1.
病院に、怪談はつきものである。
そんな非科学的なことを、医療という超現実世界に居る人間が信じるのはどうかと思うけれど、実際、医療人ほどそういうものを信じがちである。
たとえば、血液型によって性格が違うという説。これは科学的根拠は全くない。しかし、この説が市民権を得ていることも事実で、血液型別の本すら出ているくらいで、それなら攻略本が四冊あれば、人間関係という、どう考えてもバランス間違ったクソゲーなんてすぐに攻略できることになる――と、これは銀行に勤める弟の言葉であるが、それには私も同意したい。
人間の性格がたった四種類に分類できたら、誰も苦労はしないのだ。とまあ、話がそれたところで、心霊現象に話を戻す。検査科の幸村さんの話である。
ダンディな口調が最大の特徴な彼は、その外見も逞しく、見るからに男らしい。そんな彼が苦手なものが、幽霊である。
「あ、吉田さんじゃないか」
春の職員健診のために外来診察室に行ったときのことだった。
業務量が半端じゃなくなるということで、身長や体重は勤務し始めた初回のみ図ってもらい、あとの年は自分で計測するような慣習になっている。本当はダメなのだろうけども、体重などはむしろ、そのほうがいいかもしれない。というか、ありがたい。
「どうも、幸村さんは採血済んだんですか?」
「ああ、つつがなく完了した。やれやれ、失った血は戻ってこないぜ」
また、ダンディモードに入りそうなので、とりあえず適当に話を流してみる。
「そういえば幸村さんって何型なんですか?」
そこでなぜか一瞬、哀しげな表情を見せ、ふっと遠い目をして、幸村さんは少し間を置いて、重々しく口を開いた。
「ABだ――そう、ABなんだ」
まるで人生最大の告白であるように重々しい口調だが、単にちょっと言ってみたかっただけだろう。
私は適当に無視して、「っぽいですね」とかそれこそ本当に適当なことを言っていた。ちなみに私はO型だけれど、やはり、「それっぽいね!」なんて言われる。えてして、血液型というのは、とりあえず話題を合わせるために使われるものなのかもしれない。
採血をしていると、奥で幸村さんがひとり視力検査をしていた。
ひとりで計測して何がわかるのかと思ったが、本人いわく、「あのアルファベットのCっぽい記号がすべてどっちの向きに開いているか覚えている」とのことで、誰に計測してもらってもわかっちゃうのだそうだ。
ちょうど青井先生が居たので、軽く問診してもらう。
「胸、触診していい?」
「奥さんに言いますよ」
あいかわらず、セクハラ発現が好きな先生だが、憎めない人だ。新婚生活も上手くいっているようで、いつも幸せそうなのが羨ましい。
「吉田さんはどうだい。去年と比べて」
どうも何もない。ちょっと太ったくらいである。
「病気なんかもしていませんし、あいかわらずですね」
「ふむふむ、胸は相変わらず、と――ムネタイラに三千点」
「な、なにが三千点ですか!」
恥ずかしいのと、むかついたのとで顔を真っ赤にして抗議すると、「え、診療報酬が三千点だから、健康保険の3割適用で自己負担900円くらい?」なんて、レセプトのように計算してくれた。まったく意味がわからないし、ハラタイラネタも古いし、頬を膨らませたところで気づいた。
うちの診察室は奥の廊下ですべて繋がっていて、幸村さんにも今の会話は聞こえていたはずなのだ。いつもの彼ならば、嬉々として要らない、「胸がなくても、夢があるさ――」と言う風な、それこそ本当にいらない余計なフォローをしてくれるのに、今日は黙ったままなのだ。
ふと気になって、先ほどの部屋に戻り、幸村さんに声をかけてみる。
