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21.帰省②

「お帰り、愛する娘よ」


 アニオール村を発ってから一日半。


 馬車が到着したエアランゲン市役所から徒歩で北へ行き、街の大学を抜けて道を下った先。そこに私が生まれ育った家がある。


 アニオール村の多くの住居と同じような、木が格子状に組まれた建築様式。でも村の家々よりも一回り大きな建物の入口で私を迎えたのは、私の父、トビアス・レーフェルド。


 父はこの街の大学で論理学の教授を勤めている。五十代後半。やせ型で、大柄。自慢のくせ毛と口ひげは半分以上白くなり、目元口元のしわは年々濃くなっているけれど、それでも活力は衰えず、よく食べ、よく語り、日課の散歩を欠かさない。


 そんな父は、私を見るなり力いっぱい抱きしめた。


「痛いです、父様」


「おお、すまんすまん。元気そうなお前を見て、ついな」


 父は私の首にまわした腕をほどいて、そしてにこりとほほ笑んだ。


「お久しぶりです、父様。ただいま帰りました」


「ああ、お帰り、愛する娘よ」


「それはさっき聞きましたよ」


「いいじゃないか。何度言っても。それより外は寒いだろう。早く入りなさい」


「はい、父様」


 実家に足を踏み入れるのは、一年ぶりだった。



◇◇◇◇



 父の後を付いて家に入った。


 床の間の中央には使い古された大きなテーブルに、クッションが埋め込まれた椅子。壁には振り子式時計と大きな鏡、用途別に用意された棚の数々。窓には麻のカーテン。床にはコーヒーの小さなしみがついた絨毯。


 それは見慣れた光景そのままだった。


「どうだ、久しぶりの我が家は」


「……変わっていませんね。ほんとうに」


「そうだろう、そうだろう」


 そう言って、父は少し誇らしげにほほ笑んだ。


 久しぶりに帰った実家は、驚くほど変化がなかった。それを見て、私も嬉しくなった。全ては母マグダレーナの誇りに依るものと、父も私も知っていた。


 部屋を整頓すること、布団を清潔な状態に維持すること、新鮮な食材を吟味し、肉料理にスープ、コンポートにコーヒーを食卓に出すこと。そのための家事を毎日毎日繰り返すことは、理性的で美しいことなのだと、私は家を出てから知ったのだった。


 父は大学で働き、その成果で家族に恩恵をもたらす。母は任された家を見事に守る。そうしてお互いに、お互いの事を感謝する。私が大学を卒業するためにあくせくして、家庭教師として働いている間も、ここでは変わらない生活が流れていた。


「ああ、月日の経つのは早いものだ。お前のいない一年など、あっという間に過ぎてしまった。どうだい、仕事の方は。家庭教師は大変だろう」


 居間の椅子に座りつつ、父は聞いた。


 私が故郷を空けていたこの一年間、父にもいろいろなことがあったはずだ。だというのに、何よりもまず私の事を知りたがった。私は、家族への愛を隠さない父親のことが好きだった。


 その父親も大学に招聘される前は家庭教師をしていて、国内外を転々とした時期があったのだという。幼い頃から、私はその苦労話を聞いて育ったのだ。


 給料が支払われない、生徒がやんちゃ、依頼主の品行の悪さなどなど。若き家庭教師トビアス・レーフェルドの冒険譚に比べれば、私の半年間などは街外れの鹿の原(レーフェルド)のそよ風のように穏やかなものだった。


「大変なことはありますが、概ねしあわせですよ。生徒は女の子一人だけで、アンネソフィーというのですが、とても頭のいい子で……」


 そうして私はこの半年間のことを父に聞かせた。


 ソフィーと出会った時、彼女は私に怯えて神に祈りを捧げていたこと。


 恥ずかしがりの彼女とは少しずつ、ゆっくりと打ち解けていったこと。


 頭がよく、文字を覚えるのがとても早いこと。


 聖書の暗記もすぐにこなしてしまうこと。


 デッサンはあまり得意ではないこと。一緒にベルリンに行ったこと。


 来年からは英語の授業も始めること。


「それからなにより……」


「うん?」


「それからソフィーは、どこかアンナに似ていますね……」


 アンナ・レーフェルド。それは十年前に亡くなった、私の妹の名だ。


 珍しくはない、むしろありきたりな名前だけど、その響きは私にとって特別なものだった。私がアンネソフィーをアンネではなくソフィーと呼ぶのも、妹の存在があってこそだった。


「そうか……」


 今は亡き妹の話が出て、父は少しの間遠い目をした。そして突然、何かを思い出したように一通の手紙を取り出した。


「そうそう、そのソフィーちゃんからお前に手紙が届いているよ」


「え?手紙ですか?」


 彼女からの手紙は、昨日アニオール村を出発する時にアウグステさんから受け取ったはずだけれど。父が持つその手紙は、まぎれもなくソフィーからの二通目の手紙だった。



◇◇◇◇


愛するレギーナ、


 あなたが村を発って、すぐにこの手紙を書いています。というのも、お伝えしたいことがあります。英語の授業ですが、お父様が小説を教材にすることをお許しになってくださいました。これまで頑張ったご褒美だそうです。来年になったら、英語の言葉を覚えて、そしてあなたと一緒にご本を読めるのが楽しみです。


 エアランゲンはどのような街ですか。アニオール村のように長閑なところでしょうか。ベルリンのように華やかなところでしょうか。ヨーロッパの大地の広がりがわたくしとあなたを隔ててしまい、それがわたくしから力を奪ってしまったかのように思います。体調を崩してしまい、一日中ベッドに縛りつけられています。この半年間、あなたが隣にいるのが当たり前だったので、昼間に一人でいると部屋が急に大きくなったように思えます。


 部屋の窓からプラタナスの木を眺めると、デッサンの授業のことや、あなたと歩いたベルリンの街のことを思い出します。レギーナ、あなたのお返事と、そしてあなたが村に帰って来る日の事を心待ちにしています。


ソフィー


◇◇◇◇



 あのアルトハウス様が小説を読むことをお許しになったことよりも、ソフィーの文章の才能に驚かされた。まだ十三歳の、読み書きを覚えて間もない少女がこの手紙を書いたなど、誰が信じるだろう。

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