【終末ワイン】 プレゼント・フロム・ネメシス (44,000字)
需要もないままにシリーズ15作目です。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
6月30日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、9001通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
今年で51歳になる橘嘉代子は離婚を考えていた。好きな人がいるとか浮気相手がいるとかといった理由では無く離婚を考えていた。既に頭の中には離婚までの道程が出来ている。
『楽しくないから。つまらないから』
なぜ離婚するのかと問われればそう答えるつもりだった。子育ても終え半世紀を過ぎ残りの時間も見えてきた。その残りの時間は自分の為だけに楽しく生きたいと。
夫の達彦は64歳。あと1カ月で65歳を迎えその翌月には定年退職となるが、翌月はほぼ出社せずに有給休暇の消化期間となる予定だった。地方自治体の公務員として真面目に働き続け、選挙の手伝いにも積極的に借り出されていく。浮気もせず付き合い程度の酒しか飲まずタバコも吸わない。嘉代子の作る料理を褒める事も少ないが家事を含めて文句を言った事も無く、仕事が終わると真っすぐに家に帰ってくる。1男1女を授かり、その2人も就職を機に家を出て行った。
達彦と嘉代子の間に何か問題があった訳でも無い。収入も安定し家のローンも去年完済した。本当に何も問題は無い。達彦はとても良い人であり良い夫であった。
嘉代子は何か秀でた物を持っている訳でも無く、特段美人でもなくスタイルが良いとも言えず今では俗に言う中年太り。若い時から男性にモテるタイプでも無く、それを自覚していた事からも刺激や高みを求めず安定を求めた。そんな安定志向の嘉代子には「公務員」と言う達彦の肩書きは魅力的に映り、15歳も年の離れた達彦に対して積極的なアプローチを経ての結婚であった。
達彦への不満は何かと聞かれても思いつかない。争いを避ける傾向がある達彦とは夫婦喧嘩もない。嘉代子から文句を言われても直ぐに謝り、可能な限り嘉代子の言う通りにした。そんな達彦であるから大した理由で無くとも争いを避けるために2つ返事で離婚に応じるだろうと考えていた。
退職までは残り2カ月弱。退職金は折半し残りの人生は1人気ままに生きていく。嘉代子はその2か月弱という期間をじっと待っていた。
だがそんな未定の予定は1通の葉書に依って無用となった。嘉代子がそれに気付いたのは朝の事であった。マンション1階のポストルーム。朝刊を取りに向かうと新聞と共にそれは投函されていた。それは一見すると公共料金の支払いに関する葉書に見えた。宛先には世帯主である達彦の名前でなく『橘嘉代子様』と記されていた事からも公共料金に関する物ではないと直ぐに判断出来た。
嘉代子は瞬時に目を見開いた。自分の名が記された宛先の横には赤い太文字で『終末通知』と記されていた。その葉書が意味する事に直ぐに気が付くと自然と口が半開きに唖然とした。
「新聞どうぞ」
ダイニングで朝食を食べている達彦に向かって新聞を差し出した。達彦は一旦箸を置いて「ありがとう」と軽い笑みを浮かべつつ受け取ると、それをテーブルの端へと置き再び箸を手に取った。
達彦は食事中には食べる事のみに集中する。テレビに目をやる事はあるが新聞を広げながら食べるという事はしなかった。以前に「食べている最中に新聞を広げないでくれ」と嘉代子に注意された事があり、それを素直に受け入れ食べ終わってから読む事にしていた。
嘉代子は終末通知が届いた事を言わなかった。言ったらどんな反応をするのだろうかと気にはなったが、離婚するつもりでいた達彦に対して言いたくはなかった。
朝食を済ませた達彦は何も知らぬまま気付かぬままに仕事へと向かった。家にいるのは嘉代子一人。朝食の後片付けを済ますとリビングのソファへと深く座り、心ここに在らずといった表情でテレビを眺めはじめた。「始まるうちに全てが終わった」と、そんな思いと共に無気力感が漂っていた。ただただ機械的に息を吸い息を吐いているだけだった。
嘉代子の掌には終末通知が力なく置かれていた。圧着ハガキと呼ばれる2つ折りのそれは既に開かれた状態だった。
『あなたの終末は 20XX年 8月12日 です』
見開いた葉書の中には大きな文字でそんな文言が記載されていた。今日は7月5日。嘉代子の終末日、嘉代子の命が消える日迄残り1か月と数日を意味する事が記されていた。
「何で今なのよ……」
嘉代子は天を仰ぎ大きな溜息をついた。あと2カ月弱で達彦が定年退職する。そうしたら自分は生まれ変わるつもりで離婚し、残りの人生を楽しむんだと思い描いていた。だがそんな未定の予定はたった1枚の葉書であっけなく消え去った。
ぼんやりと見ているテレビにはビルの屋上から投身自殺をした青年のニュースが映し出されていた。遺書も無く自殺の原因は不明との事だった。
自ら死にたいという人がいるのに何故に死にたくない自分が死ななければならないのだろう。いっそ自分の代わりとして死んでくれていたのなら……。そもそも何故に自ら命を棄てるのかが理解出来ない。いずれは誰にでも死は訪れる。待っていれば必ずやってくるというのに先回りして自ら死を選ぶ事が理解出来ない。どんな理由があったのかは知る由も無いが一体何を考えているのだろうか。
まるで置物のように微動だにしないままソファに座って昼過ぎまで過ごしていたが、空腹感に我を取り戻した。
「ふぅ。何もしなくてもお腹は減るのね。とりあえず何か食べておこうかしら……」
ソファから立ち上がろうとした瞬間、掌に置かれていた終末通知が床へと落ちた。面倒臭そうにそれを拾うとその葉書の中、『終末日』が記載してある右横の『終末ケアセンターの問合せ先』という記載に目が留まった。
◇
今宮克典が住むマンション1階にある集合ポスト。そこに今宮宛の終末通知が投函されたのは1週間前の早朝の事であった。
その約1か月前、今宮の妻と娘にも終末通知が届いていた。そして今宮宛の終末通知が届いた1週間前のその日、終末ケアセンターにて妻と娘の2人は揃って安楽死を迎えた。その日は3人揃って終末ケアセンターへと向かったが、誰もポストの中を確認せずにマンションを後にした。
今宮が妻と娘との別れを惜しんでいる最中も今宮宛の終末通知はポストの中にあった。妻子と永遠の別れを告げた後の失意の中、マンションへ戻った時にもポストに目もくれなかった。帰宅すると煽る様にして酒を飲み始めた。直ぐにでも酔いたかった。酔って眠りたかった忘れたかった。家族の事を忘れられるはずもないが夢であってくれと、そんな想いで飲み続けた。
翌日には二日酔いを覚えるも、現実を直視するかのように妻と娘の遺品整理を始めた。遺品整理など急いでする事でも無かったが他にする事もなくただただ気を紛らわしたかった。とはいえ論理的に物事を考えようと自分にも言い聞かせていた。妻子を亡くしたとしても自分の命は続くのだと。妻子の分も生きて行かなければならないのだと。だが現実を直視するのはとても難しかった。ただ何かをしていないとどうにかなってしまいそうな気がした。
遺品の中には娘が小さい頃に履いていた靴下があった。とても小さいピンク色のそれは妻が取っておいた物だった。「そんな物もう履く事は無いんだからとっとと棄てれば?」と口にした事もあったが、今となってはそんな物すら愛おしく思え、それを見つめているだけで涙が溢れた。そんな靴下1つに思い出を蘇らせているために遺品整理は進まなかった。
そんな一向に進まない遺品整理をしながら冷蔵庫や食品棚にあった食べ物のみで数日間を過ごし、食べる物が無くなった時点で数日ぶりに外出した。短く刈られた髪は寝癖が付いたままだった。歯磨きや洗顔はしていたが妻子が無くなる数日前から髭は剃っていなかった。ヨレヨレ皺だらけの薄手のシャツにスラックス。裸足のままにサンダルを履いて近所のコンビニへと向かった。コンビニの籠を手に日持ちしそうな缶詰を適当に選び、大きめのペットボトル飲料を数本を籠の中へと入れた。更に直ぐ食べるつもりで菓子パン数個を購入すると、それらが詰まったビニール袋を両手に店を後にした。
マンションまで戻って来ると玄関口付近の集合ポストに目が行った。数日間だけ放っておいただけではあったが、今宮のポストには差し入れ口からはみ出すほどにチラシ等が溜まっていた。見る気も失せるそれを放っておくかとも思ったが、集合住宅で暮らす上でその様な秩序を乱すような真似は良くないなと、その場で俯き目を瞑り深いため息を1つ吐くと、両手にもっていたビニール袋を床へと置いて、それらを取り出し一纏めに脇へと抱えると、再びビニール袋を手に上階の自宅へと向かった。
部屋に入ると脇に抱えたチラシの束をダイニングのテーブルの上へと無造作に放り置き、ビニール袋の中の缶詰やペットボトルを冷蔵庫や食品棚へとしまい込んだ。そしてビニール袋の中に残った菓子パンを手に取り早速噛り付くと、テーブルの上のチラシの束を1枚1枚確認し始めた。
宅配ピザ、不用品引取り、住宅案内といった沢山のチラシと共に公共料金の支払に関する葉書。その1枚も公共料金に関する何かに見えた。何気なく手に取ったそれは極最近目にした事のある葉書だった。宛名には『今宮克典様』と記載されると共に左横には目を引く赤い太文字で『終末通知』と記載されていた。
◇
今宮はつい1週間ほど前に妻と娘を看取ったその場所に来ていた。庭に面した正面が透明ガラス、残り3面の扉を含む壁全面が曇りガラスという秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの打合せスペース。その簡素な打ち合わせスペースの中、椅子に座る今宮のテーブルを挟んだ正面には終末ケアセンターの職員である井上正継が座っていた。
「今宮さん。今回は何といって良いか……」
井上はつい1週間前に今宮の妻と娘の安楽死に立ち会った職員でもある。まさかその1週間後にその今宮が再び訪れるとは予想だにしなかった。1週間前と比べ明らかに頬がこけ落ち痩せ細っているように見えた。元々細身ではあったが更に細くなっているように見えた。髭も一週間分伸び憔悴し疲弊しきっていた。虚ろに見える目はテーブルをじっと見つめていた。
「……まあ、非論理的な言い方になりますけど、これも天罰って奴なのかなって思ってますけどね」
「天罰ですか?」
「ええ。天罰としか……ほんとに何故なんでしょうね。いっそ妻と娘と一緒であればまだ納得もいくのに……。ほんと天罰としか思えないですよ」
妻と娘との別れをするその日の朝にそれは投函されたであろう事を思うと天罰としか思えなかった。それに気付いてさえいればせめて家族3人同時に逝く事も出来た。だがそれに一切気付く事無く妻子を見送り、数日後になってやっとそれに気付いた。これが天罰と言わずして何と言うのだろうと。人の生死は不条理で在って然るべきなのかもしれないがここまで不条理な事があるのだろうかと。これは天罰としか思えないと非論理的に考えた。
「プライベートな質問をして申し訳ありませんが、井上さんはご結婚されているんですか?」
「いえ、未だに独身ですが」
「そうですか。なら子供がいるという気持ちは未だ分からないでしょうね。家族を持つという気持ちが」
井上は今宮が自分と話す事に抵抗があると受け取った。井上は今年で27歳。50歳の今宮が年下の自分を相手にカウンセリングを受けるというのも抵抗があるのだろうと。
「私みたいな若輩者とお話をするのに抵抗がお有りでしたら別の担当者に代わる事も可能ですが如何なさいますか? ちょっとお時間を頂くかもしれませんが」
「あ、いや、そんなつもりじゃないです。不快に思われたのなら謝罪します」
「いえ、私は何とも思いませんのでお気になさらないように」
しばし無言の時が流れると、井上は持参していたタブレットへと目を落した。そのタブレットには今宮の個人情報が表示され、職業欄には「弁護士」と表示されていた。
「今宮さんは弁護士さんなんですね」
「ええ、刑事弁護を主としてやっていました。あれ? 私職業についてお話しましたっけ?」
「ああ、確度は低いですが職業に関する情報も分かるようになっているんですよ。まあ、それをお見せする事は出来ませんが」
「なるほど。そうなんですね」
「しかしこういう言い方は失礼かもしれませんが、弁護士さんとは縁も無く中々お会いする機会は無いので緊張しますね」
ふと今宮は思い出した。先々月位に今宮が弁護した事のある人物がこの終末ケアセンター最寄りの駅前で射殺されたという事件があった。それも現役警察官による射殺。とはいえ公務外による射殺でもあり、そもそも射殺された人物は犯人と呼ばれる存在でも無く、事実上一般人であった為に単なる殺人事件であった。
射殺されたのは広域に渡り複数の婦女暴行事件で逮捕された人物であったが今宮が無罪にした。殺害された時点では既にクライアント契約が終了していたので特に気にはしていなかった。幾人かの報道記者にその事件のコメントを求められたが拒否した。今宮とすれば弁護は単なる仕事の1つであり殺害された人物に何ら義理立てする必要も無いが、既に契約終了しているクライアントとはいえ弁護士としてそうそう話す事も出来ない。