「幸村さん、どうしたんですか?」
「いや、ちょっとな……」
「元気ないですよ。なにか悩みでも?」
幸村さんは少し悩んだようだったが、意を決したように口を開いた。
「吉田さんになら話そう。あとで検査室に来てくれないか。相談したいことがある」
私は首を傾げた。
そんな訝しげな様子の私を見て、幸村さんは、一言ぼそっと口にした。
「俺はついに見てはいけないものを見てしまったんだよ」
盗撮でもしたのか、と思ったが、次の一言で私はしばらく夜の残業が怖くて仕方なくなるのだった。
「幽霊だ……」
病院に勤務し始めて三年。
看護師さんが噂をしていても耳を塞いで聞いていないフリをし続けてきたのに、ここに来て、病院とは切っても切り離せない存在と、対峙することになってしまったのだった。
その時はそれきりで分かれたが、献立の新案を考えながら、私はデスクの前で幸村さんの言葉を思い返していた。
――見てはいけないものを見てしまったんだよ。幽霊だ。
結構本気であるような顔をしていた。うちの病院に怪談がいくつかあることも、私は知っている。
必死に聞かないようにしていたのに、それでも耳に入ってくるのだ。私は頭の中にそれらを思い浮かべた。
*
いわく、夜の受付前にサラリーマンの霊が出る。
それは、火事による一酸化炭素中毒で救急搬送されてきて死亡した霊だと噂されている。男の霊は、受付の前で火事の炎にもがき苦しむような動きを見せ、ひとしきり暴れ狂うのだという。
そのときの当直の事務員はそれを目撃していないが、外から垣間見た人は何人も居る。
いわく、二階廊下の倉庫などのあるあたりの廊下を、子どもの霊が笑いながら走っている。
看護部長室、事務長室があり、その奥のあたりは日中は誰かが古いカルテや物品などを取りに来ることはあるが、それでも日中も節電のため薄暗く、不気味な場所だ。
そこに、夜中に子どもが走っているはずがない。当院には小児科もなければ、そもそもその時間には診察時間は終わっている。何か悪さをするわけではないが、その笑い声を聞いたというものも、ちらほらと確かに存在している。
いわく、使われていないはずの電話番号から内線がかかってくる。
うちの病院は四階建てであり、階ごとに内線番号の頭を統一している。番号は三桁で設定しているが、たとえば一階であれば「100」のように、「1」から始まる。二階と三階はそのままルールに則っているが、四階だけが「500」のように「5」から始まる。これは、「4」という数字が「死」を連想させて不吉だから、ということであるらしい。同様の理由で「4」の番号のつく病室は存在しない。
古い考えだと思うかもしれないけれど、病院は死と隣り合わせの場所でもある。また、そういった迷信を信じる年齢層の方も多く利用されるので、致し方ない。
それはともかく、この「400」という番号が問題であるらしい。
一時期、院外の施設のいくつかに内線を設置した際に「400」を設定したのであるが、そこの離れは後に霊安室に改装された。その際に電話機ははずされたのであるが、夜間などに現在は使用されていないはずのその「400」から電話がかかってくる、というものである。ずっとすすり泣くような声が聞こえたり、無言電話だったり、意思疎通はまったくと言っていいほどはかれていないが、不気味であることにかわりはない。
こんなエピソードがある。
あるとき、3階のスタッフステーションの新米の看護師が4階のスタッフステーションに電話をかけようとした。その看護師は自分のいる三階のスタッフステーションが「300」だから、「400」が4階だろうと思って、その番号を押したら、どこかと繋がったという。
