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9.授業⑤

 ━━授業が始まって、四ヶ月━━


 屋敷の女中を務めるアウグステおばさんはとてもいい人だ。


 それが屋敷の仕事には入らないというのに、私が村の生活を始めるためにいろいろと世話をしてくれた。それがきっかけで仲が深まり、今では世間話もするようになった。


「アニィちゃん(アンネソフィーのことを、おばさんはそう呼ぶ)がこんなに元気にしているの、初めてのことなのよ」


「そうなんですか?」


「ええ。これまではお人形みたいに大人しくて、少し心配なところもあったのだけれど。きっと、ジニィちゃん(そして私のことをおばさんはそう呼ぶ)が生きる力のようなものを運んできてくれたのね」


 確かに、『学校に通えないほど病弱』というのが信じられないほど、ソフィーは元気にしている。


 字を読むことを覚えて、それが嬉しくてしかたがないといった様子で、彼女は今や、聖書、ハイデルベルク信仰問答書、福音教会讃美歌集の主要な部分の暗記に取り組んでいるのだった。


「ふふっ。それはわかりませんが、ソフィーはほんとうに真面目に、それに楽しそうに机に向かいますね」


「本当に。授業のない時だって一生懸命勉強して、休憩したかと思えばあなたのことを話したりして。あんまり楽しそうに話すものだから、こっちまで笑顔になってしまうわ」


「そうなんですか?」


「ええ、そうなのよ……」


 これまでの眠りを取り戻すように、ソフィーはいっそうの学びへの意欲を示した。


 遊び事や淡い恋心、それから家の仕事といった事柄に力の大半を持っていかれる多くの子どもよりも、真摯に教材に向き合った。


 ほんとうなら、いずれは古典外国語、フランス語、歴史、芸術、修辞学、地理、算数、哲学、基礎科学、体育の全ての授業を行いたかった。


『全ての科学や文化、芸術の授業を施すこと』とは旦那様の願いだったけれど、しかし、その旦那様の意向でいくつかの科目は削られることとなった。


 それは爵位のない家庭、特に女児への教育によくあることとはいえ、ソフィーに確かな教育を施せないことが非常に残念に思えた。



◇◇◇◇



 季節は秋。


 アルトハウス家の庭では、プラタナスの木がその飴玉のような実をたわわにぶら下げている。


 授業は順調過ぎるくらいだし、雲一つない爽やかなこの日の午後、新しいことを始めるのにはもってこいだった。


「暗記の授業はちょっと休憩にして、庭へ行きませんか」


「庭へ、ですか━━?」


 昨日の授業で扱った教理問答の数節を口ずさんでいたソフィーは、すこし驚いた様子でそのきれいな目を大きく開いた。


「はい。楽しい授業の、始まりです」


 ほんとうは、もっと簡単な静物━━りんごとか、ただの箱、とか━━から始めるのがセオリーなのだけれど、まずは楽しんでもらいたい。


 そこで私は、ソフィーが子供の頃から親しんだという、庭に生えるプラタナスの木を最初の対象に選んだ。


 つまりは、デッサンの授業だ。


 かつては芸術家を志す者だけが受講したデッサンの授業は、私が子供の頃から一般の学校の授業にも取り入れられ、今や人格形成のための重要な科目と見なされている。「絵は口よりも物を言う」と主張する教師もいるくらいだ。


