1.プロローグ・告白
プロイセン・ザクセン地方に、アニオールという珍しい名前の村がある。
最寄りの都市からは馬車で一時間。住民の八割は農業で生計を立てている。栄養の豊富なじゃがいもが植えられるようになったのは最近のことで、それ以前は豆で飢えを凌いだのだという。お肉にありつくことができるのは、家畜が死んだり、森で偶然猪や鹿が獲れた時だけ。
そんな村でも人は生きていて、生きている以上は物語がある。ゲーテが一篇の詩か小説にでも残しそうな、心に刻み付けられて一生忘れられないような尊い一瞬がある。
例えば、今、この時。初夏。深夜零時過ぎ。
村では一番裕福なアルトハウス家の令嬢、アンネソフィーは、もう真夜中だというのに屋敷の庭にいた。そこでずっと私を待っていたのだった。
「すいません、ソフィー。遅くなってしまいました」
「いいえ、いいのです。呼び出したのは、わたくしなのですから」
もう何時間も私を待っていた筈だけれど、彼女はそんな事は問題にはしなかった。座っていた白い庭椅子から立ち上がって、少し震えながら、彼女は続けた。
「あの、それで、わたくし……」
「分かっています、ソフィー」
「いえ、言わせてください。言いたいのです」
彼女が何を言わんとしているかは分かっていた。応えなければならないのはむしろ私の方だ。
しかし彼女は今一度、一呼吸置いてから、はっきりと気持ちを言葉にした。
「わたくし、あなたのことが好きです。手紙のお返事を、あなたのお気持ちを知りたいのです」
彼女の名が入った恋文を受け取ったのは昨日のこと。屋敷の女中が下宿先まで訪ねて来て、私に赤い封筒を手渡したのだ。
控えめな彼女からは想像できない、情熱的な手紙だった。『愛しています』と、はっきりとそう書かれていた。
もちろん驚いたし、そして嬉しかった。私も彼女の事が好きだった。どうにかなってしまいそうな幸福が私の全身を駆けた。
でも、現実は小説のように美しくはない。彼女の人生を台無しにはできない。
さまざまな考えがぐるぐると頭を回った。彼女のいる未来、いない未来。
彼女と私にとってどちらの未来がしあわせか、その答えは出なかった。
一時の気の迷いだったと彼女が諦めてくれる事さえ願った。そうすれば、『あのとき諦めてよかった』と、十年後の彼女は悟るはずだから。
そうして私は『明日の夜、屋敷の庭で』という彼女の言葉に従ってここを訪れた。
時刻はもう零時を回っている。私自身どうすればいいか分からず、こんな時間まで待たせてしまった。
「ソフィー……」
「いいのです。正直に言ってください。わたくしを受け入れてくださるかどうか」
目の前の彼女は私を食い入るように見つめてくる。
結局、目の前の彼女を拒絶するなんて、そんなことは私にはできるはずもなかった。私は今この時の感情に動かされた。
数歩踏み出て、私は震える彼女のその手を取った。
白くて冷たい彼女の手が、今は人並み以上の体温を帯びている。頬はあの恋文のように赤く燃え、瞳には涙が滲んでいる。
心に巣食う不安を殺して精一杯の微笑みを向けると、彼女は私の胸に飛び込んできて、きつくきつく抱きしめた。
私も彼女に応えると、彼女の白いケミーゼドレスの布の感触、布の奥の身体の感触、そして彼女の匂いが全身を刺激した。
「素敵なお手紙、ありがとうございます、ソフィー。私もあなたのことが好きです。あなたのものになら、喜んでなりましょう」
短く切り揃えられた金色の髪に手をやると、彼女の瞳にはこれまで見たことのない幸福の色が浮かんだ。
「わたくしのものだなんて、そんな……貴女の幸せが、同じくわたくしの幸せなのです。どうか、わたくしと一緒に生きて、そのことを忘れないで」
そう言う彼女のきれいな唇が目の前にあって、そしてその唇を見る必要がなくなるくらい、私たちはさらに近づき合った。
後からこの時の事を思い返すと、私は胸が痛くなる。
私の返事が、幸福を得るためのその返事が、彼女の一生を決定付けてしまった。
私は家庭教師として、この病弱で気弱な、しかし大胆な、そして愛すべき生徒とその家族の将来を第一に考えなければいけなかったというのに。
◇◇◇◇
時は、ほぼ一年前に遡る。