第十五話
緑魔法で農作業を開始してから早くも半年が経とうとしていた頃、直人の日々の活動は半年前と比べてさほど変化することなく土壌改良や農作物の育成それに喫茶店の経営にいそしんでいた。といっても変化した事もある。それは、街道付近の森での魔獣討伐と高級品の購入であった。
街道付近で魔獣を狩り始めたのはアシル達が街道で襲われたことに起因した。といっても、定期的に狩りの腕が鈍らないようにする訓練と食肉や素材を確保する狩猟場所を変更しただけであり、負担というほど直人の生活には影響がなかった。だからこそ、被害を受ける人が減れば良いやという軽いノリで始められた街道付近での魔獣討伐は今では直人の生活スケジュールにすっかり組み込まれていた。それと同じく高級品の定期的に購入するということもとある事情から余儀なくされた。そもそも、直人は高級品といっても贅沢品に分類されるような高級な家具や食器それに衣服といったものには興味がなかった。だが、緑魔法で農業をし始めてから毎月毎月入って来る金額が金貨数千枚というふざけた額になった辺りから色々諦めざるおえなかった。そう、端的に言えば使いきれなかったのである。
毎日毎日大勢の人が食べる事のできる麦を始めとした農作物と薬の原料となる多種多様な薬草を提供し続けた報酬として、日本円であれば数億といった単位での稼ぎとなったのだ。だが、直人は基本的に大部分の食料は狩りと緑魔法で確保でき、賃金を払うべき使用人は1人しかおらず、せいぜいか消耗品や趣味の本を買う以外にお金を使うことがなかった。普通であれば、お金を無駄に使わず貯金するということは賛美に値するかもしれないが、これは直人に関しては一切当てはまらなかった。それもそのはずである。金持ちが一切お金を使わなければ経済が上手く回らなくなるからだ。そのことを言われなくても気づいていた直人はお金の使い道を考えた。その結果、高級品に手を出す事になったのだった。
といっても最初の内は、宝石や貴金属といった魔力の込められる素材を中心に買いこんでいたのだが、いつでも換金できて一生持ち続けられるものを買ってもお金を持っているのと同じではと直人は疑問を感じた。それからは、なるべく消耗や消費するものをということで高級家具や高級陶器製品等の職人技が光るものを買い集めるようになっていた。それはまるで成金のような行動であったが、直人自身はお金を使う必要性に駆られてしたもので決して本人は望んで行っていた訳ではなかった。だが結果的に、金持ちが消費するからこそ経済は回るといった点で正しい経済行動を取っていたというのは皮肉なことであったが。
そして、いい加減に買う物がなくなってきた頃、直人は何を思ったのか仕事終わりに庭でとある本を読んでいた。読書の邪魔にならないように気遣いながらもクラリスはそっと紅茶を直人の前のテーブルに置く。今まで、読書に夢中であった直人はカップを手に取ると一口飲んでからお礼を言った。
「ありがとう。丁度、のどが渇いていたんだよ」
「それは良かったです。今日のはリセール産です。店主さん曰く、次の時代はこれが来るとのことでしたがいかがでしょうか?」
「おいしいよ。うん、あの店主のいう事は間違いないね。クラリスも飲んだら?」
「はい。頂きます」
といってクラリスも美味しそうに紅茶に口を付けた。
「どう? 美味しい?」
「はい。少し渋みが強いですが、花のような香りとコクがあって気に入りました」
「それは良かった。じゃあ、この銘柄は時々買おう。」
直人は、読んでいた本をテーブルに置くと胸の内ポケットからメモ帳を取り出し、喫茶店で出せれば良いなと考えつつ今飲んだ紅茶の銘柄を記した。喫茶店ではほとんどハーブティしか出していなかった為、紅茶のメニューを増や必要性を感じたゆえの行動であった。書くべきことを書き終え、元の位置にメモ帳を戻し視線を上に向けるとクラリスが机の上の本に目を向けていたことに気付く。
「読みたい? それなら今日中に読み終わるから貸すよ」
