40.復活祭と⑩
━━五月中旬、昇天祭の前日━━
「どうしても、どうしても来てくれないのですか?」
ソフィーの堅信礼、大人になるための儀式は、この年の昇天祭と同じ日に執り行われる。
一度は蘇ったキリストが『父』の待つ天へと旅立った事を讃える昇天祭の日は、ソフィーが大人と認められるのには絶好の日といえた。
その前日までソフィーは粘った。彼女の気持ちは嬉しいけれど、やっぱり私は悲しかった。何度聞かれても、答えは同じだった。
「すいません、どうしても行くことができません」
「どうしてです」
「……昇天祭は、カトリック信者にとってとても大事な祝祭の日なのです。この村にはカトリック教会はありませんから、明日は街まで行ってお祈りをしたいと思います」
最後には宗派の違いを利用してまで、私はソフィーの願いを断った。
街の教会に行くというのはもちろん嘘だ。ただの言い訳だった。私はわざわざお祈りの為に片道一時間かけて街に行くほど敬虔ではない。
明日ソフィーに付き合って、彼女が身も心も離れて行くその瞬間が耐えられないというのが理由だった。
私の仕事は、旦那様の望みを実現すること。ソフィーに余計な知識を与えて不安にさせないように、婚約の計画も知らせず、授業のカリキュラムをこなしていった。
それは旦那様の望みだった。家庭教師として正しいことをしている筈なのに、でも間違った事をしている感覚が増えていく。彼女と私自身を欺き続けた。復活祭の日曜日から今日までの三十八日間、私は穢らわしいことを積み重ねた。
◇◇◇◇
そうして迎えた昇天祭、もといソフィーの堅信礼の日。
結局、私は下宿部屋に一人籠っている。
本を読もうにも落ち着かない。ソフィーに出くわしでもしたらと考えると、外に出ることもできない。かつてソフィーが書いたプラタナスのスケッチ画を眺めながら、ぼんやりと時を過ごしている。
今頃、教会では事が全て上手に運んで、ソフィーは教会からも、家族からも、ベルナデットからも、そして未来の良人からも、一人の大人と認められているだろう。
相手は法学部に通う青年。エリートじゃないか。未来の高給取り。(好意的に言えば)活力に溢れ、見てくれも良かった。彼の将来は輝いている。彼の妻として、ソフィーもきっと幸せになるだろう。
対して、私はどうだ。
意地を張って家庭教師になって、両親にも心配をかけて。生徒に対して不純な感情まで抱いて。私はここでいったい何をしているのだろう。なんて惨めなのだ。もしも神様がいるのなら、ばかな私を見て人類は罪深いままだと失望するかもしれない。
そんなことをぐるぐると考えて、堅信礼の儀式もそろそろ終わったかという頃。下宿部屋のドアとどんどんと叩く音がした。
「ジニィちゃん!?ジニィちゃん!いるんでしょう!?」
この声。そして私をこの愛称で呼ぶ人は村では一人しかいない。アウグステおばさんだ。
きっと、堅信礼が終わったと知らせに来てくれたのだろう。
今アウグステさんに会うのは少しばつが悪いけれど、結果だけ聞けば私も諦めがつく。そうすればきっと、全てをしまい込んで、次の職場のことを考えることもできるようになるだろう。
自分で言うのもなんだけれど、私は家庭教師としては上手くやった。アルトハウス様は満足しているし、次の職場を探すのにも協力してくれる。
次の職場。どこがいいだろう。故郷の近くがいいだろうか。いっそのこと、外国へ━━
そんなことを思いながら、私はゆっくりと下宿部屋のドアを開けた。
「どうも、こんにちは。アウグステさん」
さっきまで声を張り上げてドアを叩いていたアウグステさんは、私を見ると安堵の表情を浮かべて、そして私を外へと連れ出そうとした。
「ジニィちゃん、よかった……お願いだから、教会に来てちょうだい!」
「い、いえ、私は、教会へは……え、ちょっと、アウグステさん……!」
喋り切る前に、アウグステさんは問答無用で私の手を取った。
