アレクサンドラ・イヴァーノヴナ・ドラゴミーロフ
三回めの夏が来てしばらく経ったころ、サーシャは進まない言語習得に苛立ちを感じていた。
(日本語と照らし合わせるための辞書が無いと、やはりどうしようも無いね)
正しいであろう答えがわからないので、覚える気にあまりならないと言うのもある。
(ところで二歳児で言葉が喋れるってどうなんだ、子供を育てたことが無いからわからけれど、結構異常なことじゃないだろうか)
おかしな子供だと思われることは避けたいとサーシャは考えていた。
一度失った命をひょんなことで拾ったのだ、慎重に立ち回りたかった。
実のところ、両親であるヴァーニャとナディアは全く気にしていなかった。 むしろ、喜んですらいた。
(そうだな、第二の家族から何らかのアクションがあるまで待つのも有りだな)
両親のそんな思いが全く伝わっていない。彼は慎重に行動することを誓うのだった。
(ん、三人が帰ってきた)
くたくたになったヴァーニャ、ナディア、ダーシャが帰ってきた。
リーゼが甲斐甲斐しく皆の世話をしている。
沐浴を済ませたナディアがサーシャの目の前に座って何かを差し出してきた。
(本?)
受け取ってページをめくったサーシャは強い衝撃を受けた。
(手描きの絵本……いや、これは単語帳?)
ナディアと思われる銀髪の少女の隣に意味を表すであろうキリル文字が書かれていた。
(これは……ナディアとは読まない、お母さん?かなぁ)
「мать!」
サーシャが声に出してみるとナディアは可憐な微笑みを浮かべながら拍手をした。
(これは……いけるか!)
サーシャは言語学習が格段にやりやすくなることに喜びを感じていた。
そんなサーシャにナディアは絵本を手に取ると、あるページを指さした。
銀髪の幼児が書かれていた。
サーシャは絵本を受け取ると読み上げた。
(これは僕だろうか、銀髪……えーっと)
「アレクサンドラ?」
ナディアをじっと見つめると、うんうんと頷いている、合っているようだ。
「イヴァーノヴナ……」
「ドラゴミーロフ!」
ナディアは微笑みながらサーシャを抱いた。
サーシャも自分の名前が言えたことに感動していた、この絵本で努力すれば喋れるようになるだろう。
「ウラー!」
サーシャは両手を上げて叫んだが、ナディアがちょっと微妙な顔をしていた。
ナディアの顔を見たサーシャはあたふたし始めた。
(ン?言葉のチョイス間違ったか?万歳って意味だったと思うんだけどな……)
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絵本を受け取ってからしばらく経ち、季節は冬となっていた
(良く考えれば四季がある、世界地図があれば見てみたいな)
サーシャはリーゼに言葉を教えてもらうのが日課となっていた。
カタコトながら多少の会話はできるようになってきていた。
洗濯が一段落ついたリーゼにサーシャは話しかけた。
「リーゼ、このもじのよみかたをおしえてください」
(妙に女性っぽい口調に聞こえるのは声のせいか?)
喉からは鈴を転がすような声が響いている。
「お待ちくださいサーシャ様、どれどれ……」
リーゼとサーシャは日中はずっと一緒にいる、両親と兄…ダーシャは兄だったらしい
は日中出かけてしまうので自然とリーゼのそばにいるようになった。
リーゼはサーシャの目の前に座り、サーシャの質問に答えていった。
何個かの質問を終えた頃、サーシャはかねてから聞きたかったことをリーゼに聞いた。
「リーゼ、ききたかったことがあるのですが、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「おとうさまたちはいつもどこへいっているのですか?」
サーシャには彼らの行動の意味がさっぱりわからなかった、七日に一日は休んで家に居るのだが、大抵は武装してどこかへ出かけていくのだ。 盗賊団か何かかと疑ったこともあった。
「ヴァーニャ様達は、遺跡に潜っていらっしゃいます」
「いせき?ですか?」
「はい、魔物が蔓延る遺跡です。この近辺に出没する魔物は遺跡から出てきます。それを殲滅するために戦っていらっしゃいます」
「まもの……というのはこのページにかいてあるばけものですか?」
サーシャは手に持った絵本のあるページをリーゼに見せた。妙に臨場感がある大きな口を開けた影のような生き物の絵だった、その牙にやられ、非業の死を遂げた犠牲者の姿まで描いてあった。
「お姉さまは相変わらず絵が上手ですね。はい、それが魔物ですよ」
グロい被害者の絵についてはなんのツッコミもなかった。
なるほどリーゼがサーシャの外出を止めるわけである。外は大変に危険だったのだ。
(化け物がいるとは……これは外出なんて夢のまた夢だな)
外出は当分の間お預けだろう。
「では、このページにある、まほうというのものもあるのですか?」
ナディアが杖の先から火球を出して、魔物の頭を吹き飛ばしている絵が描かれたページを見せる。