万が一にもその警察官に弁護を頼まれれば射殺された被害者に何ら義理立てする事無く引き受けもする。あくまでも弁護士とは数多ある仕事の1つであり、そして一度引き受ければ全力を尽くすのみである。とはいってもその事件は昼間の凶行という事で目撃者も多数いる事から無罪というのは厳しい案件であることは容易に想像できた。戦略としては「心神耗弱で正常な判断が出来ない状態」という事で無罪を訴えるかと想像もしたが、その警察官はその場で別の警察官に射殺されたという事で被疑者死亡により事件は終了していた。
他にも自殺ほう助で逮捕された人物の弁護を依頼され取調室で以って一度だけ接見したが、その最中にその人物宛の終末通知が届いたという事で弁護する間もなく安楽死を迎えた人物もいた。その人物も今宮のいる終末ケアセンターで以って安楽死を迎えたと噂で聞いていた。
それ以外にも、今宮が所属する弁護士事務所の他の弁護士が担当した事のある人物もここで安楽死を迎えたと聞いていた。その人物は終管Gメンに拘束された後にそのまま安楽死を迎えたと。
「そうですか? まあそれなりに知識を要する国家資格ではありますが、世の中に数多ある職業の1つでしかありませんけどね。先生なんて呼ばれる事もありますが皆さんが勝手に言っているだけですしね。それに直接では無いにしても蜘蛛の糸位の縁はあったかもしれないですね」
「縁ですか? 私に記憶はないですが」
「噂で聞いたんですが、少し前に終末通知を貰った警察官がこちらの終末ケアセンターを訪れたとか。その方は少し前に○○の駅前で警察官に支給されている拳銃を使って一般市民を射殺した。その時の被害者の方というのが、過去に私が弁護を引き受けた事のある人物でしてね」
「ああ、あの事件ですか。ありました、ありました。ここの最寄り駅ですので大騒ぎだった事は覚えています。そうですか、その被害者の方の弁護をなさった事があったんですか」
当然井上は覚えていた。そもそもその射殺事件を起こした警察官がここの終末ケアセンターに来た時に応対したのは井上であった。その時にはそんな事件を起こす様にはとても思えない真面目な警察官という印象の人物だった。
事件が起きたのは昼間であり井上も勤務中であった。最寄駅で起きた惨劇と言う事もありそれは職員の間でも瞬く間に知れ渡る事になった。その後、警察官の行動確認と称して井上に対しても事情聴取がなされた。その事を今宮に話すつもりはなかった。既に故人とはいえ犯罪者であるはいえ個人情報であるからして話すつもりは無かった。
「そうですか。もしかしたら多少の縁があったのかもしれませんね」
井上は軽い笑みを浮かべつつ、はぐらかすようにして言った。その井上の表情を伺うかのようにして今宮はおもむろに目線だけをあげた。そして根拠無く井上がその犯人の警察官と面識があるように思った。
「まあ、今更ですしクライアント契約が終了している方の事なのでどうでもいい事ですけどね……。じゃあ赤村さんって方はご存じじゃありませんか?」
「存じませんね」
「……そうですか」
今宮は再び目線をテーブルへと落とした。赤村と言う名が出た時に井上の指先がピクリと反応したが、今宮はそれに気づかなかった。
今宮が口にした「赤村」という名前。井上はその「赤村」という名前の人物は自分がよく知っている赤村と同一人物だろうと瞬時に思った。それは1年ほど前までここの終末ケアセンターで井上と一緒に働いた人物。先々月にここで安楽死を迎えた人物。「スーサイドマスター」と呼ばれ個人の意思を最上位と考えるにあたって「自殺も尊重する」と言い放ち、自殺の意志を持つ見知らぬ人達を手助けし続けた結果「自殺ほう助」で逮捕された人物。そして終末通知を受け取るとあっさりと安楽死した井上の1つ先輩にして元同僚。
「因みにですがその赤村さんという人がどうかしましたか?」
井上は知らない振りをしながら聞いた。
「いえね、その人、自殺ほう助で逮捕されましてね、その自殺をほう助した人物の被害者遺族の方から私が弁護を頼まれまして警察まで出向いたんですよ。で、赤村さんとの接見中に赤村さん宛の終末通知が届きまして私はお払い箱になったというだけなんですがね。とはいえそれと時を同じくして私の妻と娘宛の終末通知が届いたものですからその話は後で同僚から聞いたんですけどね。まあ、その警察署から一番近い終末ケアセンターはここだなと思いましたので、ひょっとしたら知っているかなと思って聞いただけです」
「被害者遺族の方から加害者とも言えるはずの赤村さんという方の弁護の依頼があるなんて、随分と不思議な話ですね」
「ですね。私も依頼を受けた時には理解出来ませんでしたよ。まあ、事情を聞いたらそれなりに納得した、という感じですね」
「そうなんですか。存じ上げ無くて申し訳ありませんね」
「ははは、別にどうという話では無いですよ」
「しかし刑事弁護ですか。なら無実の罪で逮捕されたとかで救ってあげた方とかもいらっしゃったんですかね?」
「冤罪って事ですか? はは、どうでしょうね」
今度は今宮がはぐらかした。と言うより他人に話せる事では無い。そもそも事件における「真実」や「事実」はどうでもいいと考えていた。クライアントが極悪人だろうが何だろうがどうでもいい。証拠の有無、供述、状況、捜査の正当性、妥当性、そしてクライアントの意向。それらを総合的に考え、クライアントの意向に沿う様に理論を組み立て法廷で争うだけである。
物理的証拠が存在しないなら無罪を主張する。鮮明な映像証拠等、覆せない証拠が存在していれば過失を主張し、若しくは精神疾患、心神耗弱状態だったと主張し無罪を主張する。初期段階においては逮捕された事に動揺し本当の事を供述してしまうクライアントもいるが、その供述を180度ひっくり返えさせ警察の強引な取り調べがあった等、取り調べの不備を主張する。それら全てはクライアントの為。そしてそれが仕事である。真実と言う意味で真犯人であるのにもか拘わらず無罪に出来たケースが無いとは言えないが、それはクライアント以外に話して良い事では無い。法廷に於いての真実とは判決として確定した事こそが真実であると考えていた。
「まあ、どんな状況であれ被告の味方をするのが弁護士の仕事ですからね。被害者や遺族の方からは恨まれる商売ですよ。よく第3者からも脅迫電話やその類の手紙も来ますしね。『何で犯人の味方をするんだ!』『お前はそれでも人の子か!』『被害者の痛みが分かんないのか!』なんてね。ははは」
今宮は力無い笑みを浮かべつつ俯いた。そして自分の仕事を改めて思い返していた。
クライアントを守る事に全力を尽くす。被害者が存命死亡に拘わらず、時には尊敬尊厳を踏みにじる言葉を容赦なく口にする。それは仕事上の戦略でしかない。だがクライアントで無いなら興味は無い。自分が弁護した人物が懲役刑を終え社会に復帰した後に再犯に走る人間も少なからずいた。クライアントとして引き続き契約するなら全力でクライアントの望むことをするが、クライアントで無いなら関係無い。あくまでも契約であり仕事なのだ。国家資格とはいっても世の中の数多ある仕事と変わる物では無い。自分が弁護に携わった物の中には折角無罪を勝ち取ったにも拘わらず、気を良くしたのかあっという間に罪を犯して逮捕されるという者もいる。そんな時に言われる言葉は決まっている。
『犯人を野放しにしやがって!』『お前も同罪だ!』『何でそんな奴の肩を持つんだ!』
そんな言葉を電話やメールで言われる。言われている事は一理あるのかもしれないが、あくまでもそれが仕事である。無罪になったから社会に復帰しただけ。こちらに責任転嫁するのは筋違いである。仮にその言が正しいとするならば無罪判決を下した裁判官の責任は尋常ならざるものとなる。無罪を言い渡さずとも裁判官が言い渡した刑で更生されずに再犯を犯しても裁判官がその責任を取るなんて事は無い。無罪で無く執行猶予という判決を出した後の猶予中に同じ罪を犯すというのも存外良くある話である。それでも猶予判決を出した裁判官が責任を取る、何らかの釈明会見をする等という事は無い。
再犯を犯すのはむしろ社会に責任があり、更生を手伝う義務が社会にはある。故に弁護士に責任を求めるのは筋違いである。苦情の電話もあるがなあなあで対応する。一度の脅迫はよくある事でもあり無視するが、一線を越えたと判断すれば即座に法的措置を取るだけである。罪を犯した者に対し行政罰が下され、それが終了すればその後は社会がその者に付き添い更生を手伝っていくのが筋である。
実際には罪を犯したにも拘らず証拠の不十分さや捜査方法についてあれこれ指摘する事で無罪に出来たクライアントも居ない訳で無い。そういった事に対するのが今回の天罰。妻子が先に逝った直後に自分への死亡宣告に気が付いた。それこそが天罰ではないだろうか。そうで無いならこの不条理に納得がいかない。自然の理とは分かっていても怒りを覚えその怒りの向け先も分からない。故に天罰であるというなら少しは納得もできよう。
「じゃあ、そろそろお願い出来ますかね?」
「お願いと言いますと?」
「安楽死の準備を、と言う事です」
「……今日ですか?」
「はい。今日です。というより今すぐです」
井上は左手首の腕時計をチラリ見やった。
「今宮様、大変申し訳ありませんが本日安楽死を行う事は出来ません」
「……何故ですか? 前回みたいにカウンセリングを受けた後の別日でないと駄目なんですか? 既に身辺整理は済ませてありますし、あとはもう死ぬだけなんですよ? 私としては今すぐにお願いしたいんですけどね」
今宮は井上を睨むようにして言った。
「いえ、そう言う事ではありません。現在、時刻は17時を過ぎております」
「それがどうかしましたか?」
「当施設は朝9時から午後5時までとなっております」
「……公務員は残業が厳しいとでも言うんですか? この状況でそんな杓子定規な事を仰るんですか?」
「いえ、安楽死を行う為の『終末ワイン』が保管されている倉庫が開かないんです」
「開かない? カギを持っている方が帰ってしまったという事ですか?」
「いえ、夕方5時になると職員が持っている鍵では開けられないロックが自動的に掛かるんです。そのロックは明日の朝9時にならないと開かないんです」
「そんな仕組みなんですか?」
「はい。私も失念していました。もっと気を遣うべきでしたね」
本来であれば施設に初めて来たその日に安楽死をという相手である場合、一旦落ち着かせると共に悔いが無いように諭しその日は帰宅させるように努めているが、今宮に関しては妻子を失ったばかりと言う事で当日に安楽死を選択したとしても井上は受け入れるつもりでいた。だが既に17時を5分過ぎており、井上が持っている鍵で扉を開く事はできなかった。『終末ワイン』は劇物でもある事からそう言った厳重な管理の運用がされていた。
「そうですか……。まあ、そう言う事なら仕方ないですね……。別に絶対に安楽死でなければ駄目という訳じゃないですしね。そもそも死ぬ方法なんていくらでもありますしね。『何時何処で』って言うだけですけどね。いっそ駅のホームから――」
「今宮様」
今宮の本気か冗談か分からない言い様に井上は言葉を遮った。
「……冗談ですよ。折角福祉としての安楽死なんて制度が用意されているのに、わざわざ社会に迷惑をかけるような死に方を選びませんよ。ははは」
「……」
「そういえば1つ気になっていた事があるんですが」
「はい、何でしょうか?」
「ここに来る人達って要はもうすぐ死ぬ人達ですよね? その人達とカウンセリングにしても何にしてもこの部屋は会話をするには随分と壁と言うか仕切りが薄いですよね? 大きい声で話すと隣に聞こえてしまいそうな感じですけど、それで大丈夫なんですか?」
「ああ、その事ですか。大丈夫ですよ。というより、お話をしている最中に逆上する方も稀では御座いますがいらっしゃいますのでね、防犯と警備の意味もあって敢えて外から曇りガラス越しに見えるようにしています。ガラスは強化ガラスですのでそうそう割れると言う事もありませんしね。話声も大声でなければほぼ聞こえませんよ。壁に耳を立ててたりすればその姿も見えますしね」
「ああ、そう言う事ですか」
今宮は得心がいった。今も隣には誰か居る様子が伺えるが話し声までは聞こえない。
「じゃあ、とりあえず今日は帰る事にしますよ。明日、改めて伺う事にしますので、その際には宜しくお願い致しますね」
今宮は席を立ちながら力ない笑顔でそう言った。その言葉には釘を刺すという意味が込められているのを井上は感じ取った。そして井上に向かって軽く頭をさげるとそのまま部屋を後にし、井上もその後を追って玄関の外まで見送った。
終末ケアセンターから最寄り駅までは約2キロ。既に夕刻でもある事からして周囲は薄暗く、街灯も少ない道を今宮は徒歩で向かっていた。
ふと、背後からの足音に気が付いた。今宮はヨレヨレの半袖シャツに薄いブルーのジーンズに茶色のカジュアルな皮靴を履き、そして寝癖も残る頭髪に1週間以上伸ばした不精髭という様相だった。そんな自分を追う人間がいるとも思えなかったが少しだけ気になり、道の角を曲がる際にチラリと後ろを見やった。薄暗い中で確かな判断は出来なかったがチラッと見えた服装の感じからすると自分と同年代の女性に思えた。とはいえ何をされる気配もないようだったので気を取り直し駅へと歩を進め、30分程を歩き続けて駅へと到着すると携帯電話を取り出し改札へと向かった。