なぜ私が行かなければならないのか、堅信礼は、ビュルガー青年との顔合わせはどうなったか。謎ははあるけれど、まずは聞きたいことがある。
「どうして私の場所を……今日は街に行く予定だと、ソフィーから聞いていませんか?」
私の手を引っ張りながら、アウグステさんは言った。
「あなたが村に居ることは知っていたの……さっき返事がなかったら村中を探すつもりだったけど、部屋に居てくれてよかったわ。……朝からずうっと待ってたのよ?」
「……あの、待つってなんのことです?私は今日は……」
話しながらも、アウグステさんは教会に向かってずんずんと歩いていく。
「違うの。あの子が、馬車乗り場に行けばあなたに会えるだろうって朝からずうっと待っていたの」
「……ソフィーが、私を待っていたのですか?」
私の問いに、アウグステさんは早足で歩きながらコクリと頷いた。
「去年の年末に、あなたが村を出発した時の事を覚えてる?」
ベルリンの旅行が終わって、私が帰省する日。見送りに現れたのはソフィーではなくアウグステさんだった。
「あの子、あの時は見送りができなかったでしょう?だから、だからね。今日はほんとうに頑固だったわ。朝早くから堅信礼が始まるまで、馬車乗り場に現れるはずのあなたを待っていたの」
そう言って、アウグステさんはソフィーの言葉を聞かせてくれた。
『今度こそは、絶対にレギーナをお見送りするんです!』
『レギーナは最近元気がありませんから、馬車乗り場でびっくりさせて、わたくしの喜びを分けてあげるのです。そうすればきっと、これまでのように……』
『……それに、今日のわたくしを少しでも見て欲しいですから……』
その言葉を聞くだけで私は目頭が熱くなり、そして同時に彼女を欺いた罪悪感で押しつぶされそうになる。「そうですか」と、短い返事をするだけで精一杯だった。
「結局あなたは現れなかったから、村にいると踏んだの。ほら、着いたわ」
「いや、それでも、私には何がなんだか……」
訳も分からないうちに私達は教会に着いて、アウグステさんは言い聞かせるように言った。
「いい、ジニィちゃん。あなたの仕事は、あの子をとにかく落ち着かせること。わかった?」
そう言って、アウグステさんは教会の扉を開いた。礼拝堂の奥では、何か言い争っている人たちが見えた。
ゆったりとした、黒い礼服に見を包んでいる女の子はソフィーで間違いがない。手を胸に当てて、何かを訴えるように話している。
それに対し叱りつけるように腕を組むアルトハウス夫妻。ビュルガー父子は、その後ろでただ突っ立っている。
「……に対する義務はどうなる!!」
「我儘を言うのではありません。女性の幸せというものは……!」
「……でもわたくしは、わたくしの……」
足を進めると、だんだんと会話の内容も聞こえるようになってきた。ソフィーが口を開くのが見えた。
「レギーナは……!」
私の名を、ソフィーは教会中に声を響かせた。三十九日前の復活祭の日曜日、ここで響いた彼女の透き通る歌声とは、込められた感情の質が異なっていた。
「……レギーナも、この事を知っていたのですか?」
ソフィーの問いに、旦那様が叫ぶように答えた。
「もちろん、レーフェルド君だってお前の婚約の事は承知しているとも!復活祭の時に、ビュルガー様との挨拶も済ませているのだからね」
旦那様の言葉に、ソフィーの身体がびくんと震えた。
そこでちょうど、私とソフィーの目が合った。その目は、聖土曜の夜、聖水を汲んだ時と同じように潤んでいた。
「……ほんとうですか。レギーナ。ずうっと、知っていたのですか?……わたくしの、将来のことです」
私は、信仰に関する重大な罪を告白室で白状する罪人になったような気持ちで、なんとか言葉を絞り出した。
「……はい、知っていました」
「……そう、レギーナも知っていたのですね」
そのまま、ソフィーは絶望の表情のまま、気を失ってその場に倒れこんだ。




