ある 事情
鑿の柄を左手でしっかりと握り込みハンマーで後ろを叩くと、よく研いだ先端の刃がぐっと石に食い込んで細かな破片となる。
ふっと息を吹きかけて欠片を飛ばすと細長い石板の下に敷いている使い古された毛布の上に散った。
前屈みになっていた体を起こし、開いた両膝の上に手をついてしばし眺める。
「うん。悪くないな」
良く知られた聖句を囲うように小さな五片の花びらと蕾を刻みこんでいるのだが細かい作業なので時間がかかる。
装飾全てを花で仕上げると聖なる言葉ではなくそちらが目立ってうるさくなってしまう。
全体を見ながら数を増やし、間を伝統的な模様や草や蔦の絵柄で埋めていくのはとても根気のいる仕事である。
「すごい、ですね」
「お前もそう思うか?」
「はい」
本当にすごいや、とため息交じりで褒められるのは悪い気がしない。
もっとよく見ようと傍にしゃがみ込んで覗き込んでくる少年のあどけない様子を見てほっとした。
「悪かったな。うるさくて目が覚めたんだろ?」
運び込んで寝かしつけた己のベッドと作業をしている場所は近すぎる。
なにせ管理小屋は狭く一間しかないのだから仕方がない。
玄関から入ってすぐ台所である竈のある土間部分、食事用でもあり下絵を描いたり資料を広げるための机が置かれ、中央から一段上がり奥に向かって床が貼られている寝室兼道具置き。
一応屋根裏に物置があるので梯子があるが、普段は用が無いので今は取り外され端っこに追いやられている。
「朝まで寝てたらあなたに迷惑かかるし、帰ってこないって大騒ぎになっちゃうから」
「違いない。ま、こっちとしたら騒ぎになってくれた方が見習い騎士たちの度胸試し、つうアホらしい恒例行事が行われなくなるだろうから助かるがな」
「すみません」
しゅんっとした顔で謝ってくるのでこれ以上嫌味をいうのも悪い気がして額を掻く。
そもそも先輩の見習い騎士たちが新人にやらせるのだから少年のせいではないのだ。
「お前が先輩になって周りを止めてくれればそれでいい」
この少年一人が諌めた所で長年続けられてきたものが無くなるとは思えないので期待はしていないが、こちらの言い分を知っている人間がいるのといないのではオリゴの気の持ちようが違う。
「これがあなたのお仕事なんですね」
浮かされた手が石板に伸び、触れるのを躊躇うように揺れてそっと毛布に散った塵のような小さな石片をつまみ上げる。
「そうだ。死者本人に聖書のどの部分がいいか選んでもらって要望に応じて装飾をする」
「死者って、あの、さっきの?」
「そう。お前が怖がった亡者どもだな」
眉を寄せて視線を逸らす少年に浮かぶのは羞恥か。
「悪ふざけが過ぎるが悪霊とは違うから憑りついて命を獲ることまではせん」
「そう、ですよね。いくら先輩たちでもそこまで危険な場所に行けだなんていいませんよね。ほんとオレってばよく考えれば分かることなのに」
取り乱して。
かすれた声と同時にふっと吐き出された息が空気を揺らす。
まだ細い首元を覆う詰襟に手を当てた少年は少し黙った後で再び口を開いた。
「ここに書かれるのは聖書の言葉だけなんですか?」
「いや。自作の詩を刻んで欲しいって頼んでくる奴もいるし、今まで好きになった女の名前をいくつも挙げる奴もいる」
「へえ。なら今度は明るいうちに来て墓標を見て回るのも面白そうですね」
文字を辿っていた目が細められて小さな笑い声が響く。
「それぞれだ」
死者の数だけ人生があり、望むものも違ってくる。
オリゴはただ彼らの願いに添えるように力を尽くすだけ。
そう伝えると少年は一瞬目を見開いた後で笑み崩れた。
感じ入った風にうなずき「オレが死んだら、オレの墓石はあなたにお願いしたいな」などと軽くいう。
「お前の歳なら随分と先の仕事になるだろうが。そんな口約束守って待っててやるほど気は長くない」
「そうかな。そんなに先の話じゃないと思うけど。だってドワーフは人間より長生きする種族でしょう?確実にオレの方が先に逝く」
「お前顔に似合わず嫌なこというな」
「だって本当のことですし」
一応すみませんと謝って少年は己の膝を抱えて座った。