「あの……」
今宮が改札を通ろうとしたその時、後ろからそんな声を掛けられた。その声に足を留めてその場で振り返ると、そこには先程一瞬見えた中年の女性が立っていた。
「私に何か御用でしょうか?」
「不躾で申し訳ないのですが、先程終末ケアセンターにいらっしゃいましたよね?」
「はい、居ましたがそれが何か?」
「あ、いえ、実は私、あなた様の隣りの部屋でカウンセラーの方とお話していたもので」
「ああ、そうだったんですか」
「ええ、そちら様がお帰りになった少し後に私も帰路についたので、一方的に私の方が御見かけしただけですけどね」
「そうでしたか。それで私に何か御用ですか」
「あ、いえ、用という訳では無いのですが、その、同じ境遇の方というか、私と同じく終末通知を貰った方と、その、何か、お話出来ればなというか、その、少しお時間ありませんか? その、軽くお茶だけでも結構ですので……」
おどおどしながら話す女性を見つめながら今宮は考えた。自分がなすべき事は死ぬ事だけ。それは明日に延期された。ならば何を急ぐ事も無く目の前の女性が何を話すのかに興味が沸いた。
「まあ、急ぐ用事がある訳でも無いので別に構いませんが」
そう言って周囲を見渡すと、煌々と光きらめく居酒屋の看板が目に留まった。
「じゃあ、あそこの居酒屋で如何ですか? アルコールを飲む飲まないは別としてソフトドリンクはあるでしょうし、軽い食事も出来ると思いますが」
居酒屋に入った今宮と女性は店員の案内により4人掛けのテーブル席へと案内された。座ると直ぐにオーダーを聞かれて2人ともにビールを頼んだ。そして1分も経たないうちに運ばれてきた2杯のビールジョッキをそれぞれが手にした。
「ではとりあえず乾杯……というのも変ですね……」
「そうですね」
2人は苦笑いをしながらそう言って、乾杯しないままに口にした。
「そういえばお名前を聞いてませんでしたね」
「あ、すいません。私『橘嘉代子』と言います。よろしくお願い致します」
「私は今宮克典と言います」
そう言って今宮はジーンズのポケットから財布を取り出し、中から1枚の名刺を取り出すとテーブルの上、嘉代子の前へと差し出した。嘉代子はビールをテーブルの上へ一旦置くと、名刺を手に取った。
「……あら、弁護士さんなんですか?」
「ええ、こんな身なりで嘘に思えるかもしれませんが弁護士をしています。何か御用命があれば事務所までご連絡下さい……といっても、もうじきこの世から消えるんですけどね、はは」
「それはお互い様ですね、ふふ」
今宮も嘉代子も自虐的な言葉に作り笑顔を見せあった。
「でも、少しホッとしたというか、何と言うか……」
「終末通知を貰ってホッとしたって事ですか?」
「あ、いえ、そういう事では無く……。自分以外にも終末通知を貰っている人が現実にいるんだなと思って……」
「ああ、そう言う事ですか。まあ、月に1万人程度が受け取っていると聞きますよ? それほど珍しい事でもないと思いますけど?」
「まあそうなんでしょうけど、私の身近で終末通知を貰った人がいなかったものですので、ちょっと怖かったというか……なので、実際に居たという事で思わず今宮さんに声を掛けてしまったというか……」
今宮にしてみれば先月は妻子の終末通知を受け取り今月は自分が受け取ったので珍しいという感覚は無かった。が、嘉代子の言葉を聞いてもしも妻子よりも先に自分が終末通知を貰ったならば、嘉代子のように不安になったり怖くなったりしたのかもしれないなと思った。
「なるほど。そうですね。そうかもしれないですね。いきなりこんな死亡予告みたいなものを貰ったら不安になるかもしれませんね」
「今宮さんは怖くなかったんですか? 不安にはなりませんでしたか?」
嘉代子は今宮の左手薬指に光る指輪に気が付いた。今宮もその視線に気が付いた。
「あ、すいません。思わず声を掛けてしまいましたけど、奥さまに申し訳無い事をしてしまいましたかね?」
「大丈夫ですよ。問題ありません……もう、大丈夫です……大丈夫なんです」
今宮は自分の左手薬指をじっと見ながら言った。
「あ、そうなんですか。心の広い奥様ですね」
「いえ、そう言う事では無く……もう居ないんです」
嘉代子はその言葉を「離婚したから居ない」と受け取った。
「あの……その……こんな事を聞いて良いのか分かりませんが……」
「ん? 別に聞いて構いませんよ。言えない事は言わないだけですので」
「では、お言葉に甘えて……あの、今宮さんは『安楽死』なさいますか?」
「はい、そのつもりです。本当は今日するつもりだったんですが時間の制約があるとかで明日に延期になりました」
「そうなんですね……」
「それが何か? 因みに橘さんはどうなされる予定なんですか?」
「正直迷っています……その、楽に死ねるっていうのは魅力的なんですが、なんというか、予定よりも早く死ぬって事に踏ん切りがつかないと言うか、死ぬ事が不安と言うか、怖いというか……」
「ああ、なるほど。そうですね。確かにそうかもしれませんね」
今宮は嘉代子の言葉が理解できた。妻と娘は安楽死を選択した。がしかし、その場においては妻も娘も泣きじゃくり最期を迎えるまでに相当の時間を要した。いくら楽に死ねると言ってもそもそも死ぬ事が怖い。自分がこの世から消える事が想像できない。最後は2人揃って勢いで以って最期を迎えたという状況であった。それはつい1週間前の事である。その光景は今も鮮明に目に焼き付いていた。
「かといって、終末日に苦しんで死ぬっていうのも嫌と言うか不安と言うか……怖いというか……」
「そうですね。そうかもしれませんね……私の妻と娘もそれが怖いという理由で安楽死を選びました」
「……え? 奥さまとお子様ですか? 安楽死って……お亡くなりになったんですか?」
「ええ。つい1週間前の事です。いまでも事切れた妻と娘のその姿が目に焼き付いて消えません」
「あの……その……ほんとに申し訳ありません。私てっきり奥さまとは離婚なさったとばかり……」
「いえいえ、そう思わせたのなら私の言い方にも不備があったという事でしょうから気になさらないで下さい」
嘉代子は気まずさを覚えた。まさか今宮の妻と子が終末通知を貰っての安楽死で亡くなったとは想像だに出来なかった。今宮も気まずさを感じた。妻と娘の事を言う必要は無かった。思わず言ってしまったが少し無神経だったろうかと直ぐに反省した。
「そういえば、橘さんはお話になったんですか?」
「話? 誰にですか?」
「あ、いえ、その、橘さんの旦那様にと言う事です」
今宮は嘉代子の左手薬指に光る指輪をチラリと見やり言った。
「……ああ、私の夫に、という事ですか」
嘉代子も自分の左手薬指の指輪を見ながら言った。
「いえ、話していません。というより、そもそも……」
嘉代子はそう言いながら俯いた。今宮は話を変えるつもりで聞いただけだったが、何か聞いてはいけない事だったのかと思い、先の事といい自分の無神経さに落胆し俯いた。
「あ、別に何かあったわけじゃないですよ」
今宮の様子に何か勘違いされたと思った嘉代子は繕うように手を振りながら言った。
「まあ、画餅に帰したというか、取らぬ狸の何とやらというか……実は私、離婚するつもりだったんですよね」
今宮は聞いてはいけない事で無かった事にまずは安堵した。しかし「画餅に帰した」と言う言葉に引っかかった。
「それは離婚調停が上手くいかないとか、相手が全く応じないとか、そう言う意味ですか?」
「いえ、そんな事では無いんですよ。まだ離婚の『リ』の字も出ていない段階ですしね」
「家庭内暴力とか旦那さんが全く働かないとか、そう言う理由ですか?」
「いえいえ、そういった事は何もありません」
「……そうですか」
今宮は嘉代子が何を言っているのか理解出来なかったが、離婚の話を嬉々として聞く訳にも行かずそんな曖昧な返事をした。
「むしろ何も無いんですよね。順風満帆。1男1女を授かってとりあえず成人もして2人とも家を出て暮らしています。まあ贅沢三昧という訳でもありませんが、それなりの余裕のある生活が出来ています。そうですね……本当に何も無い、至極平凡といった夫婦関係です」
「すると離婚したいという理由と言うのは?」
「楽しくないから、つまらないから、だから離婚したい。と言う事なんですけど、今宮さんからしたら馬鹿みたいに聞こえるでしょ?」
嘉代子は笑って言った。安定を望んだが故の平凡に何かが足りないという感覚。特別豪勢な生活を望んだつもりもないが満たされない。身分相応なのだろうがこのまま終わるのが何となく嫌というそんな理由。誰にも理解されないであろうその理由。目の前の今宮も理解はしないだろうと嘉代子は思った。
「ん? う~ん、そうですね。あまり離婚の弁護については良く分からないのですが、あまり聞いた事のない理由ですねとしか……旦那様に不満があるとか暴力を振るうとかでは無いんですね?」
「ええ、全くありませんよ。暴力なんて振るわれた事は一度もありません。育児も手伝ってくれてましたし家事の手伝いもしてくれますし、仕事もきちんとしてくれてお給料も私が預かって管理しています」
やはり今宮には理解出来なかった。「楽しくないから」というのがどういう事なのだろうと頭を巡らすも全く分からなかった。
「今宮さんは弁護士さんなんですよね? 私が今言った理由で離婚するのは難しいですか? まあ今更ですけど」
「う~ん、私は刑事弁護が主なので確実な事は言えませんが、今のお話を聞いている限りですと婚姻関係が破綻しているとは思えませんので、旦那様が了承しない限りは難しいんじゃないでしょうかね? 話を聞いている限りは夫婦関係も良好に思えますし、家庭に於いてどちらかと言えば旦那様より橘さんの方が主従の主であるようにも聞こえますし離婚する理由が見つからない感じがしますけどね」
「あはは、でしょうね。私も自分で言ってて可笑しいと思いますしね」
「……はあ、そうですか」
「でも……ま、終末通知を貰ってしまったので全てはご破算になりましたから、今更どうでも良いんですけどね」
「ちなみに橘さんは離婚した後はどう過ごされるつもりだったんですか?」
「残りの余生を1人気ままに生きて行こうって思っていただけです。もうすぐ夫が定年退職するのでそれを機に離婚して退職金も折半してもらってね」
「はあ、そうなんですか……」
「安定を求めて公務員の夫と結婚して、子供が生まれて成人まで育て、近所の奥様連中とおしゃべりするというだけの人生。至極平凡な人生でしたね」
「……はあ、そうですか」
今宮は嘉代子が「平凡」という言葉をネガティブに捉えているなと思った。「平凡というのは悪い事では無いんですよ? それを維持するというのは実に大変な事なんですよ?」と、本当はそう言いたかったが口には出さなかった。嘉代子が安定を求めて公務員の肩書を持つ夫と結婚したのは間違いでは無いだろう。自分の弁護士と言う肩書も楽では無い。仕事がなくなる可能性は常にある。営業活動を積極的にしている訳では無いが公務員と比べて安定しているかと言えばそうとは言い切れない。時期や案件によってはそれなりの報酬を得る事も出来るが、良くも悪くも不安定とも言える。
かといって嘉代子の考えを否定するつもりは無い。それはその人の価値観で有りその人の生き方の問題である。仕事柄そんな人間を多く見てきたし付き合ってもきた。色々な考えを持つ人が世の中にはいる。ただそれだけの事である。
「不満なんて無いはずなのに私みたいな理由で『離婚したい』なんて考えたから天罰が当たったかしらねえ……」
「天罰……ですか……」
今宮は苦笑いをした。自分と同じように終末通知を貰った事を天罰と称する人が目の前にいる。そして『私なんて世間から犯罪者と呼ばれる人達の味方をする商売ですからね。私の方こそ天罰ですよ』と、心の中で呟いた。
「じゃあ、今宮さんは離婚とかは一切扱わないんですか?」
「ええ、刑事弁護専門です。そういう案件が持ち込まれても民事を扱う同業者を紹介するだけですね」
「弁護士さんって何でも扱うのかと思ってましたけど違うんですね」
「そうですね。資格としては問題ありませんが、専門としてやるのが普通では無いでしょうかね。民事と刑事で大きく分かれ、民事だと離婚や近所トラブルといった案件を扱う人や、企業の法務部に入って法的な仕事をするとか、はたまた弁護士だらけの会社で企業のM&Aといった買収等に従事する人とか色々いますね」
「じゃあ今宮さんの刑事弁護って殺人事件とかを扱ってらっしゃるの?」
「そうですね。殺人と言うか刑法で容疑が掛かった人全般が対象という事ですかね」
「じゃあ今宮さんも『先生』って呼ばれているんですか?」
「まあ、そう言われる事は多いですね。別に名前で呼んで頂いて良いんですけどね。勿論、こちらから強要した事もありませんし」
「あの、こんな事聞いて不快に思ったらご免なさい」
「ん? いいですよ。同じ境遇の橘さんですし、酒の席と言う事もありますしね」
「刑事弁護って事はいわゆる凶悪犯って呼ばれる人の弁護もするんでしょ? 『犯人は心身耗弱の状態だったから無実だ』なんて感じで。そういうのって実のところ弁護士さんからしたらどう思ってるのかしら?」
