38.復活祭と⑧
聞き間違いだろうか。
旦那様は今、ソフィーがこのビュルガーと名乗る男と婚約すると、そう言ったように聞こえたけれど。
「……アルトハウス様、もう一度、よろしいですか?」
「婚約だよ。アンネソフィーのね。ビュルガー様があの子の良人となってくださる」
旦那様ははっきりと、幸せそうに言った。
ああ、頭がくらくらする。
「君のおかげであの子もすいぶん成長した。特に今日の讃美歌はどうだ。中心に立って、一番きれいな歌声を響かせていたと、そう思わないか」
「……ええ、ソフィーは随分と成長しました。半年前とは、比べられないくらい」
「ああ、ほんとうにそうだ。それも君のおかげだということは、もちろん私は承知しているがね」
「私の、おかげ……ですか?」
旦那様は、にっこりと微笑んで言った。
「ああ、レーフェルド君。あの子が良人を持てるのは、全部君のおかげだ。字も読めないあの子を貰ってくださる人がいるかと心配したものだが、君の頑張りが、こうやって報われたのだ」
「……そう、ですか……」
「ところで、君との契約は三年だったね。いずれ正式に婚約、そして結婚となれば状況は変わるが、その点は心配しないでくれたまえ」
「……というと、ソフィーはずっとアニオール村に住むのですか?」
婚約は急な話だけれど、もし、彼女が村にいるのなら。たとえ別れることになったとしても、私はその日まで頑張ろうと思う。
でも、旦那様は私の問いに笑って答えた。
「はは、そんなわけなかろう。あの子には、ビュルガー様のところへ嫁いでもらうよ。君の次の教え先は私の方で手配してあげよう。どこか、希望はあるかね。やはり、故郷のバイエルンかな?」
「……い、いえ、急には……」
それだけ言うのが、私の精一杯だった。
家庭教師は大変な仕事だ。ほんとうに。
依頼主からは『なんでも』要求される。そして『なんでも』できることは当然のことで、それで尊敬されるわけではない。
あちらから契約を打ち切られることもある。
そうして逆境に耐えて、生徒を育てて、育ったら次の街へと一人で発たなければならないのだ。
私はソフィーのために頑張ったし、頑張るつもりでいる。
知っていること、できることをつぎ込んで。彼女がいずれは自分の人生を歩むことができるように。そのために最大限の努力をした。
そして、頑張った結果が、これなのだ……
ソフィーの未来の良人を前にした旦那様は、いつになく優しい笑顔を浮かべて、私を夕食にも誘ったのだった。
「もしよかったら、一緒に羊肉でもどうかね。復活祭の日はこれを食べなければならない。君の宗教ではもっと派手に祝うのかもしれんがね」
「いいえ、私は……」
できる限りやんわりと、波風を立てないように断って。
ラッパスイセンの花瓶を握りしめて、私は大股歩きで、できるだけ速い速度で下宿先へ帰った。
帰り道では酷い顔をしていたと思う。涙は結局こらえられなかったし、鼻水も出た。
◇◇◇◇
「げほっ、う゛ん゛っ……う゛う゛っ……」
そうして下宿先に帰って、便器の前で膝をついて、我慢できずに胃に入っていたものは全部吐き出した。
ソフィーのお水も、もはや胃の粘液にまみれた吐瀉物と一緒に。