「ええ、お姉さまの才能溢れる絵は素敵ですね」
「まほう……あるんですか……」
「はい、ありますよ。お姉さまがお帰りになられた時にでも聞いてみてはどうでしょうか? 私が使えればいいのですが、効果がわかった魔石が無いので迂闊には使えませんし」
サーシャは今の今まで自分はすごい辺境の土地、または過去の世界で転生したのでは?と考えていた。
だが、彼の考えとは全く違う異世界での転生だということがわからされてしまった。
(ちょっとショックが大きいな…… 僕は死んだんだろうし戻ったりはしないだろう…… 地球の常識に囚われない考え方をしなくてはいけないな。 それにしても魔法か)
「まほうですか……ちょっときょうみがあります」
「お姉さまのお子様ですもの、魔力に富んだ魔法使いになれますよ」
リーゼは顔を赤くして熱い吐息を吐き出す。
リーゼはナディアの事になると途端に嬉しそうになる、両者はどんな関係なのか気になるが、聞きたくないような気もする。
「では、おとうさまたちがかえってくるまで、ことばをおしえてくださいリーゼ、はつおんがふあんなのです」
「サーシャ様は勤勉ですね、私も見習いたいと思います」
そうこうしているうちにリーゼは食事の準備に取り掛かるため、席を外して行った。
(少し……少し情報を整理しよう)
この家周辺は危険で、成人男性をガブッとやるぐらいの魔物が出る。
そしてナディアは魔法使いでその魔物の頭を吹き飛ばすような魔法が撃てる。
(荒唐無稽すぎる、付いていけない。実際に魔物を確認するために外に出たりするのは無理だ、危険が過ぎる。
魔法については色々聞いてみる価値はありそうだな、僕に使えるのであれば魔物から身を守る事ができるかも)
ブツブツと考え込んでいたら両親と兄が帰ってきたようだ。
「おかえりなさいませ、おとうさま、おかあさま、おにいさま」
サーシャが挨拶すると、ヴァーニャが頭を撫でてきた。それだけなのに絵になっている、顔が良いと得である。
「ただいまサーシャ、いい子にしてたかい?」
「はい、おとうさま、きょうもリーゼとべんきょうをしていました」
「おいナディア、このままだとサーシャをリーゼに取られるぞ?」
その言葉を聞いたナディアがサーシャを包み込むように抱きしめた。
「サーシャはリーゼであろうと渡さないわ、私の、私のサーシャですからね?」
「おかあさまくるしいです、はなしてください」
「あっ、ごめんねサーシャ」
(うん……情報が欲しい、新しい家族に情報収集をさせてもらわないと)
「おかあさま、おとうさま、おにいさま、いくつかききたいことがあるので、ゆうしょくごにおじかんをいただけませんか?」
なんだろう、という顔を浮かべつつ三人は頷いた。
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夕食は良くわからない焼いた肉に見たことがない野菜をゆでたもの、そして黒パンだった。
サーシャもこの不安な食事に慣れてきた。
(何の肉なんだろうなぁ……美味いことには美味いんだよね)
味は程よく塩が効いて柔らかく、美味しかった。
「さて、しつもんというのはおとうさまたちがいっている遺跡のことと、おかあさまのまほうのことです。 はつげんのさいにはきょしゅを」
六がけのタイニングテーブルに手前にサーシャ、奥のヴァーニャ、ナディア、ダーシャが座っている。まるで面接のようだ。
リーゼは後片付けや明日の仕込みに忙しそうだ。
まずはヴァーニャが手を上げた。
「じゃあ、はい」
「はい、おとうさま。どうぞ」
「遺跡に関しては俺が説明するよ、サーシャは何が聞きたいんだい?」
「そうですね……リーゼからはまもののとうばつをするためにいせきにもぐっているとききました。
いったいいせきとはなんなのですか?くわしくききたいのです」
「うーんそうだなぁ……じゃあ細かく説明していこうか。まず今行っている遺跡はかなり古いもので千年以上前の物だと言われている、入り口は俺の身長でつっかえるほど狭いのにな。 今のところ十階層まで確認されているが、一階層ごとがやたら広くてそこだけで探索に数ヶ月はかかっちまっている。 目的としては最下層に存在しているはずのでかい魔石をぶち壊して、魔物がここら一帯に出ないようにすることだな」
まぁ最下層がどれぐらい深いのかわからないんだけどな、とヴァーニャは愚痴をこぼした。
「ませきがまもののげんいんなのですか?」
「ああ、そうだよ。一階層ごとにも魔石があってそいつをぶっ壊せば地上に魔物が出る頻度が減っていくのさ。 ここら一帯は開拓地だからな、魔物を減らさないと作業が進まないんだよ。全部潰しても多少は出るが遺跡内だけだからな」
開拓地……郊外だとは思っていたが。前線基地のようなものなのだろう、ちょっと広いとはいえ小屋だが。
「最初は俺だけで大丈夫だと思ったんだけどな、やたら広いし魔物は多いしで最近は二人を連れて行ってるってわけだ。 寂しくさせてすまないな、サーシャ」