「どうと聞かれても困りますけど……。とりあえず判決が確定するまでは『推定無罪』の原則があり、まだ『犯人』では無く『容疑者』『被疑者』です。まあ橘さんの様に『なんでそんな奴の味方をするんだ』みたいな意見を言われることも多いですね。私の事務所なんかにも苦情の電話やメールとか多いですしね。でも、それが刑事弁護士の仕事ですしね。周りがどう言おうと被疑者、被告人の味方を全力で尽くすという仕事なだけですね。先程橘さんが仰った言葉も仕事上で必要だから使うだけです。そういった弁護士がいないと被告人は1人で法廷に立って周りから責められるだけの魔女裁判になってしまいますからね。現代の司法の場に於いて我々の存在は必要なんですよ」
「でもテレビとか見てると凶悪事件なんかを担当している弁護士さんが時には酷い話で犯人を庇ったりするじゃないですか? ああいうのは見ていると、なんかね……」
「酷い話というと?」
「なんか妖精が耳元で人を殺せと囁いたから殺したと、犯人……じゃなくて容疑者? 被疑者? が言っている。当時は正常な判断が出来ない状態だから無罪だ、なんてね。何でも病気にせいにすれば良いっていうか……。『反省してます』なんて言葉もね。明らかに嘘だよねって理由で助かろうとしているっていうか」
「ああ、そういう事ですか。でも紙一重だと思いますよ。私のクライアントの殆どはいわゆる普通の人です。酒に酔ったからとか、突然カッとなったとかで罪を犯した人が殆どです。まあ全員ではありませんけどね。それまではいわゆる善良な一般人だった訳です。それが一瞬にして一夜にして被疑者、容疑者と呼ばれる訳です。そういう人の中にはそれまでは犯罪者に対して厳しかったりする人もいる訳ですが、一瞬にして一夜にして自分が容疑者になり犯罪者と呼ばれる訳です。それはほんとに紙一重です。普段は温厚な人で怒った所を見た事が無いなんて言われる人もいます。それが堰を切ったように感情が爆発する。いわゆる理性を失うという状態になるわけです。ほんとに紙一重ですよ。ほとんどの人は理性を失うリスクを持っているというしかないですね。そうすると私達の出番になる訳です。そういった人達を助ける、味方をするのが我々の仕事です。殆どの人は自分が当事者になって初めて事の重大さ、世間から叩かれるという事、社会から棄てられるという事を認識し味わう訳です。その状況に陥れば多くの人は嘘を付く事もあるでしょう。若しくは徹底的に黙秘を貫くかもしれません。そしてそれは悪では無いと思っています。保身の為か家族を守る為か、組織を守る為か、若しくは誰かに強制されているかはともかくとしてね。『嘘つくんじゃない!』なんて言う人もいるでしょう。が、証拠が無いなら嘘を付いているかどうかは本人しか知りえないんです。印象だけで『それは嘘』だと言っても意味はありません。だってそうでしょ? 嘘かどうかなんて分からないんですから。『そんなの常識だろ?』なんて言葉も無意味ですよ。自分を救う為にあらゆる手段を講じる。それは間違っていますか? よくある話ですよ? 明日は我が身と思いませんか? 運と言っても良いかもしれません。単純に運よく巻き込まれていないだけかもしれません。そんな状況になったらどんな手段を用いてでも助かりたいと思いませんか? 自分を擁護してもらいたいと思いませんか? といっても、こればかりはその状況にご自身が置かれないと分からないかなとは思いますけど」
決して高圧的でもなくあくまでも諭すように、ゆったりとした口調で今宮は言ったが、嘉代子は「やはり弁護士とは理屈っぽい人だな」と思った。
「う~ん。でも助かりたいからって嘘にしか聞こえない言い訳までするのは納得行かない気もするけど、そういう風に言われるとね……」
「戦略であり戦術と理解してくれて良いんですけどね。そして我々はクライアントに取って不都合な事は表に出さず、ただただクライアントを全力で守るという仕事をしているだけなんですけどね。まあこんな事をいうのは何ですが自分が被害者で有れば色々言いますし晒け出しますけど、加害者となったら隠れよう、隠そう、もみ消そう、隠蔽しようというのは身を守るという意味では当然ではないでしょうか? 政治家だってそうでしょ? 野党時代は政府に対してちょっとした言い間違いにすら厳しい追及するけどいざ与党、それも内閣に抜擢されたらのらりくらりと曖昧な答弁に終始するでしょ? 官僚が用意した文書を読むだけでしょ? 若しくは辞任して沈黙を貫くでしょ? それと似た様な物ですよ。でもそれは悪では無い。立場によって人の意見や意志は180度変わったりする事は何ら不思議な事では無いですよ。それにちょっとした言い間違いでボコボコに叩くような感じは行き過ぎた潔癖症だなとは思いますけど」
「何だか論点をすり替えられているような気もしますし、騙し合いと言えなくもない気がしなくもないですが……」
「すり替えているつもりもないですし騙し合いと言われるのはちょっとあれですけど、ぶっちゃけポーカーゲームと言えなくも無いかもしれませんね。ははは。何かを守る為に嘘を付く黙秘する。それは決して悪では無い」
「色々と曖昧な気がしますが、まあ、そういうものなんですかね」
「まあ、諸々の意味で、そう言う物ですね」
「それとニュースとかで顔をモザイクにするのも意味分からないわよね? 何故かしらね? モザイクにする必要あるのかしらね? 顔が出れば市民も安心するんじゃないのかしらね? 海外じゃモザイクがかかるなんて事無いでしょ? 子供でもモザイクかけないでしょ?」
「確かに他の国とは違って日本の場合にはモザイク文化というか昔から隠蔽気質であると言えますかね。いかがわしいビデオにしろ個人にしろ組織にろ、隠そう隠そうという意識が強いとは思いますね。臭い物には蓋をすると言いますかね。綺麗な言い方をすれば武士道精神が今も生きている、とでもいうんですかね? 『お家の恥だ』なんてね」
「ああ、ありそうですね」
「ええ。日本の場合には個人の罪が家族と云ったお家単位で考えられる所があると思います。実際に個人が罪を犯せば『容疑者の家族親族も犯罪者』なんてレッテルも貼られかねませんしね。場合によってはその家丸ごと村八分にする国民性とでもいうんですかね。故にモザイクを掛けたり匿名にしたり皆で隠そうとするという事かもしれません。まあ、近所に住んでいればモザイク等で隠した所で直ぐに噂は広まるでしょうけどね」
「確かに地元でそういう人がいたら噂にはなるでしょうね」
「その弊害として噂に出てくる人物に似ているという理由で全くの赤の他人がバッシングに会うという事も稀にあるらしいですけどね。まあ、隠されると見たくなるのが人の性でもありますからしょうがないと言えばしょうがないですけどね」
「う~ん。確かにそういう弊害はありそうですね……」
「ただでさえ醜聞、スキャンダルが好きな国民性でもありますからね。不用意に身元が晒されると流言飛語も飛び交いますしね」
「私はそんなにでも無いと自分では思いますが……まあ、何とかは蜜の味って言いますもんねえ。尾ひれが付いて噂が1人泳ぎというか一人歩きすると言うか。だったら尚更隠す必要は無いとは思いますどね?」
「先程の弊害の話もあるのでどちらが良いとは言い切れない所も確かにありますが、公表すればその人の人生に大きな影響を与えますからね。一度の失敗、軽微な罪であるのならばそこまで批判される事もない。反省すればいい、経験とは学びである、これを糧に正しく生きる事を優先するという事ですかね。罰を与えるよりも更生を優先させる。依って世間に公表せずに隠すという事はあっていいと思いますけどね。それ故のモザイクという事ですかね。といってもそれはあくまでも軽微な罪についてですけどね。まあ未成年の場合にはこれからの長い人生に対して更生を優先させるという事ですね」
「でもそれはそれで正しく伝えるという考えとは矛盾しますね」
「正しく伝える。知る権利という事ですか?」
「まあ、そこまで大げさに言うつもりはないですけど……」
「確かに知る権利というのは民主主義の下では大事な事だとは思いますよ? 全てを知った上で誰に投票するかを決めると言う事ですし、常に行政の監視を民衆が行うという事でもありますからね。その点に於いては弁当箱と言われる書類を行政が平気で提出してそれを議員が正せないという日本の民主主義はなんちゃって感は否めないですね」
「別に政治はどうせ変わらないでしょうからどうでもいいんですけど、もっと身近な犯罪者の情報についてはもう少し知らせて貰わないと困るんですけどねぇ」
「まあ、性被害の場合には被害者を守る観点から逆に加害者を秘匿する事は必要とも言えますかね。それにもしかしたら無罪、冤罪、誤認逮捕の可能性だってありますからね。警察からしても保険て事でモザイクは有難いのかもしれませんね。とりあえず私達からすると皆さん厳しすぎると思いますよ? 大抵そう言う人達は自分がその立場になって世間の厳しさに気付く事になるんですが」
「冤罪や誤認逮捕を懸念してのモザイクという話は置いておいて、重い軽いに関係なくやらかした人についてそこまでしてあげる必要があるんですかね?」
「仰りたい事は分かりますが、そもそも罰を与える事が目的ではなくて更生させる事が目的なんですよ。排除が目的では無いんですよ。モザイクが掛かる人にしてもモザイクが掛からない様な重大な罪を犯した人についても殆どの人は社会復帰してこれからも生きていかなければならないんですよ。未成年であればその期間は本当に長い物と言えます。しかし往々にして前科があると受け入れてくれる場所は限りなく少ない。更に言えば家族にそういった人がいるという事で拒否されるケースもあります。常に過去が付きまとう」
「それはある程度致し方ないって気もしますけどね。また何かするんじゃないかって思うのは理解できますけどね」
「現代の司法ではそれを社会が受け入れなければならないという前提にあるんですよ。とはいえモザイクを掛けても晒し暴く人もいます。何の目的かは分かりませんが社会復帰した人を『過去にこんな事をしていた』と中傷するかのようにして晒す人も居ます。それを『正義』と勘違いしてやっているのかもしれませんけど、そんな世の中は生き辛いと思いますけどね。そもそも往々にして違法行為なんて皆が皆してるものですよ? 自転車に乗れば大概違反なんてしてるんじゃないですかね? 少なくとも私は信号のある交差点を左折するのに赤信号だから止まるなんて自転車を見たことはありません。というか私も左折時には信号なんて守ったりしませんしね。歩道走行に始まり、無灯火、脇見、蛇行、斜行、逆走に信号無視等、言葉にしたら暴走族と変わりませんよ? むしろ大音量や派手な灯火類を装備する事でそれが近づいてくる事が分かる分、暴走族の方が迷惑ではあるけど安全かもしれませんよ? 歩いていても横断歩道が無い車道を横切った経験はありませんか? 車が来ない交差点の赤信号を渡った事ありませんか? それを注意されたら逆ギレして暴行傷害に及んで事件化して捕まったら謝る。後で何かしらの方法を以ってばれたら謝るとかね。他にも我を忘れる程に酒を飲んで迷惑をかける人は大勢います。時には逮捕されるような真似をしでかし翌日には酔っていて覚えていない、なんてね。皆、そんな物ですよ?」
「まあ、赤信号を自転車とか歩いて渡ったとか位なら別に何て事はないですけど……」
「でも違法ですよね? 違法でも許す許さないは結局個人のさじ加減ですよね? 例えどんなに交通量の少ない田舎道で明らかに他の通行車両や人が居ないと断言出来る状況に於いても、車が信号無視していたとしたらそれは悪い事だと皆さん非難しますよね?」
「う~ん。殺人と赤信号を渡った事とを一緒にするのは、ちょっと極端な気もしますけど」
「ですね。それは刑法でもありませんし。まあ確かに極端な話ですが正しさを追求し公平平等を強調し続ければ赤信号を渡った、横断歩道でない道路を横切ったというだけでもそのうち叩かれるなんて事になりかねませんよ? 密告社会になりかねませんよ? 法曹界に身をおく私が言うのも何ですがそれなりのルーズさ、寛容さは必要かなと個人的には思いますけどね。腹八分目、程々。そんな言葉の通りいくら悪いからっていって何でもかんでも悪だ何だやっていたら息苦しい生き方を強いられる事にもなりかねませんよ? まあ、皆さんが国民総監視社会且つ清廉潔白で無いなら即退場といった社会を望んでいるのでなければ、という話ですが」
「ちょっと極端過ぎに聞こえるけど……。ただ、そうは言ってもねえ……。頑張って仕事しても報われないって思わないんですか? 言い方は悪いかもしれませんが犯罪者の味方をするような仕事でしょ? もしも自分の身近な人が被害にあったらその犯人の弁護なんて出来ないですよね?」
「まあ、身近な人が被害者だとしたらそんな案件は弁護士会からも廻ってきませんし、直接依頼が来たとしても引き受けませんけどね。万が一引き受けたとしたら容疑者被疑者被告の為に全力を尽くしますよ。それが我々の仕事ですしね」
「でも罪を犯した人でしょ? 仕事とはいえ虚しいでしょ?」
