2.
最愛のフリカケの名前を私は思い出せません。
もういっそ、忘れるべきでしょうか。
未練を断ち切ろうと、山篭りを始めました。
胸の痛みは止まりませんでした。
想いを断ち切ろうと、叫び続けました。
彼への想いは止まりませんでした。
夢を断ち切ろうと、涙を流しました。
涙はいつまでも止まりませんでした。
だから知りたい。全ての始まりを。
だから知りたい。彼の名前を。
Frikake Mecchakaketel
* * * * * *
というような、変な詩が出てくる夢を見た。覚醒すると同時に、夢の中で思い出せなかった名前を思い浮かべる。ちゃんと、出て来る。まだ痴呆は早い。
それにしても何て変な夢だろう。「ひぐらしのなく頃に」の冒頭に必ず出てくる詩をパロったものに違いない。我ながら、どうしてこんな夢を見ちゃったものかと、苦笑する。まあ、疲れているのがひとつと、あとのひとつの要因は、幸村さんだ。
先日、検査科の幸村さんに無理矢理、小説を貸されたのである。
*
「吉田さん、読書好きだって聞いたから」
私は影で彼のことを「ダンディ」と呼んでいる。やたらと、渋いのだ。口調が中世時代というか、軍人さんというか、そういうあれな雰囲気である。身体つきもやたら逞しい。
「え、あ。ありがとうございます。なんですかこれ」
尋ねただけなのに、ダンディ幸村はやたらと渋い表情を作り、右斜め四十五度上を見ながら、ふう、と息を吐く。
栄養科事務室を支配する、静寂。
そうして、彼は口を開く。
「――ライトノベルだ。一般に、ラノベとも呼ばれる」
はあ、と気のない声を返し、手元の小説のタイトルを読み上げる。ひぐらしのなく頃に。
「そう……もはや言うまでもないな。俺の尊敬する、大作家さ」
ウインクすると、じゃあな、と扉を開けて去っていく。
「あ、幸村さん。これ、いつまでに返せばいいんですか?」
あわてて扉を開けて廊下に向かって問いかけると、幸村さんはぴたっと足を止めて、完全には私の方を振り返らずに、少しだけ首を傾けて言った。
「なに、急ぐ旅でもない。ゆっくりでいいさ。君が俺と同じ場所に辿り着けるまで、俺は待つ」
決まった、と言わんばかりにまた歩き出した。
筋骨隆々な背中が、無駄にかっこいい。
言うことも無駄にかっこいいが、使いどころが間違っている感じは否めなかった。病院には変な人が集まるものだ。私は手にした小説に視線を落として、苦笑した。
*
こうして、私は読書を始めたわけだが、なかなか面白い。
ちょっとグロいところが苦手だなあ、と思いながら一巻を読み終えたので、一応返そうと職場に持参した。
タイムカードを、受付横で切る。当直事務のバイトの松田さんが受付前の待合の椅子で窮屈そうに寝ていた。うちの病院は小さいので、事務の人の仮眠スペースがないのである。
打刻された時刻を見ると、6時ぎりぎり。なんとか間に合った。あいかわらず、まだ朝には慣れない。栄養科の朝は早いのだ。私の職場は管理栄養士も現場の調理に入るので、患者さんの朝食に間に合わせるべく、みな等しく朝は早い。
廊下で幸村さんとすれ違った。
「やあ、君か。どうだい、ひぐらしはもう読めたかな?」
フランクなアメリカ人みたいなテンションになっている。朝方の幸村さんはいつもこんな調子だった。
いつまででも待つと言っていたくせに、と思いながらも、もう読めているのでカバンから取り出す。
「読めましたよ。鬼隠し編。一冊目から、すごく怖かったです」
「そんなこったろうと思っていたぜ」
言うと、幸村さんは「ついて来な」と検査室まで案内する。私は仕事の時間が気になっていたけどうまく断れなかったので、検査室に行き、小説の二巻を借りた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、
「なあに。いいってことよ」
と男前な返事をいただいた。身振り手振りのジェスチャーも多い。この人は本当に愉快な人だな、と思った。
「ああ、そうだ。吉田さん。君を見込んで……ひとつ、頼みたいことがある」
何だろう、と身構えていると、幸村さんは、奥の当直スペースに行き、食器を持って出てきた。どうやら自分でレトルトのものを用意して食べたらしい。
「これ、ついでに持って行ってくれないだろうか」
「あれ、朝はパンじゃないんですか?」
病院はそういうところが多いのだが、朝は食パンである。
「いやあ、パンと牛乳だけだとな。腹がビッチみたいにクレクレねだりやがるんだ」
たとえはよくわからないが、なんとなく言いたいことはわかった。
患者さんには食パン二枚と、ジャムの類をつけ、牛乳とあと何か一品を出している。詰所にトーストを置いて、希望される方には焼けるようにも配慮してある。
職員用の食事は、基本的には患者さんと同じである。患者さんの夕飯と同じメニューを、夜食として食堂に置いていて、各部署スタッフはそれを取りに行き、食べる。また、この夜食といっしょに、朝食も配られる。
「そんな心配そうな顔をするんじゃない――昨日の夜はちゃんといただいたさ。実にうまかった」
私はそんなに心配そうな顔をしていただろうか。そんな私の疑問はそっちのけに、幸村さんの話は続く。
「朝はまた別の話さ。白ご飯は食堂の炊飯器にたくさんあるだろう。だから、たらふくいただいちまったぜ。参ったな、お蔭さんで腹がビッチみてぇにヒーヒー言ってやがるぜ。それもこれも全てあれだ。あれがいいんだ。あれが」
「あれって……何ですか?」
ビッチのくだりはもう無視することにして、私は疑問を投げかけた。もしかしたら、かなり怪訝な表情をしてしまっていたかもしれない。
しかし、幸村さんはもったいぶるような間をとって、ふっと不敵に微笑んでみせた。
「そうだな……あえて言おう、フリカケであると」
ふりかけ。
私がこの職場に来て、この職場のみんなを変えていくきっかけになった、最初の一歩。
「ふはは。まあ、あのフリカケみたいに次も何か改善してくれよ。このパンとかさ。コスト比較して、多少変わらないくらいなら、週に1回は菓子パンにしてくれたりな」
そう言うと、幸村さんは真顔になり、やたら渋い声でこう言った。
「もっとも……俺がその日まで生きていられたらの話だがな」
別に重病を患っているわけでもないのに、幸村さんはやたらとシリアスなストーリーをでっちあげたがる。話が長くなりそうなので、私は「参考にします」とお礼を言って、検査室を後にした。
菓子パン。いいかもしれない。
コスト比較して、他で何かを浮かして、その分を計上したら週1くらいの提供は可能かもしれないな、と思った。
飽きを無くす。こういった簡単なものでも、食事の満足度を増やすことはできるのだ。私は幸村さんに、感謝した。
フリカケもまた、そういった飽きを無くすことに役立っていると聞く。なぜ、そんな簡単なことに気づけないのか。私もそうであるし、前任者までずっとそうであった。そこのところを突き止めることも、おいしいご飯を提供することに繋がっていくのかな、と廊下を歩きながら思った。
手にした「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」に目を落として、思わず微笑む。幸村さんも変な人だけど、やっぱりいい人だ。
お蔭様でどれだけしんどくても、今日一日またがんばろうって思えた。