プロローグ
この作品は自殺を示唆するものでも推奨するものでもありません。
──断崖絶壁。
この崖を見た大半の人間が、そのように形容するだろう。
崖の下は波打つ海だ。この崖に波が打ち付けられる度に、高々と水飛沫が飛び散る。刑事ドラマなんかで出てきそうな、曰くのついてそうな崖だ。
その崖の先端は今にも崩れそうで、パラパラと砕けた小石が落ちていくのが遠くからも目に見える。
この崖の『立入禁止』と書かれた看板の前にたった1人、ぽつりと人影があった。
その人影は、看板の脇の鎖をくぐると、崖を目指して歩いていく。
酷く重い足取りで青ざめた顔のまま、一歩、また一歩と歩みを進める。
途中で立ち止まったり、引き返そうとしながらも、ゆっくりとその崖の先端を目指していた。
人影をよく見ると洋服はボロボロ、身体中に痣があり、いかにもまともな生活を遅れていなさそうな、まだ若い中高生のようだ。
こんな所に観光のために来ているとは到底思えない。
「……やっとだ」
誰もいない崖で、ポツリと少年が言葉を零す。
誰もいない崖の上で気味悪く笑いながら自分に語りかける。
「……これで…やっと…」
フラフラと千鳥足になりながらも、遂に崖の先端に着いてしまった。
もう一歩進めば、落下待ったなし。
少年が静かに足元に目をやると、絶壁の下では激流が岩にぶつかり、渦を巻いているように見える。
冷たい潮風が頬を焼き付けんばかりに吹き、激流の波音が恐怖心を駆り立てる。
高さは10…いや20メートル程だろうか。
少年の足は震えていて、その振動でパラパラと先端の岩が崩れ落ちる。
少年は「よし」と自身に言い聞かせるように呟くと、靴を脱いだ。
そして、予め用意していた何かメモの書かれた紙を置き、近くにあったやや大きめの石を重しにして紙が飛ばないように置いていく。
覚悟を決めたようなその眼差しは、どこか怯えているような節があるが、ブンブンと顔を降った後、顔を数回ビンタして少年は決意をする。
「…次は、まともな人生を歩ませて下さい、神様」
その一言を残して少年は一歩を踏み出した。
文字通り、何も無い場所へ足を踏み出す。
当然足は虚空を踏んで空回りし、重心が崩れて体が崖から落ちていく。
これが、彼の決心だった。
これからを担うはずだった若い少年が、未来を諦めてその命を捨てた。
日本という国において10代で一番死因の多い、自殺。
彼もまた、その被害者であり容疑者、犯人の1人だった。
眼下の岩場まであと数秒だろう。目を瞑る。
風を切る音とともに、脳裏を走馬灯が走る。
──それはある日突然のこと。
母を失ったことから、人生が急変した。
彼が4歳の事だった。
最愛の母を病で失ってしまった父はその日から狂った。
父は元々、文武両道という文字を擬人化したような人物だった。
剣道の達人だった祖父の教え子だった父は、日本のいくつもの賞を勝ち取る程の鬼才を持っていながらも、大手の企業に就職し、仕事を両立させて安定した生活を送らせてくれるような温厚な人物だった。
幼い頃から少年もよく様々な場所へ連れ出されたり、鍛えられたりと、隣人からも目に見えて愛情を注がれていた。
だが、母が死んでからは人が変わった。
毎日酒に溺れ、愚痴をこぼし、何か気に食わない事があれば自分の息子を殴る。
たまに泣きながら何かを諭された事もあったが、既に壊れた少年の精神には何も響かなかった。
見るに堪えない所業に近隣の人々からの父の評価は、理想の人物像から嫌悪すべき対象へと変わっていった。
当然仕事はクビになった。新しい雇用先も見つからず、剣道の道も閉ざされ、有り金だけが尽きていく。
そんな中でストレスが溜まると、発散するかのごとく息子を殴るようになってしまったのだ。
歪んだその心は息子の心を着実に蝕んでいった。
──ふっ、と走馬灯の場面が変わる。
少年が同級生に蹴られて蹲っている姿がそこに映し出される。
いじめだった。
初めは靴が消える、鉛筆で机に暴言を書かれる、といったものだったが、若さとは恐ろしくいじめは徐々にエスカレートしていった。
油性ペンによる罵詈雑言、仲間はずれは勿論のこと、財布を盗まれたり、路地裏で複数人から暴行を受けたりり、裸に剥かれて晒されるなんてこともあった。
父に相談しても上手く立ち回らなかったお前が悪いと言われ、金を盗られた事に激昂して殴られた。何をしても無駄だった。
挙句の果てには先生や教育委員会からも見捨てられた。
──彼に救いなんて無かった。
「力になるよ」なんて口先だけの言葉を何度も聞かされた。しかし、現実は誰も目を向けてはいなかった。
道行く人は避け、親に暴行され、学校は地獄、警察は何もせず、保護もされなかった。命だけが脅かされた。
少年は思った。
──もう、うんざりだ。この人生も、この世界も。
生きていく上で大事なものは全て消えた。
お金なんて無い。家族の愛なんてとうの昔に消えた。
誰からの信頼の欠片も無い。友情も、幸福も、何も。
ただ、生きることが辛かった。
奴隷のようにこき使われ、物のように扱われる最悪の人生に価値を見いだせなかった。
無意味な生に耐えられなかった。
何も、出来なかった。
彼自身、死ぬこと自体は怖いと思っていた。
死ぬということは、得体の知れない闇に消えるようなものだと本能的に考えている。正直不気味、という言葉では生温いくらいに理解し難いものなのだ。
しかし、もうそこに縋ることしか頭には浮かばなかった。
これしかないと、思ってしまった。
走馬灯が消え、やけに長く感じる自由落下の中、ただ1つ。
「これで…よかったのかな」
後悔と自責の念がこもった自問をぽつりと零して──
──そして彼は、自分の問いに答える事無く意識を永遠の闇に沈めた。
『さよなら』
そう書かれた手紙を遺して。
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どれくらい経ったのだろうか。
1分か、1秒か。はたまた、1時間か、1年か。
もっと長いようでもっと短い気分。
深淵の闇の中に時間などあるのだろうか。
まるで、そこに意識があるかのようにふと考えてしまった。
いやいや、ちょっと待ってくれ、なんで考えることができるんだ?
不思議なことに考えることが出来ているのだ。
つまり、意識があるということ。「死後の世界ってこういうものなのか?」という疑問が浮かぶ。
戸惑いを隠せないでいる中、薄気味悪い喧騒にフィルタがかかったかのように、クリアな音が耳に響く。
気になったので目を開こうとする。
──いや待て、耳が聞こえるのか?目があるのか?
そんな疑問を浮かべながらも、恐る恐る目を開くとそこは───
「は?」
彼は、剣と魔法のファンタジックな世界に1人立っていた。
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