34.復活祭と④
着いたのは、森を少し入ったところにある小さな池。村の周辺にある池の一つだそうだ。
周りには白樺が生えている。この一帯では珍しい木だった。
そして復活祭のこの時期、空にはほぼ完全な丸型の月。
私はもとより、ソフィーもこの場所は初めて。本物の妖精が住んでいそうな、そんな池の雰囲気に二人で見入っていると、ソフィーが口を開いた。
「そういえば、レギーナのところでも聖土曜の夜はお水を汲むのですね」
「そうですね……復活祭の聖水は、何にでも効く万能薬と言われています」
この日この時間、乙女が小川からくみ上げ、一滴も零すことなく、そして一言も話すことなく家まで持ち帰った水は、目の痛み、発疹、その他の病気を癒し、若さと美しさをもたらすと言われている。
「この村では、はぐくむ力、愛の象徴と言われているそうです。人だけでなく、牛や馬の健康にもよいのだとか」
「ええ、細かな違いはありますが、どの宗派でもそのように考えられているはずですよ。それから、女性に子どもをもたらすとも」
「子ども、ですか……」
でもこういった事柄は、これからは唯の迷信となるのだろう。
女の子が毎年行う、人生の一部を成す大事な儀式ではなくなるのだろう。ベルリンのような大都市ではこういった風習は廃れつつあると聞いた。
「ところで、水は小川から汲むのですよね」
私たちの目の前にはきれいな池があるだけで小川はない。視界は良いし、森も深くはない。
少しくらいなら歩き回っても大丈夫だろうと思い足を進めると、ソフィーが私を呼び止めた。
「……あの……あの、待ってください、レギーナ!」
「……はい?」
ちょっと声量を上げて、ソフィーは言った。
「聞きたいことが、あるのです。ほんとうはずっと気になっていたことが」
それから、一寸の間が開いた。
息を吸って、吐いて。深呼吸をしてから続けるようだった。
その間、私といえばそんなソフィーを見て、『結った髪も似合っているけれど、そのまま下ろした方がかわいいな。大事そうに持っている器には貝殻の模様が入っているな』と、そんな事を思った。
そうしてソフィーは口を開いた。
器を持った手が微かに震えている。
瞳が濡れているように見えるのは、気のせいだろうか。
「まだ、妹様を愛しておいでですか」
ざわり、と風が吹いた。
実際に吹いたのか、私の心に吹いたのか、それが分からないくらい動揺した。
ベルリン旅行の後、この事が話題に上ったことはなかった。
あれから四か月が過ぎていた。二人きりの時も、その事はもう話さなかった。
彼女は私の性質のことを気にはしていないようだった。そう思っていた。
どうして、急にそんなことを。今までの会話の流れ、これまでのソフィーとの経験を思い返したけれど、考えはまとまらなかった。
私が何も言えないでいるので、ソフィーは気まずそうに、取り繕うように早口で言った。
「す、すいません。こんなことを聞いてしまって。もう遅いですし、ここで水を汲んでしまいましょう。ここの水は、飲めるくらいきれいなのだそうです。バウアーさんが言っていました」
そうしてソフィーは水辺でしゃがんで、持ってきた器で池の表面を掬った。
汲んだ水は一滴も零してはならず、帰り道は一言も言葉を発してはならない。
静かに村まで歩いて、目だけを合わせて微笑んで、そうして彼女と別れた。
瞳が微かに濡れているのを、今度ははっきりと見て取った。
彼女のせい、とは言えないけれど、ぼうっとして歩いていた。下宿先に帰る途中、何かに躓いて、カップに満たした聖水をこぼしてしまった。
『こぼしたミルクを嘆いても意味はない。してしまったことを無かった事にはできない (It is no use crying over spilt milk) 』という句を今度の英語の授業で扱おうかな、と、呑気な事を思った。