今宮は嘉代子のその言葉にふと若い頃を思い出した。小さい頃は警察官同様に弁護士と言う職業が「正義」という言葉が似合う職業に思えたが、大学生になり司法試験を受ける頃には単なる国家資格の職業としか思っていなかった。猛勉強の末に無事に司法試験という難関を突破しとある弁護士事務所に見習いとして採用され、事務所の先輩弁護士に付き添いながら勉強していった。その過程においては「外道」とも呼べる人間の弁護をする場面に遭遇した事もあった。今宮自身は無意識だったがその時の顔が明らかに不貞腐れ納得できないと言った表情だったようで、後にその事で先輩弁護士に説教された。
『今宮よぉ。これは仕事なんだよ。今は司法試験に合格したばかりだから納得出来ないとか有るかもしれないから余り強く言うつもりは無い。こればっかりは経験を積んでいく事で解決する事だとも思っているしな。だから納得しろとは言わないけど言うだけは言っておく。俺達の仕事はクライアントを如何にして有利な結果に導くかが第一だ。世間の声なんて気にするな。周囲の人から好かれたいとか考えるな。仕事として割り切れ。相手がどんな奴だろうが関係ないんだよ。結果が全てなんだよ。どんなに綺麗事並べても裁判で勝てなければ意味無いんだよ。勝てずとも有利な結果をクライアントに与えられるかが大事なんだよ。そうでないと次の仕事に繋がらないんだよ。勝てる弁護士でないと依頼は来ないんだよ。優秀と認められなければ次に繋がらないんだよ。お前は銀行から下ろした札を見てそれが汗水流して得た物なのか、詐欺や窃盗強盗で得た物なのか判別できるか? 出来ないだろ? 汗水流そうが血に塗れていようが金の価値は変わらないだろ? 感情は要らない。理論のみでいいんだよ。如何にしてクライアントを有利な方向へ導けるかという理論だけでいいんだよ。その理論が世間から非難されてもいいんだよ。そういう仕事なんだよ。今すぐに理解しろとは言わない。そういう仕事なんだと頭の隅にでも入れてあればその内に今の言葉がすんなりと受け入れられる時期が来るからよ。俺もそうだったしな。だからせめてクライアントの前では不貞腐れるな仏頂面を見せるな。作り笑顔でも構わない。まあ、笑わなくてもいいけどよ。いいな?』
その数年後、先輩弁護士の言う通りその言葉は正しいと思えるようになっていた。今ではどんな凶悪な刑事事件であろうとも一つの仕事としか見ていない。一般の会社同様に仕事として受注するだけ。受注したその仕事が殺人事件の弁護や万引きといった窃盗事件の弁護というだけであり、そこに感情は必要ない。報道やネットでは感情的な意見が躍るが気にしない。気にしていたら仕事にならない。如何にクライアントに対して良い提案が出来るか、そして良い結果を提供できるかを理論的に考えるだけという世の中に数多ある仕事と何ら変わる事は無い1つの仕事。
既に20数年刑事弁護をやっている。こちらが分が悪いと思えば頭を丸める事や反省文をテンプレートで勧める。裁判官にはあまり通じないと言われてはいるが印象心象を考慮し髪が長ければ短髪に、若しくはキッチリと後ろで結ばせる事を勧める。染めた髪色であれば黒に染めることを勧め黒いスーツを勧める。低頭平身を匂わせながらも核心に触れる言動は慎ませそれを自分達が請け負う。
凄惨な事件にも出くわした。自分でも「感情」が薄くなったという実感がある。涙もそうそう出ない。言葉のみで理論を持って訴えかける。それが自分達の仕事。自分の事務所に新米弁護士が来たときにも先輩弁護士に教えられた言葉を同じように伝える。
「虚しいという事もないですけどね。国家資格が必要ではありますけど世の中に数ある仕事のうちの1つであり、それなりにちゃんと報酬も貰えていますしね」
嘉代子の脳裏に『お金の為なら何でもするの?』という言葉が過ったが、流石に失礼過ぎるなと思い口にはしなかった。
「でも、私達一般市民からするとやっぱり犯罪者が近くにいると思うと怖いと思います。それを早々に社会に放つよう真似をしているとも言えるじゃないですか。そういうのって弁護士さんからしたらどう思うんですか?」
「そういう意見の電話等も頂きますね。罪を犯した者は一生刑務所に入れておけとかね。でもそれだと逆に怖い社会だと思いますよ?」
「怖い? どうしてですか? 悪い事をしたら退場してもらうって事ですよね? そんなに怖い事でしょうか? むしろ考え方としては自然じゃないのかしら?」
「それって何かしでかしたら一生刑務所に入れておけ、再起不能にしろって事ですよね?」
「流石にそこまでは言うつもりはありませんけど……。そうね、1回位の軽い過ちだったら別にいいと思うけど」
「更生には期待しないという事ですか?」
「更生できない人もいるという事です」
「それでも更生ありきで司法と言うか社会は成り立っています。一度罪を犯したとしてそれを永遠に引きずる事は是ではありません。そうして厳しくしすぎるとお互いが監視しあう総監視社会みたいになると私は思いますよ? 何かしでかしたらすぐに通報して社会から退場してもらう。そして一生日陰で暮らして貰う。そんな社会になりますよ? 先程も言ったように往々にして人は法を犯している物です。この国には自治体の条例を含めてありとあらゆる法令が存在しますが、多かれ少なかれ人は法を破っているものです。法を犯していないのは自分で歩く事の出来ない人位ではないでしょうかね?」
「でも先程の話は極端すぎますよ」
「極端であっても先程も申した通りです。横断歩道の無い車道を横切ればそれも違法です。紙くずを道に捨てても違法です。紙くずは落しただけかもしれませんがそれを拾わなければ違法です。まあ、気付きませんでしたって言い訳をするのでしょうけどね」
「……」
「法令遵守は基本的な話ではあったとしても、それを完全強要する人達のほぼ全てが違法な事していると思います。厳しさを求めはするがその影響が小さければ違法でも良いという判断ですか? 誰も見ていないなら違法な事をしても良いだろうという判断ですか?」
「まあ、違法であっても物によるって事ですかね」
「先にも申しましたがそれはその人のさじ加減でもありますよね? 往々にして自分がする違法な事は許すという感じですかね? そして自分がしない罪は厳しくと言う事ですよね?」
「そう言われると……」
「ではキッチリカッチリと厳しくしますか? であれば私も日陰に追いやられる事になるでしょう。私も横断歩道の無い車道を横切った経験はありますし今でもします。勿論左右の確認は怠りませんがね。歩道の信号が赤であっても他に沢山の人が渡っていればそれに続いて渡る事すらありますしね」
「でもそれは刑法って奴じゃありませんよね?」
「ですね。道交法です。刑法で言うなら何処かに落ちていた物を拾って持ち去った。けれどそれには持ち主がいた。当然それは窃盗になります。どうします? 全国に名前と顔を晒した方が良いですか?」
「いや、ですからそんな厳しさを求めるつもりは……」
「潔癖症は結構ですがそれは自分達の首を絞めているに他なりません。海外ではこれ位の事で何を言われる事も無い等と言うつもりはありませんが、少なくとも他人に対して潔癖過ぎる気がします。武士道を強要するかの如く私には見えますね。まあマスコミやネットの人達が過度に違法だ危険だと煽る場面も見受けられられますのでね、それに感化されてそれは悪い事だと人々が言い始め、それに輪をかけて人々が煽り煽られているだけかもしれませんがね」
「そうは言ってもねぇ……」
「悪い事をした人がエンターテイメント界の人だとしたらその人の作品を隠そうとしたり販売しないようにもしますよね?」
「それは当然じゃないですか? 悪い事をした人の作品なんて見たくも無いと思うのは人の心情として正しいのでは?」
「じゃあ電力会社の人が悪さをしたら橘さんは電気を使わないとでも言うのですか? 水道局の人が悪さをしたら水道の水は使わないのですか? 家電メーカの人が悪さをし、そのメーカーの家電を使用していたらそれを直ぐにでも棄てて別のメーカーの家電に買い替えるのですか? 今お持ちの物でそれに関する誰かが悪さをしたからと言って棄てはしないでしょ? 新たに購入や契約する時なら少しは考えるにしてもね。他者に対して危害を与えたのなら行政罰と共に被害補償を。物に損害を与えたのなら弁償を。悪意があったとしても行政罰と共に被害弁済すると共に社会への復帰を志してもらう。それが本来の姿であろうと私は思います。少なくともそれを理由に社会から退場、排除するし続けるというのはね。それは国民総出で以って切腹しろというシュプレヒコールにも思えます」
「そんな極端な……」
「もしも法令に不備があると言うならそれは橘さんや私を含めた自分達に非があるとも言えます。法令は日本国籍を有する大人と呼ばれる方達が選んだ議員によって決定されている訳です。そこに不備があるなら間接的に国民の責任であるという事になります」
「それはそうかもしれませんけど誰を選んだってそうそう変わらないでしょ?」
「一応民主主義なのでそういう言い訳は通じませんよ? 嫌なら自分で立候補をして変える。自分が声をあげて今を変える。若しくは皆で推薦する人を立てる。それも衆参でそれぞれ2百数十人という人を立てる。憲法は兎も角として理論上は衆参議院の過半数を取ればほぼ何だって出来る事になります。それが出来るのが民主主義ですからね。まあ先程も言いましたけど日本の民主主義はなんちゃって感がありますけど」
「先程もなんちゃって感って言ってましたけどなんですか?」
「法曹界に身を置く私が言うのも何々ですが選挙で選ばれたという事で政権を取ってしまえば国民の意見に耳を傾けずにやりたい放題な面が時折見受けられます。まあ聞き入れ過ぎれば大衆迎合となって国家の行く末が心配にはなりますけどね。そもそも日本の場合には官僚主義と言われてもいますし行政に対して資料要求すれば弁当箱と呼ばれる黒塗りの資料を平気で出すし、それを止めろと政府も与党も言わない。他方では説明責任を果たすべきと言いつつ都合が悪ければノーコメントを貫く。まあ、それが政治家と言えば政治家である訳ですけど、それを選ぶのも私を含めた国民ですからね。日本は西洋を手本に民主主義を発展させましたが日本の武士道精神が残る中でのカトリックをベースとした西洋の民主主義を持ち込んだようなものです。そりゃ国民には中々馴染まないでしょう。罰と言うのも日本と西洋では思想が異なるといいますかね」
「う~ん、その辺りは私なんかには難しい話ですけど……。とりあえず普通は被害者の立場になって考えるものでしょ? 自分の子供が傷つけられると思うと背筋がゾッとするわよね。それでもってその犯人が直ぐに刑務所から出てきたり執行猶予っていうんですか? そういうので直ぐに社会に戻ってこられても怖いと思うのが普通じゃないんですか? 初犯だから執行猶予とかね? 傷つけられる方は初犯とか再犯とか関係ないでしょ? 場合によっては逆恨みされての報復なんて事もあるでしょ? それを警察が守ってくれる訳じゃないでしょ? そりゃ、どう見ても事故っていうならあれですけど故意に人を傷つけたり、ましてや人を殺すなんて人が傍にいると思うとね」
「それをどうにかしたいのならそれを公約に立候補する、そういった同じ価値観を持つ人を衆参議院の半数を取る程に集める。それで政権を取れれば橘さんの仰るような厳しい法律を施行する事も不可能ではありません。とはいえ厳しすぎれば世界から相手にされなくなるという可能性の考慮も必要です。内政干渉になるからそうそう口にはしないとは思いますけど欧米からはそっぽを向かれる可能性もあります。あと警察が市民を守るというのは正しくありません。警察は秩序を守るのが仕事です。それは法律によって動くという意味であり、それは時として市民と対峙する事もあるという組織ですからね」
「とりあえず欧米に習えって事ですか?」
「欧米が民主主義の先進国である事は間違いありません。罪や罰といった思想の違いについて学ぶのは良い事では無いでしょうかね。日本にはまだ死刑制度が残っているとはいえ刑罰と言うのは『更生』が前提です。罰するよりも更生させると言う事です。故に刑の執行を猶予する事もあります。例えとして正しいかは分かりませんが皆が同情する様な殺人事件なんていうのが過去にありました。そういうのにも執行猶予の制度は有用ですよ?」
「同情すべき殺人なんてあるんですか?」
「ええ。いわゆる老老介護の末に介護する側が介護される人を殺めて心中を図ったが死ねなかったという事件です。経済的にも困窮し心身耗弱といった状態となり、介護する側も介護される側も追い込まれ、介護されていた人が殺して欲しいと懇願し、熟慮の末に心中を図ったという事件です。一応、殺人事件で起訴され執行猶予つきの有罪になりました。その法廷では起訴する側の検察官も訴状を読みながら涙したという事件だったと記憶しています」
「そうですか……まあ、そう言う事でしたら執行猶予といわず、いっそのこと無罪でも良いくらいかなと思わなくもないですね……」
「そうですね。私も心情的には橘さんと同じですが残念ながらそこまで出来る状況では無かったようですね。たしか自首だったと聞いてます。証拠も揃っていて無罪という訳にはいかないでしょうね」
「そうだったんですか……」
「ちなみに弁護士会としては死刑制度は廃止を訴えております」
「え? そうなんですか?」
