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6.授業②

「では、アンネソフィー様。授業を始めましょう」


「あの、せんせい」


「……はい?」


 大人用の大きな机と椅子に身を収めた彼女は、恥ずかしそうに告白した。


「わたくし、まだ読み書きができませんの……だから……」


 だからどうか怒らないで、ゆっくり付き添って欲しい。消え入りそうな小さな声で、アンネソフィー様は言った。


 彼女はそれを恥じているようだけれど、それ自体は珍しい事ではなかった。


 この国の人間の半数以上は読み書きができない。学校に通う子も、読み書きのできる子もいれば、まったくできない子もいる。


 そう伝えると、彼女は少し安心したようだった。先週聞かせてくれた、透明感のある、落ち着いた声に戻ってくれた。


「ゆっくりと、一歩づつ頑張りましょう。私が、常についていますから」


「はい、レーフェルド様。よろしくお願いします」


 第一の目標は、文字を読み、そして書くことにある。


 本当は、まずはアルファベットを読めるようになることが優先なのだけれど、同時に書けるようにせよ、という旦那様からの至上命令を私は預かっていた。


 無理難題とまではいかないものの、教育に従事する者ならば顔をしかめるであろうその要求を実現するため、私はハレ市の書店から入手した表を机に広げた。


 表には、それぞれAからZまでの綴りが、大文字と小文字に分かれて印刷されている。


 机に広げられた表を、アンネソフィー様は身を乗り出してじぃっと見つめた。


「これがアルファベットの表です。それぞれ、大文字と小文字がありますので、間違われないように」


「は、はい、せんせい」


 私の言葉を一字一句、聞き洩らさんとする真剣さでもって、アンネソフィー様は頷いた。


「まずは、アルファベットの読み上げから参りましょう。私がゆっくり発音しますから、私の後に、続いてくださいね」


 そうして私は、表に印刷された文字を指した。


「この文字『a』はアルファベットの最初の字。『アー』と発音します」


「アー」

「『b』はベー」

「ベー」

「『c』ツェー」

「ツェー」


「……」

「……」


「よくできました。では、次は大文字に取り掛かりましょう」


「『A』アー」

「アー」

「『B』ベー」

「ベー」

「『C』ツェー」

「ツェー」


「……」

「……」



◇◇◇◇



 アルファベットの大文字と小文字の読み上げのために、午前の二時間が費やされた。


 お昼の休憩の後、私達はこれから書き取りの授業に入る。教材は、午前に使ったアルファベットの表に加え、羽根ペン、インク、練習用のざらざらしたわら半紙。


「では、書き取りをいたしましょう。まずは、私と一緒に」


「はい、よろしくお願いします」


 ペンの持ち方、動かし方を知らないアンネソフィー様のため、まずは私の手が彼女の手を包み込む形になる。


 触れた彼女の手は、薄雪草(エーデルワイス)のように白く、冷たかった。


「書きながら、読み上げもしていきましょうね」


「は、はい、せんせい」


「「a, b, c, d...」」

「……」


 私の付き添いで一周目が終わると、次の二周目はお一人で。


 一文字一文字ゆっくりと、時計職人が小さな部品を扱うような慎重さでもって、アンネソフィー様は羽ペンを動かしていく。


「a、『あー』」

「b、『ベー』」

「c、『つ、つ、……』」

「ツェー、です。お嬢様」

「あっ、そうでした。ツェー……」


「……」

「……」


 この段階から、長時間椅子に座ってじっとしていることに耐えきれず、授業を放棄してしまう子も少なくない。


 アンネソフィー様は投げ出されたりしないだろうかとも考えたけれど、それは杞憂だった。


「ふう。できました!」


 二時間以上かけて課題を終えた彼女はインクで汚れた手と顔を全く気にせず、自らが書いた文字を見て、嬉しそうに笑った。


「お上手です、お嬢様」


「レーフェルド様、ほんとうにありがとうございます。ここまで我慢強くわたくしに付き合ってくださったの、あなたがはじめて。そ、それから……」


 アンネソフィー様は、伏し目がちに━━それは彼女が緊張しているサインのようだった━━続けた。


 その面持ちは、まるで内気な子が学校の教室でたまたま隣同士になった子に初めて話しかける時のような、そんな場面を思わせた。


「わたくしのことは、どうか簡単に、名前でお呼びください」


「……分かりました。これからは、アンネソフィー……いえ、ソフィーと呼ぶことにします。それでは、私のことはレギーナと。アルファベットの表は私からあなたへのプレゼントです。お暇でしたら、ご自分でも復習をしてくださいね」


 はい、レギーナ、わたくし、頑張ります。そう言うと、ソフィーは私を真っ直ぐと見て、そしてはにかんだのだった。

19世紀半ばの、村の小さな学校の様子。真面目に授業を受けている子もいれば、飽きてしまっている子もいます。

https://de.m.wikipedia.org/wiki/Datei:Anker_Die_Dorfschule_von_1848_1896.jpg


https://de.m.wikipedia.org/wiki/Datei:Johann_Peter_Hasenclever_-_Die_Dorfschule.jpg

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― 新着の感想 ―
[一言] >飽きてしまっている子もいます。 こんな子供に対してはどう教えればいいのでしょうか (。´・ω・)? 切実に悩みます。 ドイツ語良いですね! もちろん全くできませんwww
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