41.復活祭と⑪
ごん、という小さな鈍い音がした。
倒れたソフィーの頭が教会の石床に叩きつけられた音だ。
急な事で、皆固まった。動くことも、言葉を発することもできず、時間が止まったみたいだった。
彼女が気を失って倒れたのだと頭が理解して、そして行動に移すまでにかかった時間はどれくだいだっただろう。実際には数秒かも知れないけれど、少なくとも主観ではその数倍は長く感じられた。
「ソフィー!ソフィー!」
駆け寄って大声で呼びかけても、ソフィーは床に倒れ、目をつむったまま。
彼女の口元に耳を近づけると、すう、という微かな音と共に、空気の流れを感じる。呼吸はある。
そこで気が付いた。赤い液体が、彼女の髪を濡らしていた。固い石の床に打ち付けられた彼女の頭から出血していた。
私の視界までもがぐらりと揺れた。
「血が……」
「……これは、どうすれば……」
「……と、とにかく、早くお嬢さんをお屋敷へ運びましょう。自分がおんぶをしますよ」
「そ、そうですな。それはありがたい」
後ろから旦那様とビュルガー親子の声が聞こえる。私も含めて皆、動転している。
不用意に動かしてよいものかと、数年前に読んだ家庭の医学の本についての記憶を手繰り寄せるけれど、私自身気が動転して考えがまとまらない。
そんな中、もっとも理性的に振舞ったのはアウグステさんだった。
「無理に動かすのは危険ですよ。そこの長椅子に毛布を敷いて、休ませましょう。コルセットも緩めてあげなければなりませんから、それは女性の仕事です。少しだけ、少しだけ出血していますから、男性の方々は清潔な濡れタオルと毛布を数枚、大急ぎで持ってきてください」
それが大事ではないことを示すように、『少しだけ』という部分をアウグステさんは強調した。旦那様とビュルガー親子は、言われるままに牧師室へ走った。
その間、てきぱきと、まるで医者のように、アウグステさんはソフィーの容体を確認していく。
ぐったりとしたソフィーに刺激を与えないように、身体を横に向けさせた。ソフィーの礼服は、背面からボタンで閉められていた。礼服を後ろから開くと、腰から胸下の位置まで届く長いコルセットが露になった。
「アウグステ。この子は、大丈夫ですね?」
後ろの方でぼんやりと全てを眺めていたアルトハウス夫人が口を開いた。コルセットを緩めながら、アウグステさんは答えた。
「ええ、きっと大丈夫ですよ。若い女の子が急に倒れるというのは、そう珍しい事ではありません。特に初めてコルセットを巻いた日には、血が回らなくなって貧血を起こすのです」
「ほんとうに、ほんとうに大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですとも。見たところ出血もひどくはありませんし、少し安静にしていればすぐに気を取り戻しますよ」
それは、私と夫人を安心させるに足る、自信のある声だった。
それはよかった、と夫人は呟いた。へたりと長椅子に座り込み、続けた。
「ねえ、家庭教師さん……」
「はい」
「この子は随分とあなたに懐いているようなの……それで、この子が目を覚ましたら、あなたからも言って聞かせてあげなさいな。何がこの子の幸せなのかということを」
教会に来たばかりの私には、夫人が何を言わんとしているかは推し量ることしかできなかったけれど、状況からなんとなく理解はできた。
婚約の話はソフィーをひどく驚かせ、そして彼女は拒絶したのだ━━
「この子がこんなにいい話を断りたいだなんて……それもあんなに強情に……どうしてしまったのか、私にはさっぱり……」
「それは……ソフィーの気持ち、彼女の意志を聞かないことには……」
この三十九日間、私を悩ませ続けた罪悪感。その一端を、できるだけ穏やかに奥様に聞かせた。奥様はしかし、ため息をついた。
「レーフェルドさん。あなたのような方はお一人でも生きていけるかもしれませんけど、みんながそうではないことは、お判りでしょう?ソフィーは、身体だって強くはないのですから……」
「それは……」
その言葉に、なんと答えればいいのだろう。気が高ぶって、なかなか考えがまとまらない。
答えが出ないうちに、旦那様とビュルガー親子が十分な量の毛布と濡れたタオルを持って走ってきた。
アウグステさんが受け取ったタオルを出血部に当てると、その部分は赤く染まった。ソフィーの意識は、まだ戻らない。
「いいですか、慎重に、ゆっくりとです。火のついた蝋燭を持って夜の道を進む時のように、繊細にですよ」
「「「いち、に、さん……」」」
アウグステさんの指示の下、毛布を長椅子の上に敷き、男性陣が慎重にソフィーを持ち上げ、その上に寝かせた。
そうして落ち着いてから、ビュルガー青年が言った。
「今日これ以上話を進めるのは難しいようだ。私も大学の夏学期で忙しいし、彼女も考える時間が必要かもしれない……。そこで、どうでしょう。秋まで様子を見て、もう一度話し合いの場を持つというのは」