「はい、死刑と言うのは全てを終わらせてしまう残酷な行為と考えております。国家による殺人と考えております。故に廃止を訴えています。西洋社会でも死刑廃止の流れです。まあ、命と言うのは権利という概念で考えていると言えばいいんですかね。人が人の権利を奪う事は出来ない、という考え方でしょうかね。まあ、権利という概念はともかくとして、その流れに日本も乗って頂きたいと思っています。代わりに『終身刑』という刑を新たに定めるというなら個人的には賛成ですね。まあ、日本の場合には重大犯罪で下される無期懲役が実質的に終身刑だと言う人もいますがね」
「……」
「で、話を戻しますが執行猶予というのは収監はされないだけでそれなりに社会からの制裁を直接受けることにはなりますしね。収監されたとしても逆に被告本人は矯正施設で隔離されて、その家族親族が社会から制裁の的になるって事もあるみたいですから。家族親族からすれば当の本人は矯正施設で安全を確保出来ているなんて見方をする方もいらっしゃいますから収監すれば良いという訳でも無いかなと思います。そもそも刑務所は社会復帰が目的の矯正施設ですからね、あくまでも社会復帰が目的なんですよ。だから刑期を終えて社会復帰した人達を排除するのでは無く、社会が寄り添って更生させるのが正しいんですよね。再犯に及ぶのも全てとは言いませんが、社会が寄り添っていないからという事もあるでしょうね。多くの人は行政で何とかしろって言う人が多いですけど本当はそうじゃなく、社会の皆で更生を手伝うのがあるべき姿と思いますけどね」
「弁護士の方は仕事柄なのか加害者ばかりに目がいきますけど、加害者の更生を望むよりも順番で言ったら被害者、被害者遺族。その次に加害者家族、加害者って順番じゃないですかね?」
「確かにそうかもしれません。ですがそれは我々弁護士が考える順番では無いですよね? 私達のクライアントは容疑者被疑者被告ですし。そりゃ勿論、被告からすれば被害者に対しては贖罪の気持ちはあるでしょうけど加害者のこれからを考えるにあってはただただ罰する、ただただ重い刑を科す、排除すれば良いというのは更生と言う意味では違いますよね?」
「でもそれはそれで自業自得と言えませんか?」
「まあ、私は弁護士ですのでこの場合は自己責任という言い方が適当かなと思います。誰に負わせるものでも無く自らが負うべきものであり、時には社会にその責任の一端がある。それはさておき、お互いが前に進む事を前提に責任を果たす、責任を負うという事でしょうかね。刑務所といった矯正施設へ送られるのはあくまで更生が目的であり、その先に責任を負うという役割があり、それに対して赦すという事がある」
「責任ねぇ。そうやって聞くと『責任』って一体なんなのかしらね」
「う~ん。そうですね。何故そうなった、何故そうしたと全てを話す。その『何故』の『答え』を社会が今後に生かし本人も反省する。それを繰り返さない為にね。で、裁判という公的な場で確定した内容を果たす。過去を消す事は出来ないけれどもそれを糧に未来に生かすと、それが責任と言う事ですかね」
「理屈ではそうかもしれませんけど再犯する人は多いでしょ? その責任を果たさない人もいる訳でしょ? 更生なんて無意味じゃないのか、刑務所でするかしないかの反省や更生よりはずっと入って居て貰いたいなんて思うのが普通だと思うんだけど、それはどうなのかしらねぇ? 他にも理由も言わずにただ不起訴にしたとかも納得出来ないわね」
「皆が皆再犯する訳ではありませんからね。重大な事件を起こして刑期を終えてちゃんと更生している人、若しくはその経験体験を糧にしている人も沢山いますしね。理由も話さずに検察が不起訴にしたというのもそれは検察に聞いて下さいとしか我々には言えませんね。起訴する程でも無い、起訴するには証拠が足りないとかで勝訴出来そうにないから不起訴にしたとか、そんな事情があっての事だとは思いますけどね」
「ん~。なんだかね~。法律って誰の為にあるのかしらって感じだわね。なんだか良く分かんなくなってきちゃった」
「刑法で言えば国家秩序を守る為ですかね。それは被害者を守る為の物ではないとは言えますかね」
「色々と仰いますけど、それでも人の本質なんてそうそう変わるものでもないと思いますけどねぇ?」
「かもしれませんね。だとしても更生させる、排除の論理ではなく更生。それが正しい道だと思いますし現行の法律はそれを目指しているという事ですね」
「ほんとうに今宮さんは弁護士さんなんですねぇ」
嘉代子は少し皮肉を込めて言ったが、今宮もそれが皮肉であると瞬時に感じ取った。
「ええ、弁護士です。この職業にしか付いた事はありません。最後まで弁護士です。例え100人の何の罪もない子供を残虐と言われるような手法で手に掛けた容疑者が居たとして、私がその弁護を受けたならば私は全力でその容疑者の弁護をします。状況によっては無罪も主張します。それが私の仕事です」
その例え話に嘉代子は目を見開いた。その目は鬼か悪魔でも見るような眼。そんな目で今宮をジッと見つめた。今宮も流石に例え話が極端すぎたなと後悔した。嘉代子の挑発とも取れる皮肉に合わすつもりで言ったが少し子供じみていただろうかと。それと同時に、今の発言が弁護士協会にでも知れたら懲戒処分を受けかねずネットを通じて世間に知れ渡れば面白い位に炎上するのかもなと思った。だが今夜は文字通り最後の夜でもあり酒のせいで饒舌になったのかもしれない。そして明日の今頃自分はこの世に居ない身であるのだからこの位は許して貰おうと。
今宮の言葉に嘉代子は唇を真一文字に結びそれ以上は何も言わなかった。その表情は極端すぎる例えに驚嘆し、今宮の言葉に納得が行かないと明らかに語っている。
「ちょっと、例えが極端すぎましたね。忘れてください」
苦笑いしながら今宮が言った。そして今宮は目を閉じ、改めて嘉代子の言葉と共に世間の声を頭の中に巡らした。
前科は勿論の事、1度でも罪を犯すとその後の人生の選択肢が狭まる事は珍しくない。ましてや現代はネット社会。前科や過去の行いが消えるどころか永遠にネットという公共の場に残る。場合によっては容姿が晒され続ける。そして日陰での生活を強いられ時には排除される。
人によっては母親の姓を名乗ったり養子に入るといった手段を用いて苗字を変え、擬似的でも新しい人生を歩んでいる人もいる。罪を犯した過去は消えないにしても永遠に引きずる事はきっと是ではなく、過去と現在を一列に並べて考えるのは是ではない。だが武士道精神ともいうべきなのか潔癖である事を重んじる日本社会において更生というのは難しいのかもしれない。きっと自業自得、自己責任と言う人が多いのが現実なのだろう。
仕事を探すにも細かい履歴書が必要であり場合によっては詳細な過去を晒す必要がある。家を借りるにしても保証人が必要、融資を受けるにも裏書き等の連帯保証人が必要。考えてみれば日本人は人を信用しない国民性なのかもしれない。これは「保守的」という言い方のが正しいのかも知れないが、個人にしても組織にしても誰かが保証してくれなければ何も動かない。誰かが試してくれた結果を見てから決める。そう言った保証がなければ決められない、決断できない。そう言った事なのかもしれないし自分にも当てはまる事が無いとも言いきれない。
政治家や企業のトップ等に対して不祥事があれば『辞任しろ』『辞職しろ』『辞任しないのか』と言った言葉が躍る。時代が違えば『切腹しろ』『切腹しないのか』と言い替える事も出来るのだろう。そしてそれが責任の取り方であり『次は無い』という考え方。故に更生を考えるにあたり『辞任』という責任の取り方は正しくないと言える。過去における『切腹』とは自身が決めるのではなく命じられる物であり、それを現代の言葉で言い換えれば『解雇』『解任』『更迭』となるのだろう。それも何らかの道筋を付けた段階で行われる事が望ましいが、そういう責任の取り方は非情に難しい。
潔癖を重んじ強要される。生まれてから非の打ちどころのない人こそが是という考え。更生した後に何か意見を述べれば過去の事を持ち出され、それを免罪符に意見が雲散霧消し説得力がゼロに等しくなる事も実際にはあるだろう。永遠に続く勧善懲悪。是非はともかく日本らしい。そういった国民性がどうであれ、罪を犯した者を社会が一丸となって更生させる必要がある。とはいえ自分自身が親身になって更正を手伝っているかといえばそうとも言い切れないので強くは言えない。そんな社会を変えたいなんて崇高な考えも持っていない。
それを行政で何とかしろという意見も多いがそれは違う。それは行政への権力集中にも繋がり肥大化にも繋がり増税に繋がる。社会が悪いとは言わないが社会が受け入れないから再犯も多くなるという側面もある。どうしても社会に馴染めない人もいるのも事実だろう。だがそれを許容し受け入れる事が求められるのが司法の前提でもある。
過去を許容する。赦すという事で前に進む。過去は過去と割り切って前へと進む。それが合理的でもあり正しいのだと考えるのが日本以外の国々。過去があるというのを何の気兼ねなく話す事が出来、予断を持たずに受け入れるのが日本以外の国々。日本は欧米に倣って民主主義を導入はしたものの、そういった思想までは上手く導入する事は出来なかったと言えるのかもしれない。
とある国の特定の地域によっては窃盗を働いたらその手を切り落とすという何とも過激な刑も存在する。日本には刑が軽すぎるといった意見が多いものの、仮にそれを日本で適用しようとすれば「それはやり過ぎだ」という声が多数を占めるだろう。どんな刑を言い渡したとしてもアンチが存在し、それをフィーチャーしているだけとも言えるが、アンチな意見が言えるのは国家として健全であるとも言える。
更生を願っての処罰が下されたとしても、再犯を繰り返す人は多く更生出来ない人も確かに存在する。更生などする気も無いといった悪意ある人間がいるのも確かだろう。その都度被害者を生みだすのかも知れないがそれは是である。あくまでも更生を望んでの処罰や判決であり被害者が生まれるのもまた然り。そして何度罪を繰り返しても更生させる事が前提である。
公に口にするのは憚られるがそもそも100%安全が確保出来る状況など存在しない。自殺する前提で通り魔的大量死傷事件を起こす人間もいる。このような場合、自分よりも明らかに弱い存在をターゲットにするためにより悲惨な結果を招く。そして事件が起きて初めてその人の抱えていた闇が公になり周囲が気付く事になる。その場での自殺が成功してしまえば更生云々は関係無く、そうなれば当然我々の出番は無い。ただただ遺族のやり場のない怒りと嘆き悲しみが生涯続くだけとなり、加害者家族親族が社会から忌み嫌われ、行政が何らかの対応を迫られるのみである。だが加害者が生きていれば我々の出番である。どんなに被害者の数が多かろうとも被害者が幼き子供であったとしても我々が味方をする。全力でする。
原因はどうあれ世の中には現状認識が出来ない人だって大勢いる。人を傷つけたり殺めたりする事の意味が理解出来ない人だって沢山いる。勿論悪意のある人間も存在する。当然ながら見た目で判断出来る事では無い。その判断基準の1つが前科前歴という事なのだろう。だがそれで判断するのは是では無い。その都度被害者を生む可能性はあるがそれを知った上で付き合っていく事が是である。死刑制度が残っているとは言っても更生させるというのが是である。国民の理解がどうであれ、罪を犯した者を社会が受け入れ更生させる事を前提としている。
「やはり皆さん潔癖症な気もしますがね。みんな生まれた時から悪人という訳ではありませんし、生まれた環境、育った環境、今生きている環境や状況により左右され、良くも悪くも変わって行くという物だと思いますしね」
「でも……」
「仰りたい事は分かります。どんな環境、どんな状況でも正しく生きている人が居る。否、生きている人の方が圧倒的に多い。それでも違いは出ますよね? 機械では無く人間ですからね。ほぼ同じ環境で育ったとしても同じにはなりませんからね。人間なんて他の動物よりも知能が高いというだけの事であって別に高貴な生き物では無いんですよ。日本は安全だなんて言われていても毎日と言って良いほどに事件が発生し逮捕される事件が絶えません。そもそも公になっていない事件がどのくらいあるのか見当も付きません。どんなに科学技術が進化しようとも、過去を知り未来に生かす事を目的に歴史を学んだとしても何度も同じような事を繰り返す。常に過ちを繰り返す。人間なんてそんな物ですよ。それを全て排除していたら日本から人が消えてしまった。なんてね? ははは」
そう言って今宮はジョッキを一気に煽った。嘉代子は今宮のそんな姿に何も言わずに軽くほほ笑んだ。
嘉代子はこれ以上の質問は止めておこうと思った。決して今宮の話に納得した訳では無い。今宮の意見を端的に言えば「犯罪が無くなる事は無い。その都度被害者が発生するがそれは必然であり受け入れるべき事である」と言っている。自分の考えはそれはそれで多数意見であるとは思うが、今宮の話を聞く限りその考えは感情論としか受け止められないであろう事も理解した。故に、決して今宮とは相容れないのだろうと、これ以上話しても無意味だろうと。
