3.アルトハウス家②
━━数週間後、アニオール村━━
ハレ市郊外に位置するアニオール村。
そこには家畜や畑のための小さな庭が付いた、古くて背が低い住居が数十件建並んでいる。
でこぼこした狭い村の通りには、流行から後れた服に身を包んだ住民、馬やガチョウがちらほら。
教会は石造りで、十字架が天高く掲げられている。
その教会の次に大きな建物。それがアルトハウス家が所有している屋敷だった。元はさる貴族の別荘として建てられたというその重厚な屋敷は、漆喰を施さない裸のレンガで建てられている。
屋敷の主はこの村の出身。本人は糸や服地を扱う商売のため、屋敷の管理を女中に任せ、村と都市を行ったり来たりの生活を続けているのだという。
約束の時刻通りに、私は屋敷の門を叩いた。
「あら、私と年はあまり変わらないのね。てっきりもっと……」
「はい、今年、大学を卒業したばかりです。レギーナ・レーフェルドといいます、奥様」
意外そうな顔でもって迎えたのは、アルトハウス夫人。
年は私より少し上だろうか。三十代前半。美人と言えるだろう。
金髪を後ろで留め、小奇麗な栗色のガウンを着ている。
上着の上からでも、コルセットによってひどく引き締まったウエスト、それから相対的に強調された胸のふくらみが見て取れた。
「Eh bien ... Oui, l'âge n'a pas d'importance. Tu parles Français? (ええ、でも年齢は関係ありませんわね。あなた、フランス語はお話になって?)」
彼女の不自然なフランス語を指摘することは、もちろん避けないと。彼女は私の依頼主の奥様で、生徒ではないのだ。
できる限りの友好的笑顔というものを作って、私は答えた。
「Oui madame. (はい、奥様)」
「Êtes-vous musical? (音楽はおできになって?)」
「Oui, je joue du piano. (はい、ピアノを少々)」
私の返事に満足した婦人は、両手をぱんっと叩き、苦労を知らない人間だけが作ることのできる、朗らかな表情を浮かべた。
「まあ、じゃあ、いつかメニュエットをお弾きになって。あの子、踊りが大好きなんですの。でも、まずは夫に会ってもらいますね。あと、それから……」
そう言うと、夫人は視線を落とした。
「はい?」
「……せめて身なりを整えて、アルトハウス家の名を落とさないこと。それが最低条件ですよ」
短く切られた私の栗色の髪、化粧のない、そばかすの入った顔、そして質素としか言いようのない私の服装を見て、婦人は「親切にも」そう助言して下さった。
パンを買うか、本を買うか。そして毎日の生活を切り抜けるための奨学金を勝ち取るか、さもなければ街の通りで歌うか物乞いをするか。そんな苦渋の選択に悩まされる貧乏学生の生活など、彼女には想像もできないだろう。
女性の権利が声高に叫ばれるようになった今日においても、やはり「結婚」は女性の生活を保障するための大事な手段なのだった。
妻である彼女達は、独り身である私達よりも明らかにいい暮らしをしていて、時たま憐れみの視線を向けてくることさえある。このアルトハウス夫人のように。
正直に言って、それは私にとっては大きなお世話だった。
◇◇◇◇
「あなた、家庭教師様がおいでですよ」
「うむ、入りなさい」
夫人の案内で、私は雇い主であるアルトハウス様の書斎に足を踏み入れた。
上等なものと一目でわかる調度品や絨毯のある書斎で、アルトハウス様は安楽椅子で身を休め、パイプを吸っていた。
仕事机の上には、ルター訳聖書と十字架の装飾が施された燭台が置かれている。
「私がアルトハウスだ。よろしく」
「お会いできて光栄です、旦那様」
簡単な自己紹介、それから学生時代の恩師に書いてもらった紹介状の提出といった儀礼的事柄を早々と済ませ、依頼主様は本題に取り掛かった。
「……君の出自を調べさせてもらったが」
私の雇い主、アルトハウス様。麻の、グレーのスーツが包む身体はやや小太り、髪はきれいに撫で付けられ、丸眼鏡を掛けている。
やり手の商人と噂の旦那様は、私に疑いの目を向けた。
「君は、カトリックを信仰しているそうだね」
「はい、旦那様」
私は南方の出身で、地元と周辺の街にはカトリック教会が多い。
私にとってこれは単なる地理の問題なのだけれど、依頼主様にとっては非常に重要な事柄のようだった。
「我が家はルター派で、熱心に神を信仰している。わかったかね?」
「万事、心得ております、旦那様」
その念を押すように強調された言葉は、生徒となるご令嬢にとっては、異教の知識、最新の科学や啓蒙思想は教育上好ましくないことを意味していた。
パイプをふかしながら、冷たい声でアルトハウス様は続ける。
「では、報酬は年三八〇ターラーだな」
「……はい?」
……いやいや、待って欲しい。
私はそれなりに我慢強いつもりだけれど、言うことは言わなければならない。
「求人票には年四百と書いてあったはずですが」
「ああ、以前の先生方は四百ターラーで満足していただいていたよ。男性の、ルター派で、学識のある方々だった。しかし……」
「……」
無言の圧力に晒されて、胃がきゅうっと痛くなるのを感じる。
百年後や二百年後の未来ことはわからないけれど、今日、家庭教師、そして女性であることは、社会的弱者を意味していた。
性別は自分で選べるものではないし、家庭教師は高度に知的な職業であるにも関わらずだ。
その事は自分でも分かっているつもりだった。でもこの村に来て、初めての雇用主に挨拶をしたその日、私は改めてそのことを思い知らされた。
そして、それを受け入れるしかない己の弱さに泣きそうになる。耐えなければならない。
飢え死によりは遥かにマシだし、これが私の選んだ道なのだ。
でも将来、もしもいつか、時間とお金に余裕ができたなら。そんな事が許されるのなら、家庭教師と女性の地位向上のために働こう。
この瞬間、そう心に誓った。
「……」
「……」
不利な条件を飲み込み、私は採用の返事を貰うことができた。
仕事の内容は、現在十三歳のアルトハウス家令嬢、アンネソフィー様に基礎的な学問の授業を施すこと。期間は三年。但し、重大な問題が生じた際は、雇用主に契約を打ち切る権利がある。
「では、これでいいかな」
「……はい、旦那様」
重要な事柄について双方の合意に至った後、旦那様はふぅとため息をつき、窓の外へと目をやった。庭には赤いバラと白い百合、それから大きなプラタナスの木が見えた。
「ところでレーフェルド君、君は絵も描くかね」
「……ええ、旦那様」
「それはいい。是非、愛する娘には全ての科学や文化、それに芸術について授業をしてもらいたいのだ」
「ご立派なお考えです、旦那様」
全ての科学や文化、芸術。でも、私は知っている。そうはいかないことを。
アルトハウス様はさらに続けた。
「しかし……」
ほら、やっぱり。
「忘れないでくれたまえ。私が家の主であり、娘が何を学ぶかを決めるのも私だとね。では、今日は娘に挨拶をして、帰ってよろしい。来週から、よろしく頼むよ」
「かしこまりました、旦那様」
そして私は旦那様の書斎を後にした。