「いえ、そうではありませんが……何かお建てになられるんですか?」
「ああ、ログハウスでも作ろうかと思ってね」
建築指南書と表紙に書かれた本を怪訝そうに見ていたクラリスに直人は説明した。だが、それでも彼女の疑問は解決されることがなかったようで、疑問がいっぱいとった顔をして再度問いかけて来た。
「ログハウスですか? その、大工の方には頼まないのですか?」
「うん。自力でしようかなと。整地や土台作りは土魔法で出来そうだし、木材も風魔法とかで持ち上げれば1人で作れそうだなって思ってね。新しいことへの挑戦ってやつだよ」
「そうなんですか……」
「うん。楽しそうだと思わない?」
笑顔でそういった直人にクラリスは引きつった笑顔でしか応じられなかったがそれも仕方のないことであった。金がないといった事は当然ないのにも関わらず素人が自力で建物を建てようとする行動を理解することはできなかったからだ。だが、直人のこうした思いつきで何かを始めるということは最近では珍しくなかったので、クラリスはいつものことだと思い流すことにしたようだった。そんなクラリスの態度に気付く事なく、お茶受けのクッキーを食べながらどんな間取りにしようかなと直人は考える。だが、実際のところ、直人にはそこまでログハウスに思い入れはなかった。それにも関わらず、ログハウスを作る事にしたのは別の所に理由があった。それは、生き甲斐を探すといったものである。
アシルの母親を助けたいという強い想いを見てからというもの、直人も自分が打ちこめるものを見つけようと必死になっていた。たとえそれが趣味でも良いからしたいことが見つかれば自分の在り方を決められるかもしれないというかすかな希望に縋って。それ以来、色々試してはいるものの魂を揺さぶられたり、しっくりくるような趣味は未だ見つける事ができていなかった。
「ま、何事も挑戦だよ。クラリスも何かしたいことがあればしてみれば良いんだよ」
「挑戦ですか? 読書することが楽しいのであまり今は挑戦したいというものがありませんね。学ぶことが楽しいです」
勉強が趣味と笑顔で言うクラリスに直人はしみじみ思う。勉強のできない環境に居た人にとっては学べるという事自体幸せなことなんだなぁっと。それでも、自分ではないが学ぶ以外にも何か趣味を持ってもらいたいという願いもあった。
「そうなの? まぁ、俺も読書は嫌いじゃないから分からないでもないけど。何かしたことができたら言ってくれたらできる範囲で協力するよ」
「あっ。では、アーソスを弾いてみたいです。広場で弾いている人が居て、あの人みたいに弾けたら楽しいと思います」
「アーソスならやってみようかなと思って買っていたから貸してあげるよ」
ギターとウクレレを足して2で割ったような弦楽器であるアーソスの演奏をしたいと言い出したクラリスに、直人は楽器を買ってあげることにした。だが、実際に買ってあげるといえば遠慮することが目に見えていたので、既に持っている所有物を貸し出すといった名目を出す。その気づかいが効を奏したのかクラリスも嬉しそうにお願いしますといって直人の提案を受け入れてくれた。そんな彼女のひたむきさが直人には少し妬ましく感じられたが、それ以上に身内になりつつあるクラリスの笑顔には癒される部分の方が大きかった。
初めて作ったにしては上手くいったブイヤベースもどきに気分を良くし、食後のお茶を楽しんでいると玄関のベルが鳴らされた。今日は来客の予定もなかったため、直人は一瞬誰だろうと思ったが警備兵が通したということは問題ない人物だろうと判断する。そして、来客に対応する為に口に入れたマカロンを一生懸命飲みこもうとしているクラリスを手で制した。
「いいよ、俺が出るから。クラリスは来客用にお茶とお茶受け用意しておいて」
「はい。分かりました。紅茶にしますか? それもとハーブティがよろしいですか?」
「うーん。無難に紅茶にしておいて。あとお茶受けは何種類か適当に任せた」
「かしこまりました」