 デッサンを通じて学ぶこと。それは、単に外界を模写することではなくて、子どもが模写を通じて内的な経験を可視化していくことにある。


 つまり、芸術は心を豊かにするということだ。


 特に職業訓練学校においてデッサンの占める割合は多く、初等クラスの授業時間は週十五時間を数え、算数や外国語、果てはドイツ語のそれぞれ五時間を大幅に上回る。


 もし今後。ソフィーが何らかの学校に通うとしたら、最低限の芸術の授業は避けては通れなかった。


 そうして私は庭へ出て、ソフィーにひとまず自由に描いてみることを促した。


「とりあえず、自由にプラタナスの木をスケッチしてみてください」


「えっと、レギーナ、いきなりそんなこと言われでも、どう描けばいいのか……」


 見慣れたはずのプラタナスの木を前にして、デッサン用の木炭を握りしめた彼女は途方に暮れてしまった。


 子どもだけが持ち、そして哲学者にでもならない限りはいつの日か失われていく、自由な独創性でもって楽しんで欲しい、そう思ったのだけれど。


 ソフィーはデッサンにも理性的に、聖書を暗記するような態度で向き合っていた。


「初めのうちは、上手になんて描けなくてもいいんです。そうですね、アドバイスをするとすれば、まずは全体の構造を大雑把にとらえて、それから幹や枝葉に取り掛かるとよいですよ」


「大雑把に、全体の、形を……」


 まさしく授業のように私の言葉を暗唱したソフィーは、その無類の集中力にスイッチを入れた。


 そしてその静かな時の間、私は絵を描く事に熱中するソフィーの姿をごく簡単にスケッチしたのだった。



 ◇◇◇◇



「できました、けれど……」


 一時間後。


 決まりの悪い表情を浮かべ、少し俯きながら、ソフィーは初めての作品を私に提出した。


 文字の読み書きを驚くべき早さで習得したソフィーのこと。もしかしたら芸術の天才も授かっているかもしれない、と期待したのだけれど。


 出来上がった最初の作品。好意的に評価すれば、「理屈っぽい学問の秀才が、慣れない分野で試行錯誤を重ねた結果」とでも言おうか。描かれたのがプラタナスの木であるということが客観的にも判別できる、そういった絵だった。


「よくできてるじゃないですか。初めてでこれだけ描ける人は、なかなかいませんよ」


「……よして下さい、お世辞なんて」


 ソフィーは少しだけ、拗ねた顔をする。私が思っていることは、既にお見通しのようだった。


「ところでレギーナは、何を描いていたのです?」


 スケッチに熱中しながらも、私が何かを描いていたことに気づいていたようだ。


「正直に言うと、私もスケッチはあまり得意ではないのですが」」


 と、前置きして。


「頑張れば、これくらいの絵なら、すぐに描けるようになりますよ」


 私が持つ一枚の紙に描かれているのは、庭に置かれた金属製の椅子と机。そこに陣取ってスケッチに熱中する女の子。


 白いドレスに身を包んだ彼女を側面から捉えた構図で、垂れ下がった彼女の長い金髪が、その整った顔を隠している。


 私のスケッチを目にすると、ソフィーは急に顔を真っ赤にして訴えた。


「わ、わたくしではありませんか!」


「ええ、これはソフィーです」


「ずっとわたくしを、見ていたのですか!それにわたくし、こんなにきれいじゃありません!!」


「いいえ、ソフィーよりもきれいな女性など、存在しませんよ。しかし横からの、顔の隠れた構図でよかった。あなたの、その綺麗な瞳は絵にすることなんでできませんから」


「……っ!」


 私がそう言うと、ソフィーはも口は開いたけれど絵については何も言えなくなってしまった。


 代わりに、ソフィーはもじもじしながら切り出した。


「あっ、あの!」


「はい」


「その絵、わたくしに、下さらないかしら……」


「ではソフィー、あなたの絵と交換としましょう」


「わっ、わたくしの、この絵ですか!?い、いやです!」


「では、私の絵も差し上げることはできませんね」


「い、いじわる!」


 それはソフィーが私に向けた、初めての、しかしとても控えめな、罵倒の言葉だった。


 芸術は人の感情と深く結びついているという。それはそのことをよく示す、秋晴れのある日の事だった。


 その後、私が描いたソフィーの絵は彼女の部屋のベッドの脇に、ソフィーが描いたプラタナスの絵は私の黴臭い下宿部屋の壁に飾られることになった。

「授業」篇終わり

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― 新着の感想 ―
[一言] 文化と芸術の授業かぁ (;'∀') あんまり重視しなくて過ごしてきてすいません <(_ _)>
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