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23.帰省④

「ところで、レギーナ……」


 大晦日の夜。


 家族三人でオンブルゲームに興じていると、アルコールで饒舌になった母が手を止めて何かを言いかけた。元来暖かさよりも厳しさの印象を与える母の顔に、さらに皺が寄っている。


 どう切り出そうかと長い間考えて、意を決して口を開いたことが見て取れる。そして私には、母が何を言わんとしているのかは予想ができていた。


 ああ、やっぱりこの事を話さなくてはならないのかと、気が重くなった。


「あなた、結婚する気は……」


「ないですね。まったくないです」


 やはり、結婚のことだった。


 私が男性を愛せないということを両親は知らなかったし、知っていたとしても真剣には受け取らないだろう。


 この事をいつかは話すことになると予想はできていたので、母がため息を漏らす間もなく私は続けることが出来た。


「なんとか暮らせてはいますし、別に結婚をする必要はないでしょう」


 お金と愛情。結婚の大きな動機はこの二つだ。


 特にお金。


 女性はお金を稼ぐ手段が限られる。


 それはなぜか。


 女性は力仕事に向かないとか、理性的判断に欠けるとか、そういったよく言われる理由ではなくて、もっともっと別のところと思うのだけれど、今の私にはその事を示す手段がない。


 とにかく重要なのは、世の中の大多数の女性にとって、結婚は生きるために必要という現実だった。


 一方私はと言うと、幸運なことに大学を卒業し、そして家庭教師としてなんとか生活はできている。


 望める限り最高の教育を施してくれた両親にはいくら感謝をしてもしきれない。それだけに、母の意に沿えない事には後ろめたさもあった。


 そして母の無限の心配が、私の短い返事くらいで止むはずもないこともまた確かだった。


「何もお金のために結婚を勧めているのではないのですよ。それよりも大事なのは、心が充実するという事です。誰かを愛し、誰かに愛されること。それは、とても大事なのですよ」


「それはそうかもしれませんが……」


 お互いに大切に思い合い、お互いがお互いの人生の目的となる。そのような関係を体現している両親は私の理想の夫婦であり、そんな両親を私は尊敬していた。


 それだけに、見えてしまうのだ。私は、誰か男の人を愛し、支え合う関係を築くことはできないと。


「結婚相手が酷い男だったらどうしろというのです。妻の意見などまったく聞かずに、自分の望みを強いるような、そんな世界で最低最悪の男だったら」


 それが口から出た言い訳だという事は、私自身が一番分かっていた。


 大学教授を勤める父の元には、いくつもの縁談話が持ち込まれているのだろう。その中にはきっと、(皆がそうではないにせよ、)私の幸福を目的として生きてくれるような、そんな優しい人だっているだろう。


 しかし私はきっと、そのような人であっても、愛することができないのだ。結婚したとして、その人の人生を台無しにだってしてしまうかもしれない。そのような無責任、私にはできない。


 そんな考えを隠すために出た私の子どもじみた言葉に、母はあきれ顔を作った。


「そんなこと言って、いつまでも独りで生きるつもりなのですか?」


「いつまでかは分かりませんが、当分は独りで十分と思っていますよ」


「当分って、いつまでです。死ぬまで、ですか?」


「それは……」


 それ以上、私は母の問いには答えられなかった。


 私には男性と結婚はできない。


 けれども。しかし。


 母の言葉をきっかけにして、これまで何度も考えながらも先送りにしてきた問題が再び目の前に現れた。



 私はずっと独りなのだろうか。年を取って、孤独に震えて、涙を隠して生きていくしかないのだろうか━━



 家庭教師は孤独な仕事だ。


 数年ごとに国内外を転々としなければならないこの生活を続ける限り、誰かと一緒に生きるといった事は望めない。


「まあまあ、レギーナもまだ年頃なのだし、考えだってあるだろう」


 家族を愛する父は、こんな時いつも間に入ってくれる。


「しかしですね、あなた。私がこの子の年の頃には、もうレギーナもアンナも授かっていたのですよ?」


「まあ、そうかもしれんが……」


 母の言葉を反芻するために少し間を置いてから、父は口を開いた。


『私達の子は、私達のようになる必要はないし、なるべきでもないのだ。時代も、しきたりも、状況も全て変わるのだからね』


 お酒の入った父が得意顔でラインホルト・レンツを引用したことに、母は顔をしかめた。引用句そのものよりも、父が反対意見を言ったことに反応した。彼女の思考の矛先は、父親に向いたのだった。


「そうは言っても、変わらないものだってあるでしょう。私がレギーナの心配をするのが、いけないというのですか?どうなのです?」


「い、いや、そういうつもりでは……」


「トビアス、あなたは私のやることなすこと、いつも反対なのですね。偶には私に同意してくれてもいいのではないですか」


「い、いや、いつもとは、少しばかり誇張してはいないか……」


「……」

「……」


 その場はそのまま夫婦間の意見交換となり、興奮する母を父がなだめるうちに時刻は零時を回り、気が付けば年が明けていた。

引用文原文:

"[U]nsere Kinder sollen und müssen das nicht werden, was wir waren: die Zeiten ändern sich, Sitten, Umstände, alles [...]".

Jakob Michael Reinhold Lenz (1774): Der Hofmeister - Kapitel 2. Erster Akt. Zweyte Scene.

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