「リーゼにやさしくしてもらっているのでだいじょうぶです、ありがとうございますおとうさま」
「そうか、今度リーゼに何かプレゼントでもあげようかな」
ナディアが私には?とヴァーニャを肘で突っついている。
「じゃあ今度は私ね、魔法について聞きたいの?」
「はい、おかあさま。どういったものなのか、くわしくおきかせください」
「便利に使ってはいるけれど、原理とかそういったものはわかってないのよね。魔法学院では研究しているみたいだけど、完全に解明した!って話は聞かないわね」
ナディアはテーブルに愛用の杖を置いた。
「サーシャ見て、この杖の先に黒い宝石のような物が付いているでしょう?これが魔石よ。 この魔石に触って魔力を流しこんだら、杖の先から火球が飛んでいくのよ」
杖の先には黒い宝石のようなものが明かりに反射して鈍く光っている。
(黒曜石?ブラックスピネル?いや、見たこと無い鉱物だ。
こんな状況なのに見たことがない鉱物があるのはワクワクするものだなぁ)
ワクワクしているサーシャを尻目にナディアは杖を仕舞って、指輪をテーブルに置いた。
「この指輪についている魔石は傷の治療が行えるの、命にかかわる重症とかは直せないけどね。骨折ぐらいは治せるわよ」
(思ったよりすごい力だな……どういう原理なのかは考えるだけ無駄だろう)
「おかあさま、わたしにもつかえるのでしょうか?」
「そうね、私のサーシャですもの使えるわよ!けれど、五歳になったら魔力があるかどうかを図る儀式のようなものをするのよ。だから五歳になるまでちょっとだけ待ってね。大体、後一年半ぐらいかしら」
まぁ私のサーシャだから余裕でしょうけどね!と声を荒げるナディア。
しばらく静寂を保っていたダーシャが手を上げた。
「じゃあ僕も質問」
「はい、どうぞおにいさま」
(それにしても美形だ、すごく可愛いんだけど本当に男か?)
「聞きにくいんですが……」
「遠慮せずに聞くといい我が息子よ」
芝居がかった仕草で先を促すヴァーニャ、イケメンは得だ、様になっている。
「父様と母様っていくつ?」
「……」
「……」
(あ、僕も気になる。ダーシャの両親にしちゃ若すぎるし)
「い、いえ答えたくないんだったら良いんです……ごめんなさい!父様母様」
「いやいいんだ、そろそろ教えといてもいいだろう。まぁそこまで大げさな話でもないしな」
「俺は三十八歳だ」
「えっ?」
「えっ?」
サーシャとダーシャは声を揃えて驚いた。
「ちなみに私は三十五歳」
「えっ?」
「はい?」
サーシャとダーシャは大混乱に包まれた。
(何言ってんだこの人達は……)
「まぁ落ち着け子供たち、若く見えるのにはワケがあってな
我々は一定の年齢まで成長するとそれ以降は成長しないんだ、個体差はあるがな」
ヴァーニャは少し溜めたあと話しだした。
「俺たちは《神人族》という種族だ、特徴としては先ほど言ったことと非常に長寿だ、二百年は生きる。そして他の種族はあるかどうかわからない魔力が全員にある」
例外は知っている限りでは無い、とヴァーニャは追記した。
「私達の血を受け継ぐあなた達もそういうことになるわ、ダーシャは今十三歳だったわね、あなたは十六歳から二十歳ぐらいの間で成長が止まるでしょう。
ちなみに私は十五歳で成長が止まったわ、若く見られるのはいいのだけど見くびられることも多いわね」
ナンパも多いわ、とナディアは愚痴る。
(確かにそれぐらいに見えるね…… それにしても《神人族》?聞いたこともない)
「と、まぁそういうことなんだ、我が息子、我が娘よ」
(ん?なんかおかしいこと言われた様な気がする)
「はい、しつもんがあります」
「どうぞ、我が娘」
「わ、わたしはむすめなのですか」
「ん?そうだが」
(はっ?ん?あれ?)
サーシャは疑問を解決するために自分の股間を触って確認してみた、付いてんじゃん。
「えっ?どういうことなのでしょう?わたしはついてますよね?えっ?」
「ついてるから女の子だ、魔力は女の子の方が多くなる傾向があるから五歳の儀式が楽しみだな」
「妹よ、僕はついてないから男の子だぞ。ほれ」
ダーシャがズボンを下ろして見せてきた、付いてないですね……
「うえぇ」
サーシャは生まれた時並に混乱していた。
「えっとおんなのひとはこれがついていて、おとこのひとはついてないということでいいのでしょうか?」
これ、と自分の股間を指差して両親に説明を促す。
「そうね、そういうものよ?」
「わたしはおかあさまから、じゅにゅうをしていましたよね?こどもはどうやってうまれるんですか?」
「あなたは私が産んだし、私の母乳で育てたわよ?」
(どこから産むんだ?)
さすがにサーシャはそこまで突っ込めなかったし、なんとなく知りたくなかった。
「そ、そうですか……」
随分気落ちしたようなサーシャは質問を打ち切った。そして確信した。
(ここは地球の常識が全く通用しない異世界なんだ……)