ってくれる、俺なんかには勿体無い友達だ。
でも、その誠に会うことはもうできないだろう。王国に戻っても俺は口封じに殺されるだろうし、有能な誠を王国が手放すわけがない。
俺が誠に会うには王国がなくなるとか、俺がものすごい力を手に入れて魔王討伐に参加するとか、そういう途方もないことが必要だ。
そして、そんなことは起きるはずもない。
俺はこの世界で1人だった。
本当のぼっちになった。
なって、しまった。
俺はこうしたひどく自分を落ち込ませる「現実」を認識した後、ようやく自分が治癒魔法のスキルを持っていたことを思い出した。
どんなときもスキル・ステータス・ジョブは自分を裏切らない。与えられ方は不平等だが、与えられた後の運用は完全に平等だ。
この3つを重視するテバノラ教が支持を集める理由がわかった気がする。
俺は痛みを堪えて集中した。
「キュア」
レベル2の方の治癒魔法を発動した、つもりだ。痛みを堪えながら正確に魔法を発動できただろうか。
ステータスを開くとMPが確かに4減っていた。そこで俺は自分のHPが3になっていることを知った。最大10の俺が3ということは命の危機ということだ。
俺は改めて自分が厳しい状況に置かれていると認識した。魔物に殺されるのは避けられそうだというだけで、負った傷の方の問題は全く解決していない。
魔物の方だって、いつ状況が変化してもおかしくない。
「現実」は直視されるべきだ。
俺は魔物に存在を悟られないようにじっと息を潜めて、枝の上に座っていた。ときどき痛みが耐え難くなると、キュアの魔法をかけた。1度に重ねがけをしても傷は良くならなかったし、MPも多くはないからだ。
将来の見通しなんて立てようもなく、ただ目の前の命を長らえさせようとして、自分の不運を嘆きながら、俺の散々だった1日は終わっていった。
そして、翌日から、この世界での俺の新しい生活が始まるとぼんやり思っていた。
上田洋介 Lv.1
HP:3/10 MP:15/50
ジョブ:雷属性魔法使い
スキル:雷魔法 Lv.2
治癒魔法 Lv.2
剣術 Lv.1
観察術 Lv.2