そこでは悲鳴や叫び声、消防車のサイレンの音がずっと鳴り響いており、驚いた看護師は電話を切ったが、結局、故障というわけでもなく、翌日、営繕の者が確認したときには、どこにも繋がっていなかった。
*
今ざっと書いたのでこの三つであるが、他にもちょっと不思議だなというレベルの話ならそれこそいくつもある。自動ドアが誰もいないのに頻繁に開いたり、誰もいない廊下を足音だけが聞こえたり。
言い出せばきりがないのが病院という世界である。
そういえば、こんな話をとある看護師さんから聴いたことがある。
病棟あるいは救急外来などで患者さんが亡くなったときに、看護師はエンゼルケア(死後の処置)を行なう。それはきれいにお化粧をしたり、衣類を着せてきれいに整えたり、また、下の片付けだったりする。(おなかの中の糞便を、おなかをぐっと押して出すのだそうで、私には絶対にできない仕事だと思った。)
そういう最期の「看取り」まで関わる際、最終的に、ご遺体は葬儀屋が来るまで霊安室に一時的に安置される。このご遺体を運ぶときに歩いた道筋を必ず覚えておかないといけない。
「帰りに同じ道を辿って帰らないといけないの。寄り道なんかしちゃダメ。道に迷ったら、自分まで仏さんと同じところに行っちゃうのよ」
というのが理由だそうだけれど、迷信深いと一笑にふすこともできなかった。
それだけ、人の死に関わるということは精神的に辛く、重いものであるのだから。
病院と、心霊現象は切って切り離せない存在であると思うのは、そういう事情からなのだけれど、私は、あのダンディの幸村さんまでがそんなことを言い出すとは夢にも思ってもいなかったのだった。
今日の仕事も一通り段取りをつけ、栄養科奥の更衣スペースで着替える。とは言っても、今日は事務作業がほとんどだったので白衣を脱ぐ程度だ。
それから、デスクの上を整理して時計を見ると、まだまだ余裕のある時間だ。九時にもなっていない。これなら、帰ってゆっくりお風呂に入れるなあと考え、ふと幸村さんの存在を思い出した。
ああ、“あの”話を聞かないといけないのか……。そう考えると、ちょびっと憂鬱になったので、ひとまずトイレに行ってから顔を見せようと栄養科を後にした。
栄養科内にもトイレはあるのだが、すでに清掃当番の調理師さんが掃除したあとなので、栄養科の外に出る。栄養科は厨房と隣接しており、当然、食品業者が日々出入りする関係もあって一階にある。また、出入りしやすいよう角に配置されている。
便利なのが職員休憩室が近くにあること。帰りにちょびっとくつろいで帰ることができる。それと、通り道にトイレがあることかな。
しかし、このあたりは八時を越えるととたんに人気がなくなる。
今日一日、怪談のことが頭から離れなかったせいか、静かさがやけに不気味に感じられた。壁も白を基調としているが、そこにわずかばかりの染みがあると、それがまるで人の顔のように見えてきて、考え出すとだんだん怖さが増してきた。
私の足音だけが、廊下に響いていた。
――そして、トイレである。
センサー式のため、電気が消えている。この中に入るのは、今の私にとって、持てる限りの勇気を総動員する必要があり、しばらく扉の前で躊躇していたけれど、このままだと幸村さんを待たせてしまうし、えいや、と飛び込んだ。
私が入ってきたことを感知して、トイレの電灯が灯った。中には当然というか、ダレもいない。私は急いで用を足して、手を洗うが、鏡を見ることさえ怖かった。
だって、鏡に幽霊がうつるとか、怖い話ではよくあるパターンだし、もうとにかく鏡を見ないようにして、急いでトイレを出た――そのときである!
