39.復活祭と⑨
━━復活祭は終わり、五月。授業が始まって十一ヶ月━━
「レギーナ!びっくりするお知らせがあります!実はわたくし、堅信礼 (Konfirmation) を受けることが許されました!」
授業が始まる前、彼女の部屋。
おはようの挨拶を飛ばして、ソフィーは嬉しそうに私の手をとってぶんぶんと振った。
堅信礼は子どもが大人になるための儀式とも言われる。それが済めば、ソフィーは一人前の人間として、教会からのお墨付きを得たことになる。
「ええ、聞いていますよ。月末の、昇天祭の日 (Himmelfahrt) ですよね」
私がそれを知っていることが意外だったのだろう。ソフィーは嬉しい顔と力いっぱい振る手を止めて、『どうして知っているのか』と言いたげな、きょとんとした顔を作った。
「……旦那様がお話になっていました。すいません、ソフィーには秘密にしておくように言われていまして」
言いながら、私の心はズキンと痛んだ。罪悪感のようなもので胸が満たされていくのを感じる。ソフィーに知らされていない事は、堅信礼だけではなかった。
「そうですか……お父様が……わたくし一人ではしゃいでしまって、なんだかばかみたいですね」
「そんなことはありません。旦那様もきっと、あなたを驚かせたかったのでしょう。あなたを思ってのことですよ」
ソフィーは、自分に婚約の話があることも知らない。ビュルガー青年との正式な挨拶さえしていない。
二人の顔合わせ、婚約書類へのサイン、そして教会での結婚の承認は、ソフィーの堅信礼の儀式が済んでから進めていこうと両家の間で決められていた。
その計画の全てを、ソフィーだけが知らされていない。
ソフィーに驚きと喜びをあげるため、ではない。女の子のソフィーには知らせる必要もないと旦那様は思っていた。
そして旦那様のために動く事が、家庭教師としての私の義務だった。
「まさか普通の子のように堅信礼を済ませられるなんて……その日はきっとベルナデットにも来ていただいて、それから、それからですね。ええと……」
大人への階段に足をかけられることが決まったのだ。嬉しそうにソフィーは続けた。
彼女の毎日は充実していて、復活祭の後も授業に集中している。
心も体も成長して、ソフィーはどんどん大人になっていく。
それが私は嬉しかった筈だけれど、でも今は━━
「……聞いていますか、レギーナ?」
「……ええ、聞いています」
「本当ですか?」
「本当ですとも。ベルナデットも、きっと来ますよ」
歯切れの悪い返事をしてしまっていることは、私自身分かっている。でもどうしても、そうしてしまう。
「お気分が悪いのですか?復活祭が終わってから、元気がないように見えますが……」
「いえ、そんなことは、ありませんが……」
婚約の話が進んでいる事も、そしてもちろん私の気持ちも知らないソフィーは、純粋に心配の目を向けてくる。
その心配が、余計に私の心に刺さるのだった。
意図があってか、ソフィーは話題を変えた。確認するように聞いた。
「……ところでレギーナ、わたくしのお花、ラッパスイセンのお花は、まだ元気でしょうか」
「……すいません、残念ですが、萎れてしまいました」
復活祭の後、私は自分を立て直すのに精一杯だった。
お花に構う余裕はなかった。かび臭い下宿部屋で、水を変えず、日陰に置きっぱなしのソフィーの花は直ぐに萎れてしまって、去年彼女が初めて描いたプラタナスのスケッチ画の隣にそのまま置いてある。
「それは、残念です……そういえば、レギーナ。まだ聞いていませんでしたね」
「……なにを、ですか?」
一番聞きたくなかった問いを、ソフィーは私に真っ直ぐ向けた。
「……レギーナは、今回も傍に居てくださいますね?」
「……私は……」
堅信礼のその日、もしソフィーに付き合えば、私は今の生活の『終わり』を見ることになる。
ソフィーはきっと、優雅な黒い礼服を着るだろう。復活祭の日に私が間近で見ることのできなかったあの服を。
教会の祭壇の前に立ち、緊張した面持ちで蝋燭を両手で握るソフィーの姿を、彼女が大人になる厳かなその日の事を、最前列に座るビュルガー青年は目に焼き付けて一生忘れないだろう。
儀式が終わってひと段落がついたら、お互いの紹介を兼ねた話し合いが設けられる。
教会の長椅子に、もしかしたら二人は隣に座るかもしれない。そうしたら、気障なあの青年のこと。ソフィーの柔らかな手だって握るかもしれない。
婚約の約束が成立したら、気の早い愛の言葉だってソフィーは聞くことになるかもしれない。
そうして二人は結婚して、十年後か二十年後か、その日の事を思い出として話すだろう。
『堅信礼のあの時の君は美しかった』
『あら、今のわたくしは美しくないと、そうおっしゃりたいの?』
『そんなことはないさ。今だってきれいだ』
『あら、そんなことを言っても、もう遅いですよ。あなた』
『からかわないでおくれよ。……そういえば、あの時の家庭教師さん』
『……レギーナのことですか?』
『そうそう。あの日も一緒に来ていたレーフェルドさんは、今何をしているだろう』
『レギーナは、きっと今もどこかで……』
そんな、幸せな二人の綺麗な思い出の背景になるのだ。私はそんなこと、耐えられそうもなかった。
「……私はその日、行くことができません。どうか、その日来た方々を大事にして下さい」
私の答えに、ソフィーは悲しい顔をした。
「……そうですか。それは、とても残念です。とても……レギーナには傍に居て、わたくしを見て欲しかった……」
何か、大事なことが終わった後。
例えばベルリン旅行の際の読書会。そして復活祭の讃美歌の合唱。
そんな、彼女にとってとても大事なことが終わった後。ソフィーはいつも、『傍に居てくれてありがとう』と、そう感謝の気持ちを表す。
でも今回は、そうはできそうもない。その光景は、辛くて悲しくて耐えられそうもない。それは、私の心の容量を大きく超えた事だったから。
「では、授業を始めましょう。今日は、英語の手紙の書き方です」
「……はい、レギーナ」
「……」
「……」
その後、堅信礼の前日まで授業は続けられたけれど、以前のような楽しい授業を続けることは、私にはもう困難になっていた。