騎士見習いの真新しい靴や制服は湿気の多い墓地で大騒ぎしたことであちこち汚れているが、気にした様子もなく穴が開くほどじっと石板を見つめている。
「そんなに、気に入ったのか?」
「はい。とても」
力強い返答にオリゴが自分の赤毛の髪を掻き回すと長い前髪を後ろでぞんざいに結んでいる毛先がぴょこぴょこ動いた。
「ありがたいことだが俺がお前の墓を作ってやることは難しかろう」
「どうしてですか?」
「そりゃ俺はここの墓守で、お前が入る墓がある正規の墓地には行けないからだ」
単純で簡単なこと。
「お前も知っている通り。ここには寄る辺なく死んだ孤独な者が入る墓地」
乱世の時代には身元の分からぬ者の死体が、そして世が落ち着いた後には様々な事情で身寄りが無い者が死んだり、金銭的余裕が無く正規の墓地へ入れない者が、時には運悪く命を落とした旅人が行き着く――それが、オリゴが守る場所。
「弔う者が誰もいない者しか入れない墓に、ちゃんとした身元のある騎士見習いであるお前が入れるはずがないだろうが」
叱り飛ばされたと思ったのか。
少年は今にも泣きそうな顔でオリゴを見上げてきた。
びっしりと目の縁を覆うように生えたまつ毛がふるふると震えている。
「ま、待て。落ち着け、泣くな、男が簡単に泣くもんじゃない!」
「泣いてませんっ!まだっ!」
「まだってことは、やっぱ泣く気じゃないか!」
「ううぅううう!だって、身元はしっかりしてても、どうせオレは――ファベット家の墓には入れないんですから!」
ここに入れないのならいっそ泣かせてくださいと、肩と背中を波打たせて嘆く少年にはなにやら事情がある様子で。
オリゴは額にある傷痕に太く短い指を這わせて大きく息を吐く。
「お前、名前は?」
「アル、です」
「アルな。俺はオリゴだ」
「オリ、ゴさん?」
「“さん”はいらん。オリゴで良い」
「でも」
「呼び捨てできないんなら出入り禁止だ」
「!」
「できるな?」
「オ、リゴ」
「よし。じゃあ話してみろ」
詳しい話を。
そう促すと少年アルは瞳を潤ませたままひとつ大きくうなずいた。
「オレは元々この街からずっと西に方にある小さな村の出身なんです。冬の前に村のみんなで織った反物や獣の皮や毛皮を売って食べ物と交換するためにこの街へ父さんについて来ていた時に二つ上の兄と戦いごっこをして遊んでいたら『良い目と勘を持っている。筋もいい』って旦那様に声をかけられて」
五歳になったばかりのアルは同じ歳のファベット家の子息シリカの遊び相手兼訓練相手として屋敷に召し抱えられたという。
子供といえども村の暮らしでは貴重な働き手でもあるので最初は渋っていた父親も自分たちでは与えてやれない学術や特殊な技術訓練を息子に受けさせてやれるという魅力的な言葉に途中からは乗り気になった。
更に賃金として毎月送ると約束された金額が厳しい冬を楽に乗り越えられるだけのものだと聞いてからは手放しで喜ぶ始末。
「最初は良かったんです。お屋敷で働いている人たちみんな優しかったし、布団はふかふかで隙間風も入って来ないし、ご飯も美味しい。時々家族を思い出して泣いたりもしたけど、楽しくて」
十年があっという間に過ぎたらしい。
「でもオレの方が少しだけ剣を上手く扱えたり、力が強かったことがシリカ様の繊細な部分をすごく傷つけていたらしくて」
部屋から出て来なくなった。
なんども声をかけ、誘い、謝って。
「ファベット家は由緒正しい騎士の家柄です。先祖代々ご子息はみな騎士として立派に領主さまにお勤めされてきました。なのにシリカ様は騎士になんかならないっておっしゃって、それを聞いた旦那様が、ならばオレを――アルを養子にして代わりに騎士にすると」
こんなことになるなんて。
膝の上に組んだ腕につるりとした額を押し付けてアルは小さく首を振った。
「脅しではなくファベット家の当主は言葉通り実行したってわけか」
「はい」
弱々しい返答になんとも憐れな気持ちが湧くが、正式な書類を領主に提出し養子として認められた以上ファベット家からの支援と保護はあり、生活に困窮することはまずない。
おとなしく騎士見習いを終え騎士となれれば死ぬまで安定した暮らしが確約される。