「ひっ!」
思わず声が漏れてしまった。
そこに人が居たのである。幽霊か、とびっくりするより前に私は把握した。
スーツを着た中年の男の人だった。男の人は、掲示板に貼られている掲示物を見ていたようで、声をあげた私の方を振り向くと軽く会釈し、職員休憩室へと歩いていった。
初めて会った人だったが、そのときに病院のスタッフである名札をつけていたので、不審者なんかではなく、単なる事務当直のアルバイトの人であるとわかり、私は安堵のため息をつき、胸を撫で下ろした。夜勤の事務は正職員が入ることもあるけれど、ほとんど大半がアルバイトの人で、それこそ短期の人だと名前と顔すら覚えないまま、下手すると会わず終いのこともある。
こんな些細なことで驚くのもすべては幸村さんのせいだ、と憤慨しつつ、でも暗い廊下に怯えつつ、検査室へと向かった。
*
検査室の扉をノックすると恐る恐る顔を覗かせた幸村さんが、私の顔を見て、ほっとしたように微笑んだ。
「やあ、待ちくたびれたぜ。最近の吉田さんは、ホテルでもロングタイムを取るようになったのかい?」
「……帰りますよ」
「すまん。俺が悪かった。話を聞いてくれ」
そう言って、検査室のデスクに座らされる。もう一席に腰を下ろす幸村さん。
正直、男の人と二人きりというのは気恥ずかしいものであるが、同じ職場ともなればそれは別で、もう慣れてしまった。
「何から話すべきか……いや、そんなまどろっこしいことをしていると、夜が明けちまう。まるで夜明けのガイアだぜ」
あいかわらず、よくわからないことを言っている。
「単刀直入に言うべきだろう。実はな、幽霊が出るといったのは、厳密に言うとそうじゃないんだ。聞こえるんだよ、夜な夜な女の声で」
「女の人の声?」
「ああ、恨めしそうな、消え入るような声で……おにいちゃん、おにいちゃん、ってな……」
何歳くらいかはわからないと言う。
ただ、ふとした折に、「おにいちゃん……おにいちゃん……」と聞こえるのだと。
幸村さんの聞いた感じではまだ十代、高校生くらいの女の子の声で、切なそうに、恨めしそうに、それを繰り返すのだと。
この病院で亡くなった人かもしれない、と幸村さんは呟く。
確かに私たちはすべての患者さんを把握しているわけではないし、その可能性もあるけれど、何より幽霊というものがそこで亡くなった人だけとは限らない。
「どうするべきか、吉田さん。やはりここは、花の一輪でも飾って、供養してやるべきだろうか?」
いつも陽気な幸村さんがここまでうなだれている様子を見ていると、だんだんとその話は信憑性を帯びてきた。何より彼は嘘をつくのが下手で、すぐわかるのだ。
今の幸村さんにはとても、そんな心の余裕があるようには見えなかった。
私もだんだんと怖くなってきた。背筋が冷たくなってくる。検査室の仮眠室に何かいるような錯覚さえ、してくる。いや、いるのではないか?
だめだ、怖い。
「そんなばかな」
だから、私はことさらに笑ってみせた。そうしないと、怖くて仕方なかったからだ。
幸村さんも力なく、乾いた笑みを返す――そのときだった。
「おにい、ちゃん……おにい……ちゃん……」
確かに聞こえだ。女の声が、どこかからか恨めしそうに響いてきたのだ。
私は驚いて、幸村さんに抱きついた。
「おにい、ちゃん……」
そうして、声は止んだ。
幸村さんは「一緒に見てほしい」と、私の手を引っ張り、奥の仮眠室の扉を開いたが、やはり、そこには誰もいなかった。
「ほらな……誰もいないんだよ……」
仮眠室の中を見渡したが、窓があるだけで、そこはきちんと施錠されており、誰かが出入りしたとは到底思えなかった。
「幸村さん……」
何を言えばいいのか、私は言葉を失っていた。
幸村さんもそうだったらしく、しばらく無言で室内を見つめていたが、私へ視線を移すと、ふっと微笑んだ。
「やはりな。再確認できたぜ」
「え、何がですか?」
「ああ。抱きつかれたときに、な……吉田さんの胸はまるでサハラ砂漠だぜ」
私はとりあえず、弁慶の泣き所に爪先で蹴りを叩き込んで帰ることにした。
仮眠室で「ひとりは怖い! 寝れない!」なんて喚いていたが、無視した。誰がサハラ砂漠だ、誰が。
しかし、あの声は確かに聞こえた。
私も幸村さんも聞いたのだから間違いはなかった。背筋の凍るような、恨めしそうな、悲しげな女性の声――。
病院はやはり、心霊現象はつきものだと言うが、いざ自分が体験してみると恐ろしくて仕方がない。私は急いで帰路へとついた。
結果、タイムカードを切るのを忘れて、残業代がつかなかったのは、笑い話である。