事件が起きれば被害者の名前が先に報道される。加害者の名前はかなり後になって報道される。当然、加害者が未成年ならば報道される事は無く、被害者は年齢に関係なく報道される。そもそも年代と性別のみで加害者の氏名が報道されない事も多々ある。その事をおかしいと今宮に問うたならば『未成年であるのならば更生を考えれば適当である』『軽微の犯罪で匿名とするのは更生の面で考えれば当然でしょう』とでも言うのだろう。加害者が後になって報道される場合にしても『報道時に逮捕されていないのであれば当然犯人と呼ばれる存在では無い。容疑が濃厚であるというだけの段階で報道するのも適切ではありません。初期段階で報道できる内容なんて性別と年代位でしょうね。仮に容疑者として報道した後に実は善意の第3者でしたなんて事があったら目も当てられませんからね』とでも言うのだろう。
凶悪な事件を起こしたとして「初犯だから執行猶予付き有罪」と、文字通り野に放たれるなんて事も無い訳では無い。これを今宮に対しておかしくないかと問うた所で『初犯且つ、その時の事情を鑑みれば適当です』とでも言うのだろう。だが被害者からすれば初犯かどうかなんて関係あるのだろうか。
年齢を理由に罪に対する罰も変動する。高齢を理由に刑務所には行かないといった事もある。やはり一番納得いかないのは病気のせいにする事だ。心神耗弱だったから無罪。認識できない状態だから無罪、若しくは過失扱い。やたらと使われる印象のある症状。だとしてもそれが何だというのだろう。ならば泥酔者による犯罪や車の運転も無罪だろう。病気を理由に高福祉、税制の優遇を受けるのは賛成であるが罪に於いての優遇を賛成する事など出来るはずもない。監禁でもされ監禁した人物を殺傷しそれを心神耗弱状態だったから無罪というなら納得もいくし賛成である。だがそうでないなら個人的には反対だ。
無関係な人物が殺傷されたとして、その行為を働いた人物にどんな病気があるかなどは知った事では無い。そう思う私は厳しすぎるのだろうか。皆が今宮の言うように慈悲の心で受け止めるというのだろうか。
『その人は病気だ。だからその人に殺されても文句は言えない』
そんな事を言うのだろうか。被害者そっちのけで兎にも角にも生きている加害者が最優先。例えそれがどんなに非道な行いを起こした者であれ優先されるとでもいうのだろうか。故意か過失かは別にして悲惨な状況を生み出したその人物が優先されるというのだろうか。
認識出来ないからというなら認識出来るようになるまで医療刑務所に入っていてもらいたい。認識出来るようになったのなら改めて刑務所に入ってもらいたい。その当時には認識できなかったから罪に問うべきでは無いというのならば泥酔していて覚えていない人はどうなるというのだろう。病気と泥酔では根本的に異なる事は理解は出来る。病気はその人のせいでは無いというのだろう。100歩譲ってそれに理解を示したとして、その病気により他人が傷つき殺害される事を是とする考えには賛同できない。病気を理由に一生隔離しろなんて言わない。一般社会にいるのだとしたらそれを理由にした減刑等はおかしいと言いたいだけだ。それが公平平等とも言えるのではないだろうか。
殺人事件を起こしたとしても短い刑期が言い渡される事も多々ある。『そんなに短い刑期で済むのか』と今宮に問えば、『刑務所に長くいれば良いという訳では無く一般社会生活において更生すべき』とでも言うのだろう。そもそも刑期の上限を切ってある法律に矛盾すら感じる。どうせ検察が何年と決めて求刑しても大抵の場合短い刑期が言い渡される。その場で刑期が決定されるのであれば法律で上限を決める必要があるのだろうかと。だがこれを今宮に問い質せば『上限が無いと青天井で求刑がされる可能性があり検察の暴走を許す可能性があります。それは更生を考えれば適当では無く防波堤の役目とも言える』とでも言うのだろう。
世の中には悪意のある危険人物、悪意無き危険人物が常に傍にいると理解した上での生活を余儀なくされる。その上で自分の身は自分で守れ。口にはしないが今宮の目がそう言っているように思える。
法律は自分達を守る、または被害者を出さないた為にあると漠然に思ってはいたが、ニュース等を見ているとそれは単なる足枷では無いかと感じる事もある。加害者を守るかのように見えてしまう。それを今宮に問うても直ぐに覆されるのだろう。そもそも民主主義の下で自分達の代表として存在する議員達が決める権利があるはずなのにどうしてここまで納得がいかない法律になっているのだろう。議員と国民にそれほどの乖離が存在するという事なのだろうかとも思ったが、これを今宮に問うた所で覆されるのだろう。
嘉代子は頭の中での今宮とのシミュレーションが全て覆される妄想に思わず噴き出しそうになった。そんな自分を見られてしまっただろうかと今宮をチラリ見やったが、今宮はほろ酔い加減で俯いていた。
嘉代子は不思議な感覚にとらわれていた。このような話を周囲の人間、主婦仲間とすることは無かった。普段近所の奥様連中としか話す事しかない日常を送っていた自分が何だか社会に参加しているという不思議な感覚であった。今宮の理屈だらけの話には少しウンザリする所が無くも無かったが、そんな話は達彦ともした事は無く、何故だか社会の一員として認められているような不思議な気がした。
「そういえば、今宮さんの終末日っていつなのかしら?」
「……ん? ああ、えーっと、来月の10日だったと思います」
「え? じゃあ、まだ1か月近く残ってるじゃないですか? それなのに今日安楽死しようとしたんですか?」
「まあ、そう言う事になりますね。いっそ妻と娘と一緒に逝く事が出来ればなと、自分の運の無さを嘆いている次第ですよ。はは」
今宮が妻子を亡くしたばかりだった事を忘れていたと、嘉代子は直ぐに自分の言に後悔した。
「橘さんはいつなんですか?」
「私ですか? えっと、来月の12日ですね。私もあと1カ月程ですね」
「そうなんですか。橘さんは残りの時間はどう過ごされるおつもりなんですか? 流石に離婚する意味は無くなってしまったようですし」
「ですね。もう意味は無くなりました。正直、何も考えられずにとりあえず終末ケアセンターを訪れたと言ったところでしょうか……」
残りの1カ月何をするでもない。何をすれば良いかも分からない。そもそも自分が死ぬという事が良く理解できていない。自分が居ない未来があるという事が理解出来ない。死と言う物を考えた事が無い訳では無いがただただ漠然と「子供よりも先に死ぬ」と思っていた位であった。今となっては達彦に事の次第を話し、憂いを残さぬように家事に関する諸々を伝えた後に安楽死をするというのが賢明だろうかと思うだけであった。
「ああ、そういえばお墓どうしようかしらね」
「お墓ですか? まあ、後の事はご主人がしてくれるとは思いますが何か懸念でもあるんですか?」
「いえ、別に懸念というか、ふと思っただけなんですけどね……。何せ真面目に自分が死んだ後の事を真剣に考えるのは初めての事ですのでね……。主婦仲間と老後について話しこともありましたけど、まじめに死について話すことなんてね。そうそう無いですよね?」
「まあ、そうですね。話したとしても冗談交じりですよね」
「その……今宮さんは……もう、未練と言う物は無いって事なんですね」
「未練ですか。そうですね、無いですね。今日安楽死する。そう思って来た訳ですしね。既に身辺整理は済ませましたし……。一昨日ですかね、実は自殺の名所って所にも行ったんですが、案外そういう場所って観光名所になっているんですよね。人が多くてびっくりしましたよ。ははは。それに独りで来ている人なんて私位でしてね、1人だと逆に目立ってしまってずっと誰かに見張られている気がしましたね。まあ、流石に監視はしていないとは思いますが場所が場所だけに警戒はしているでしょうね。そういう名所と呼ばれる場所には警察が見廻っていると聞きますし。そんな観光客が多い中でそんな事をするのは流石に悪いなと思いまして結局このざまです。まあ、折角行政が安楽死の場を提供してくれているので利用させて貰おうと言う事でね」
「そうですか。私もとっとと安楽死した方が良いのかしらね。ははは」
「あ、いや、別に早急にお亡くなりになる必要は無いと思いますよ? 私の場合には妻と娘の事情というのもあったから早急に死を選択しようとしただけですので」
今宮は自分の話で嘉代子が感化されたのかと思い、取り繕うように言った。
「でも、どうせ毎日、同じ繰り返しの日を過ごすだけですしね」
「同じ日と言うのは存在しませんよ。同じように行動しているから同じように感じているだけです。変えようと思えば変えられると思いますよ? ただその変化は今の平凡平穏の生活に波を立てる事になるかもしれないという事で、それを望むか否かと言うだけの事です。まあ、今更言うのはあれですけどね」
「ですね。今更ですね。ふふふ」
「まあ、ぎりぎりまで生きて良いんじゃないでしょうか? 家族や親しい人達と話す時間が残っている。その為の制度だと思ってます。私も話す事が出来ました。ゆったりとした最後の時を過ごす事が出来ました。悔いが無いかと問われれば悔いはありますがね」
「そうですか……」
「ええ。世の中には事故や事件、若しくは病気で以って突然亡くなってしまう人が大勢います。というか死とはそういう物でしょう。そしてそれは本当に突然の事です。『2度と会えなくなるかも』なんて事を思いながら過ごす人はいませんよね? いつも居るのが当たり前。そう思って過ごしているのが当然ですよね? けれど突然に死んでしまう、会えなくなってしまう。もう2度と話す事が出来なくなる。しかし終末通知を貰った事で少なくとも突然にという事はありません。短いながらも最後の時間を貰えた。橘さんもその時間を使ってゆっくりとお子さん達含めご家族と過ごされては如何でしょうかね? 旅行でもいいですし。こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、橘さんの最後の日は決まっている訳ですしね」
「……ですね」
「ええ、ニュースなんか見ていても朝元気に家を出ていった子供が交通事故に遭う、若しくは自殺するなんていったニュースがあるでしょ? 親御さんからすれば朝の『いってらっしゃい』という言葉が最後の会話になるなんて夢にも思わなかった事でしょう。もしかしたらケンカ別れが最後の言葉だったなんて人もいたかもしれません。それを考えたら大変有り難い制度ですよ。悔いの無いようにとはいきませんけど、それでも濃密な最後のひと時を過ごす余裕は貰えたなと思います。橘さんの旦那さんからすれば突然自分の妻が亡くなるなんて夢にも思っていない事でしょうからね。ちゃんと話して、最後の短い時間を過ごすというのは良い事だと思いますよ? 残る人に思い出を、という訳では無いですが」
今宮は嘉代子に向けた言葉が自分に言い聞かせているかのような気がした。しかし、嘉代子と今宮では状況が大きく異なる。嘉代子には離れて暮らすとはいえ子供も健在であるのに対し今宮は全てを失っている。
「……そうですねえ。じゃあギリギリまで生きてみますかねえ」
「賢明な判断だと思いますよ」
2人はそう言って軽い笑みを見せ合うと、ジョッキの中の残りのビールを一気に煽った。そして2人は店を後にそれぞれの帰路へと就いた。
◇
翌朝7時。今宮は自宅最寄り駅のホームで電車を待っていた。昨日は興奮していたのか目が冴えて一睡も出来なかった。布団の中で時計をチラチラ見続けている内に夜が明け、朝も6時を過ぎると更に目が冴え始めた事で寝る事は諦めシャワーを浴びた。シャワーを浴びると完全に目も覚め、あと数時間もすれば永遠の眠りにつけると興奮すらしていた。そしてシャワーを浴び終え着替えを済ますと待ち切れないとばかりに家を後にした。
今宮が待つホームは下り線。ホームには通過列車の案内のアナウンスが鳴り響き、目の前に見える反対側の上りのホームには出勤する人たちが列を成していた。そんな中、今になって睡魔が襲ってきた。それと闘うようにして首を上に目を見開き、ホームから見える遠い空を眺めていた。そして同時に昨晩の嘉代子との会話を思い出していた。
きっとあの女性は納得しなかっただろう。そして少なからず私を軽蔑した事だろう。だが何を言われても反論できる。それこそが仕事でもある。憲法に記載された職業選択の自由を行使して自分で選んだ弁護士という職業。何を言われたとしても胸を張って仕事してきたという自負がある。最後まで弁護士であったという自負もある。最期は一人寂しく終える事になってはしまったが、総じて悪くない人生だったと言っていいだろう。
今宮は自身が所属する弁護士事務所に終末通知を貰った事を話してあった。そして費用前払いで自分の遺体の火葬と納骨を依頼していた。納骨場所は妻と娘が眠る墓。しかしお家単位の墓である為に今宮が亡くなる事で墓を護って行く人はもう居なくなる。自分が今日死ぬ事で「今宮克典」という人間に繋がる血が絶える事になる。その事が不思議に思えると同時に可笑しく思えてフッと笑った。と同時に景色が歪んだ。その直後、頭に衝撃が走った。
何が起きたか分からなかった。目がぼやけてよく見えなかった。照準を合わすように目を細めると正面に真っ青な空が見えた事で仰向けに倒れている事は理解した。だがまだ何が起きたかよく分からない。よくは聞こえないが遠くで誰かが叫んでいる気がした。