辺鄙な小さな村で自然の恵みに頼って生きていくよりはずっと楽で恵まれているが。
「お前はそれでいいのか?」
「……分かりません」
指を握りしめた手の甲に浮かび上がる青い血管と筋。
口にしたようにきっとなにを掴み損ねたのか、本人にも分かってないのだろう。
「本当ならお前、身に着けた知識や技術でどんな生き方でも自由に選べたはずなんだぞ」
教えてやらぬ方が良いのだろうと思ったが五歳で親元を離れ、自分なりに人付き合いをしながら生活環境を構築して一生懸命に生きてきたアルの頑張りを無駄にするのが忍びなかった。
父親も息子の将来を思ってファベット家へと預けたに違いないのに。
「小さい頃になりたかった職業とか夢とかあるだろ」
それを思い出してみたところでアルの力だけで現状を変えることは困難だ。
分かっていながら残酷なことをいわずにおられないのは己が未熟で若いからだという自覚はある。
「なりたかった職業?」
「そうだ」
のろのろと上げられた視線は一度石板へと向けられ、虚空を彷徨ってからパチリと瞬きで一度切られ。
戸惑うように頭が左右に触れ、ガクンと前に落ちた。
「ど、どうした!?」
「ううっ」
なぜか聞こえる嗚咽に慄きながら名を呼ぶとアルは小さな声で「分からない」と呟く。
「分からない、だと?お前、まさか」
十五年生きてきて考えたこともなかったというのか。
そんな奴いるか?
ふつう。
「どんだけメデタイ奴なんだ、お前は」
「……ごめんなさい」
「俺に謝ってもらっても困る」
「ううっ。ですよね。とんだご迷惑をおかけしました」
帰ります、と立ち上がったアルはふらふらと玄関へと歩いて行く。
ケープに包まれた背中がすっかり丸まってしまっている。
ガチャリと音を立ててノブが回り、蝶番を軋ませながらドアが開く。
月明かりに照らされた墓石の向こうから顔を覗かせて遠くから眺めている幽霊たちはみな少し心配そうな顔をしているように見える。
「お邪魔しました」
幽霊たちに見られていることに気づいているのかいないのか。
彼らに背を向けてオリゴの方へペコリと頭を下げた。
「おう。気を付けてな」
「はい」
少年は視線をずらして石板を眺めた後、吐き出そうとした息を無理やり止めて。
ノブから手を放し、自らもそこから立ち去ろうと身を翻した。
「アル!」
慌てて立ち上がりドアへと走る。
転がった鑿と金槌が床へとゴロリと転がる音が聞こえたが、構わずに閉じかけの戸に太い腕を突っ込んだ。
「オリゴ?」
驚いた顔で振り返るアルはパチリと瞬きをひとつ。
亡者たちは目をキラキラさせて成り行きを見守っている。
鬱陶しい限りだ。
「いつでも遊びに来りゃいい。たいしたもてなしはできんが、ここの連中はみんなお前のこと気にいったみたいだしな」
「え?」
首を傾げるアルに顎をしゃくって墓地の方を見るようにと促す。
途端に「うわっ!?」と声を上げ飛び上がる。
その様子に腹を抱えて笑い転げる幽霊たち。
「あの、お仕事の邪魔には」
「ならん。ドワーフの集中力舐めるなよ」
「あは。すみません」
顔全体で笑ったアルが「また来ます」と告げて。
軽やかな足取りで帰って行く姿を見送っていると笑い転げていた中から一人離れてやってきた男が『お優しいね~。今度の墓守さまは』などとからかってくる。
「やかましい奴の墓石は後回しにしてやろうか?それとも真っ先に終わらせて送ってやってもいいが?」
『オオ怖い!誉めてんのに』
『照れてやがんだよ』
「黙れ。口ばっかり達者な亡霊たちのせいで毎日うるさくてかなわん」
ふんっと鼻で笑いオリゴはノブを掴むとゆっくりと扉を閉じる。
『おやすみ、オリゴ』
『仕事はほどほどにしときなよ』
『また明日』
『いい夢を』
彼らにひとつうなずいて返し、パタンと戸が閉まりきるともう幽霊たちの声は聞こえない。
オリゴは首をぐるりと回して解し、アルが熱心に眺めていた石板の元へ行きしゃがみこむ。
窪んでいる文字を指先で撫で、冷たい石の表面に手のひらを重ねる。
目を閉じ、触れた部分が温くなる前にそっと離れた。
鑿と金槌を拾って机の上に置き、寝床へ転がると全身から力を抜いて。
ふわりと落ちてくる眠りの誘いにおとなしく身を委ねた。