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30.年明け④

授業回。


タイトル、あらすじ、作品タグ、過去エピソードにちょっとだけ手を加えました。よくあることです。



『英語学習のための信頼できる道しるべ、又はドイツ語話者のための根本的な英語の手引き』



 それは、初版発行から五十年以上経った現在も使われ続けている安心と信頼の教科書。英語学習のためのスタンダード。五百ページを超すそのボリュームに、ソフィーは目を丸くした。


「……もしかして、まさかとは思うのですが、小説を読むのはその教科書を終えてから、というわけではないですね?」


 一縷の望みをかけて、といった様子でソフィーは尋ねた。


 その気持ちは分かるけれど、でもそれは、家庭教師としてはできない相談だった。


「あなたが考える通り、小説はお預けです。どんなに短く見積もっても一年は教科書でみっちりお勉強ですよ」


「そ、そんな……」


 一年というのも、ソフィーなら可能かもしれないという憶測に過ぎない。


 英語はドイツ語の方言に過ぎず、学ぶのは難しくないと言う哲学者もいるけれど、それでも平均的な学習者なら、小説を読めるようになるまでに数年はかかるだろう。


 私の期待も、そして自分の天才も知らない彼女は、しかし大きく落胆したようだった。


「あなたが頑張ればそれだけ授業は早く進みます。私も、一緒にこの小説を読むことのできる日を楽しみにしていますよ」


「は、はい……」


 それは、私の本心から出た言葉だった。彼女と一緒に本を読んで、感想を分かち合えたら。そんな日が来たならば。


 そう願いつつ、彼女のための教科書を開いた。


 まずは発音のルールから、一歩ずつ。ゆっくりと。次に文法。その過程で例文と頻出単語の暗記も。そしてついに長文の読解と翻訳に至る。


「ご存知の通り、ドイツ語と英語のアルファベットの綴りはほぼ一緒です。でも発音の仕方が違います」


「そ、そうなんですか……」


「教科書に載っているアルファベット表を見てください。英語の『a』と『A』は『Ä』と発音します」


「え、えぃ、ですか」


「『b』と『B』は『Bi』」


「びぃ?」


「『c』と『C』は『ßi』」


「す、すぃー、ですか?」


「ええ、その通り」


「……」

「……」


 慣れない発音に戸惑いながらも、二十六種のアルファベットを一回りする事ができた。


「単語の発音も、さわりだけ見てみましょう。やっかいなので注意してください。例えば単語の最後が-eで終わると、このeははっきりとは発音されないのです」


「は、はあ……」


「一緒に単語も覚えていきましょう。ここに、例が載っていますね。Face、Grace、Shade、Lame……」


「ではこのaも、そのまま発音するのではないのですね」


「ええ、その通りです……」


「……」



◇◇◇◇



 はじめての英語の授業が終わり、ソフィーは(くう)を見てため息をついた。


 気を紛らわせるように、机の上に残っていたレープクーヒェンのひとかけらを口に放り込んだ。


「はあ……外国語とは、こんなにも難しいものなのですね」


「初めは誰でも混乱するものですよ。ドイツ語と英語が頭の中でごちゃごちゃになるでしょうが、いずれ頭の中に英語の『回路』のようなものができます。要は慣れですよ」


「慣れる、ものでしょうか……」


「ええ、あなたなら、きっとすぐに」


 ソフィーなら、きっとすぐに。


 それは、確信を持って言えることだった。

登場した教科書は実際に使われていました。自分が目を通した版は1789年発行(初版発行はおそらく1755年)。


一冊の本なのですが、タイトルが英語とドイツ語の二種類あります。英語の方は『The True English Guide for Germans:著者John King(本の一ページ目にそう書いてる)』


そしてドイツ語は『Der getreue Englische Wegweiser oder: Gründliche Anweisung zur Englischen Sprache für die Deutschen:著者Johann König(二ページ目にそう書いてる)』


英語タイトルとドイツ語タイトルで著者の名前まで変わっていて面白いです。英語版はジョン・キング。そしてドイツ語版の著者名はジョン・キングをそのままドイツ語に訳したヨハン・ケーニヒ。それだけです。面白かったのでつい。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  所謂、百合ファンタジーとは一線を画しているところ。  精神性に重きを置いた恋愛感情が丁寧に描かれている。そこに視点が当たってるのが、綿乃木は好きです。  同性愛も、異性愛も、一緒と思いた…
[良い点] わたしもレギーナに教えてもらいたい人生だった [気になる点] >自分が目を通した版は1789年発行(初版発行はおそらく1755年)。 読み解くの大変そう過ぎて驚嘆しかない、さすがです
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