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18.ベルリンでの休暇⑨

「レギーナ、わたくし、本屋に行ってみたいです」


「本屋ですか?」


 ソフィーがそう言い出したのは、読書会の翌々日。


 あの読書会の後、ソフィーはやはり落ち込んでいた。宿で続けられた通常の授業には身が入らず、聖書を読み違えることが何度もあった。


 そして私の『奇妙な性質』のことを話したからだろうか。私への態度も少しだけ変わったように思えた。


 例えば食事中、ふと目が合うと慌てて目を逸らされたり。かと思えば就寝前(私とソフィーは二人同じ部屋で寝泊りをした)、私の妹との思い出話をせがまれたり。


 距離を置かれているわけではないけれど、あの日の事は彼女に何かしらの印象を残してしまったようだ。せっかくの大都会なのだし、気分転換をさせてあげたかった。


「いいですね。行ってみましょうか。ベルリンは国内外の街との交流が盛んですから、地方では手に入らない本も置いてあるはずですよ」


 私の言葉に、ソフィーは目を大きく開いた。何かを期待しているようだった。


「読んでみたい本でもあるのですか?」


「はい。欲しい本があるのです」


 そう言うと、ソフィーはふふっと、嬉しそうに微笑んだ。彼女は私の手を引っ張って、駆けるように宿屋を後にした。



◇◇◇◇



「すごい……こんなにたくさんの本が……」


 ベルリン一と評判の書店は、期待通りさすがの品揃え。


 床から天井まで届く大きな本棚が壁一面に備え付けられ、そこには人気のゲーテやシラーだけでなく、学術書や外国語の本までが詰まっている。


 それも、ほとんどの本が「買える値段」なのだ。


 少し前まではごく一部の人の楽しみだった読書も、一般市民が楽しめる趣味として広まりを見せている。


 先日は読書室に行っただけで図書館の本館には行かなかったし、こんなにも沢山の本に囲まれるのは、ソフィーにとっては初めてのことだろう。


 勉強熱心な彼女のこと。読書に飢えていたことは言うまでもない。先日のシュライアーマッハー氏の論文か、新しい讃美歌集が読みたいのかと、そう思っていたのだけれど。


 書店の中をひとしきり見学したソフィーは私のコートの袖を引っ張り、澄んだ声で、まるで授業の質問をするかのように私に尋ねた。


 ソフィーの読書欲は私の予想の斜め上を行くものだった。


「それで、レギーナ。あなたが感銘を受けたというイングランドのご本は何というのでしょう」


 予想外のその質問に、私は数秒の間、言葉を失ってしまった。


「……というと、ソフィー。もしかして、女性同士の『友情』が描かれる小説のことでしょうか」


「ええ、もちろんではありませんか」


 何を言っているのだと、そういった表情をソフィーは作った。


 何を考えているのだと言いたいのは、こちらの方なのだけれど。


「……サラ・スコットの『ミレニアム・ホール』、アンネ・ヒューズ『ヘンリーとイザベラ』、それから私が何度も読んだのはシャルロット・レノックスの『ユーフェミア』ですが……まさか、ソフィー……」


 嫌な予感がした。まさか、ソフィーのお目当ての本とは……


「ええ、わたくしも読んでみたいと思います。その、『ユーフェミア』という本は、この書店で扱っているでしょうか」


「ソフィー、それは……」


 この書店にその小説は、ある「かも」知れない。『ロビンソン・クルーソー』をはじめとして、イギリスからの小説はここドイツ語圏でも人気を博していて、多くのタイトルは輸入されている。


 そしてそれらの本は「ポケットブック」と呼ばれる廉価本。買えない値段ではないはずだ。


 しかし。


 私は、ソフィーに小説のことを話してしまったことを深く後悔した。


 読み書きを覚えて、それが楽しくてたまらないといった様子のソフィーなのだ。小説に興味を持つのも当たり前のことだった。


 彼女が小説を読むこと。それは、旦那様の許可なくしては許すことのできない相談だった。


「それはいけません」


「ど、どうしてです!」

 

 本当なら、私だってソフィーが自由に読み、書き、考えることを援助したかった。でも。


 小説━━特に恋愛が主題の━━というものは、聖書の範疇を超えて、読み手に間違った考えを与えかねないとして、子どもや女性が読むことは忌避されることが多いのもまた事実。


 アルトハウス様がこの種の小説を快く思わないことは目に見えていた。


 しかし、旦那様がお許しにならないという理由で小説への興味を否定して、父親への不信感を植え付けるなど、家庭教師として以ての外だ。


 そして私が自分で読んでおいて、小説は不道徳だからと禁止するわけにもいかなかった。


 そこで私は、咄嗟にもっともらしい理由をでっち上げた。


「この小説は英語で書かれていますから、ソフィーには読むことはできませんよ」


 外国語で書かれた小説を、ソフィーは読むことができない。これでなんとか切り抜けた。


 と、そう思ったのだけれど。


 しかしここでも私は、ソフィーの知識欲を侮っていた。


「そうですか。ではレギーナ、明日からは聖書の暗記だけでなく、外国語の授業を始めることにしましょう。もちろん、英語です!」


「はい……?ソフィー、今、なんて……?」


 その綺麗な目を輝かせて、世界は美しいと信じて疑わない顔で、ソフィーは続けた。


「わたくし、英語を勉強します!お父様も、いつか外国語の授業を始めるようにと、そう言っていたではありませんか!今日はご本を買うだけにして、本を読むためにお勉強をしましょう!目標があった方が習い事も(はかど)ると、そう思いませんか?」


 目標があったほうが、習い事は(はかど)る。


 それは、まったくその通りだった。


 しかしそれでも、どうしても。私はソフィーにこの本を許すことはできなかった。


「それでも、いけないことはいけません。まずは真面目に勉強をして、英語が読めるようになったら、それから考えましょう」


「……どうしても、どうしても買えないのですか?」


 今日のソフィーはやけに食い下がる。顔をしかめて、納得がいかないといった様子だ。


「いけませんね」


「レギーナは、わたくしがご本を読むのに反対なのですね!」


 そうしてソフィーは拗ねてふくれてしまった。


 私は彼女の利口さばかりをに注目していて、そのような面もあるのだと、私はその時ようやく知ったのだった。


 ……いや、以前のソフィーなら、苛立つことなく、素直に聞き入れていたのではないだろうか。


「わたくしは……」


「はい?」


「わたくしは、あなたのことが知りたいのに!」

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