起き上がろうとするが体が言う事を聞かない。頭だけを左右に振ると2本の黒っぽい線が見えた。数秒間それを見つめているとようやく目の照準が合い、それがレールである事に思い至った。
理由は分からないがホームから転落した。そして仰向けに倒れた状態で頭はレールの上に乗っていた。そのレールを伝って頭に重々しい音が鳴り響いてくる。その音は徐々に大きくなっていく。ぼやける目を細めて目を凝らす。すると、徐々に近づく四角い黒っぽい物体が見えた。
『さんざん人を助けたのにこんな最後とはな。まあ予定とは違うが予定は未定だ。どちらにしてももう充分だ。この期に及んで最優先すべきは死に方では無く何時死ぬかだ。そしてそれは今だと確定した。これが天罰という物なのだろう』
◇
終末ケアセンターの井上は今宮が来るのを待っていたが、今宮は正午を過ぎても来なかった。昨日の様子からして「ひょっとしたら午前9時の開館時刻よりも先に来て玄関で待っているのではないか?」と思っていたがそんな事は無く、井上は昼食を取る為にセンターを後にした。
この時すでに今宮はこの世に存在しなかったが井上は知る由もなかった。かといって井上の方から連絡を取るなどはありえない。そんな事をすれば「いつ死にに来るのですか?」と聞いている様な物である。故に良い方に考えた。
「恐らく気が変わったのだろう。終末日のギリギリまで生きようと思い直したのだろう。妻子を亡くしたとはいえ最後の最後まで生きる事を選択したのだろう」
外での昼食を済ませ、井上がセンターへと戻ってくると同僚から声をかけられた。
「井上さん、電話入ってますよ」
「電話? 誰から?」
「警察からです。『今宮克典』って人、井上さんの担当ですよね? その今宮さんの事を聞きたいって電話が入ってますけど」
「はい、お電話替わりました井上です」
「こちら○○警察ですが、早速ですが『今宮克典』さんをご存知と言う事で良いでしょうか?」
「はい。存じております。私の方でカウンセリングを担当させて頂きましたが、それが何か?」
「実は今朝7時頃、今宮克典さんと思われる方が電車に撥ねられお亡くなりになりました」
「……今宮さんが? 自殺って事ですか?」
「いえ、目撃者の話によると倒れるようにしてふらっとホーム下に転落したようで、あくまでも事故らしいですね」
「事故?」
「で、身分を証明する物を何も持っていなかった訳なんですが、唯一持っていた物が終末通知の葉書でしてね、その宛名に『今宮克典』と書いてありまして、恐らくは同一人物だとは思うのですが、身元確認をお願い出来ないかと最寄りの終末ケアセンターに連絡させて頂いた次第です。ただ轢死遺体ですのでちょっとご気分が悪くなる可能性はありますが如何でしょうか?」
井上は丁重に断った。終末ケアセンターで勤務している以上多くの死に立ち会ってきた。かといって慣れている訳ではない。ましてや轢死した遺体などを見る勇気は無かった。それに恐怖を感じたというのもあるが、数回会っただけであるし身元確認できる程の正確な判断が出来る自信もないというのが理由であった。
井上は今宮の職業が「弁護士」であるという事を警察に伝えた。その情報により警察は今宮が所属する弁護士事務所をすぐに探し出し身元確認の依頼をした。その後、轢死遺体の身元は「今宮克典」本人であることが確認された。
◇
嘉代子は今宮と居酒屋で別れた後まっすぐに帰宅した。少しアルコールの匂いをさせて帰宅した嘉代子に対して達彦は「おかえり」と一言だけいった。どこで何をしていた等、一切聞かなかった。
その後、達彦に対して終末通知の件を話さなずじまいで1ヶ月近くが過ぎ去った。嘉代子は終末通知を貰って以降、不思議な感覚に見舞われていた。それはまるで「魂と体が離れている」と、そんな不思議な感覚であった。自分の魂は「橘嘉代子」という肉体に居座っているだけ。その「橘嘉代子」という肉体がもうじき終わりを迎える。そんな自分自身の肉体を俯瞰する。そんな不思議な感覚であり、まるで他人事のような感覚であり、今だに自分がもうじき終わりを迎える事に実感が持てずにいた。
ある日、妙に体の倦怠感を覚えた嘉代子は早めに就寝する事にした。「医者にでも言ってきたら?」と達彦は進めたが、「大丈夫。でも今日は早く寝るね」と早々に就寝した。
その翌朝、嘉代子はいつもの時間になっても起きて来なかった。昨晩に少し疲れたと言っていた事もあり達彦は起こさなかった。
今日は日曜日。いつもと変わらぬ生活の中、達彦は仕事が休みという事もあり嘉代子に代わってリビングの掃除していた。すると、リビングのソファの隙間に挟まっていた1枚の葉書を見つけた。それを手に取り見てみると宛名には嘉代子の名前が記載され、その左横には目を引く赤い太字で『終末通知』と記載されていた。そして葉書の中に記載されている終末日を目に留めると3日後の日付が記載されていた。
達彦は目を見開き無言でジッと葉書を見つめた。刹那、達彦の頭の中で嘉代子との過去が駆け巡った。走馬灯のように嘉代子との日々が駆け巡った。
良い夫だったとは自分の口からは言えないが、それでも良い夫婦関係を築こうと努力はしてきたつもりだし妻の言う事は出来るだけ聞いてきた。それなのに……。
なぜ終末通知の葉書が来た事を話してくれなかったのだ。どういうつもりで葉書がきてからの日々を過ごしていたのだ。どういうつもりで毎日、私と顔を合わせていたのだ。家事や育児に対して君は私に強く言ってきたじゃないか。それに対して私は黙って従ってきたじゃないか。文句ひとつ言わずに言う通りにしてきたはずだ。いったい何が不満なのだ。何か不満があったのか。なぜ何も言ってくれないのだ。自分に黙って1人で逝くつもりだったのか……。
妻が先立つという事が理解出来ない。今の妻との生活が終焉を迎えるという事が想像出来ない。今更、自分1人で生きて行くという未来が想像出来ない。
ひょっとして子供達には話したのだろうか? いや、そんな事はないはずだ。それならば家に一度位は顔を見せるはずだが帰ってきた様子はない。
1カ月も前に手紙が来ていたなら残りの1カ月を私との想い出作りをしようとは考えなかったのか。せめて、私に対して君との思い出を残してくれようとは思わなかったのか……。
『いったい、君にとって私は何だったんだ』
気持ちが抑えきれない。感情が溢れかえる。達彦は何も話してくれない嘉代子に無性に腹を立てたと同時に自分が見棄てられたと錯覚を覚えた。そして無表情のままにキッチンへと向かい、流し台に置かれた包丁を手に取ると寝室へとおもむろに向かった。
ベッドの上にはぐっすりと眠る嘉代子の姿があった。達彦は包丁を両手に大きく振りかぶり、勢いよく嘉代子の胸元付近に突き刺した。
「ガハッ―――――ガ―――――ッ」
嘉代子はそんな声にならない声をあげ、ベッドの上で一瞬跳ねる様に上半身を少し浮かせたが直ぐにベッドに倒れこんだ。薄い掛け布団越しに突き刺した包丁付近からはドス黒い血が溢れんばかりに滲んできた。達彦は包丁を引き抜くと、再び嘉代子の胸元へと突き刺し、包丁を胸元に刺したまま後ずさりした。
見開いた嘉代子の目が達彦を睨みつけた。息も出来ない状態となり、声も出せずに最後の力を振り絞るかのようにして手を上げると、その手を達彦へと伸ばした。
「な……なん……で……」
それが嘉代子の最後の言葉だった。伸ばした腕はだらりと垂れ下がるようにベッドの脇へ落ちた。見開いた目は達彦をジッと見つめ睨んでいた。その目が最期に語った。
『これは自分に対する天罰なのだろう。夫を裏切るような真似をしようした自分に対する天罰なのだろう。でもどうして夫は私を殺すのだろうか。それを最期に聞きたかった。それにしてもこんな最期とは思いもよらなかった。平凡に生きてきた自分の最期がこんなドラスティックとは何と皮肉な事だろうか』
ベッドの傍で仁王立ちのままに立っていた達彦はふと我に返った。目に映るのは血だらけの布団を被って寝ている嘉代子の姿。絶命している嘉代子の姿。
私の妻が死んでいる。そもそも今のこの光景は何だ。この凄惨な光景を作りだしたのは自分だと言うのか?
今まで正しく生きてきた。恥じるような行為も一切した事は無い。人生の中で誰かを傷つけた事などありはしない。そんな自分があろうことか妻を殺した。自らの手で刺し殺した。妻の胸に包丁を突き立てた。愛する妻を殺した。
達彦は声にならない声をあげながらその場に膝から崩れ落ちた。妻に棄てられたという悔し泣きとも、自分が妻を殺めてしまった事への懺悔とも取れる涙を流しながら嗚咽を漏らしながら。
数分間、床に膝をついたまま泣き続けた。そしておもむろに立ち上がるとベッドの上の嘉代子に目を向けた。嘉代子の胸元には達彦が突き刺した包丁が立っていた。未だに自分がそれを刺したとは思えず恐怖に体が震える。そして震える手で以って包丁をそっと握ると、恐怖に慄きながらも引き抜いた。引き抜いたそれには嘉代子の血がべったりと付着し床にポタポタと滴り落ちた。涙を流し鼻水を流しながらも包丁の刃先を自分の胸元へ向けると、両手で強く握り締め天を仰ぎつつ言葉にならない声で以って叫びだし、勢いよく自分の胸へと突き刺した。
「イッターッ!」
そんな悲鳴を上げると共に包丁から手を放し、それは甲高い音と共に床へ落ちた。達彦の胸元には薄らと血が滲んではいたが死ぬには浅すぎた。自らを殺めるやり方というのは本能的に力が入らずただただ痛みだけが残った。
達彦は尚も泣きじゃくりながらもしゃがみ込み、床に落ちた包丁を拾い上げると再び刃先を胸元に向け、包丁の柄を部屋の壁へと向けた。そして再び大声で叫び始めると共に駈け出し、そのままドンっという鈍い音とともに壁に衝突した。
「ゴフッ――――ッ」
包丁は深々と達彦の胸元へと突き刺さった。その付近からはどす黒い血が滲みだし始めた。そして猛烈な痛みを感じると共に視野が狭まり始めた。
『これで妻とは永遠に居られる』
達彦は途切れそうな意識の中、ベッドの上で息絶えている嘉代子に覆い被さる様に倒れ込み、涙を流したまま息絶えた。明日は達彦の最後の出勤日。退職後は妻と一緒に旅行三昧。そんな未来を夢見ていた達彦の計画は画餅へと帰した。
◇
轢死体となった今宮克典は警察署内の遺体安置所に安置されていた。後日それは今宮が所属していた弁護士事務所が引き取り、火葬と簡素な葬儀を行い妻と娘が眠る墓に納骨された。とはいえ家族3人が亡くなった事で墓守もおらず、数年後には合祀墓に移されると共に墓は撤去される事が決まっていた。
橘嘉代子は就寝中に達彦に殺害された。そして達彦はその場で自殺した。達彦を容疑者とした殺人事件は容疑者死亡の書類送検と言う事で幕を閉じた。嘉代子と達彦の2人の子供達は1人暮らしをしながら社会人として働いていたが、両親を無理心中という事件で失ったと同時に状況が一変した。
母親に対する父親の凶行であった事からも同情する意見も多かったが、両親を同時に失うという失意の最中にあってもそれなりの中傷を受けた。2人のそれぞれの職場に於いても直ぐに話は広まり、その会社に対して心無い電話が入る事もあった。社内で何かを言われる事はなかったが、周囲の皆がその事を知っているという状況の中でそこに居続ける事は相当なメンタルを要した。だが2人共にそんなメンタルは無く自主的に会社を去る事を余儀なくされた。
2人は別々に暮らしていたが、それぞれが会社を去りアパートを引き払うと同時に遠く離れた街へと一緒に引っ越し、2人で一緒にアパートを借り、そこで兄妹支えあいながら新しい生活を始めた。
遺書も無いままの無理心中。子供達は何故温厚だった父親が母親を殺害しての無理心中を図ったのかを知る由も無かった。
今宮も嘉代子も安楽死を選択できる立場であったにも拘わらず望まない形での死を迎えた。2人ともが最期に「これは天罰なのだろうな」という言葉が頭を過りつつこの世を去って行った。
◇
20XX年『終末管理法』制定。制定されると同時に厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は当局の管理監督の下で、個人に対して個人の終末日、つまり亡くなる日を通知するというのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は健康体の人物を対象とした福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は即刻郵便として全国へと発送される。対象期間は月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は通知葉書を受領した人達へのカウンセリング、そして安楽死の実施という2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には自治体により火葬納骨まで行われる。その際は自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると終末日まで拘束される事になる。それ程の強権を発動する事に対して賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。そして安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年12月01日 初版