簡単に打ち合わせをして直人が足早に玄関に向かうと再度ベルが鳴った。直人としては多少は待てよと内心思わなくはいられなかった。それと同時に知っている人ではないかもしれないと来客について当たりをつけた。直人の知り合いは、この館には直人とクラリスの2人しか住んでいない事を知っているのだから、多少出迎えが遅れても待ち続けるのが普通であったゆえである。そして、その予想は的中した。玄関の扉を開けた時、直人の目の前にいたのは無駄に煌びやかな服を着た一目で貴族だと分かる男と、そのお付きの者達だった。会った事もない貴族が自分になんの用だろうかと直人は疑問に思いながらも用向きを訪ねることにした。
「お待たせましたした。本日はどのような御用件でいらっしゃったかお伺いしてもよろしいでしょうか?」
直人の問いにお付きの者が答えようとしたが主人である貴族がそれを制止、一歩前に出てきて答えた。
「うむ。卿に話があってきたのだ」
「話ですか? それと大変申し訳ないのですが私は国籍を取得していないので、準貴族ですらありません。ゆえに、卿という呼び方は私なんかには不適当かと」
卿と呼ばれ直人は訂正することにした。ケレス王国では国籍を持っている神眼級の魔法使いは最低でも準貴族に叙せられるから、それと間違えているのだろうと考えてだった。だが、どうやら直人が国籍を取得していないことを男は知っていたみたいであり、なんでもないことのように言う。
「それに関しても問題ない。詳しくは中で話すゆえ」
「はぁ……かしこまりました」
なんか面倒事が来たよなと思いながらも直人は応接室に案内するため歩き出した。館に入れるとも言っていないにも関わらず、招く事が確定しているといった傲慢な態度に出る貴族に辟易しながら。
クラリスがお茶を置き終え部屋から退出するのを待ってから貴族の男は話し出した。
「本日、我が赴いたのは卿の勧誘である。是非、ケレス王国に士官してもらいたいのだ」
「はぁ。そういった類の話は何度か受けているのですが現在の所、保留にさせていただいているのですが。ですので申し訳ありませんが、気持ちが固まるまでお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「なんと! 我がわざわざ足を運んだにも関わらず断るのか! 理由を言うがよい」
「国に士官……公認魔法使いになると言い換えても良いですが、そうなれば基本的に王都に住むというのが通例です。その後、適性や必要性に応じて各街に配属されると私は理解しているのですが間違ってはいないですよね?」
「うむ。相違ないな。それの何処に問題がある?」
「それは、私がこの街で喫茶店を続けたいと思っているからです。せっかくの知り合いも増えましたので今後さらに仲良くしていけたらと」
直人の答えに貴族の男はしばし呆然としていたものの、正気に戻るや否や烈火のごとく怒りだした。
「なにを言うか! 我が卿の為にわざわざ赴いたというのに、その好意を無碍にすると言うのか!」
「い、いえ。そのような事を言っているのではありません!」
「同じ事だ! このヌフス伯が長子である我の申し出を断るなど!」
伯爵の長男だとは初めて聞いたよと直人は心の中でつっこみながらも必死に宥める。だが、一向に怒りが収まる様子もなく直人もどうしたものかと頭を抱えた。それはお付きの者達も同じだったようで、主ゆえに取り押さえる事もできず落ち着くようにと遠回しに伝える事しかできていなかった。もう、この場はどうやっても収まりがつかないなと怒っている男1人を除いて全員の想いが一致した頃になってようやく救いが現れた。それは、扉をノックする音だった。
ノックの音で水を差されたのか貴族の男も一瞬大人しくなったので直人が入室を許可すると、館のもう1人の住人であるクラリスでは無くブノアを始めとした領主館の人員であった。そして、その後ろでは心配そうな室内を見ているクラリスの姿があった。直人はブノア以外の人は誰か分からなかったが、着ている服を見るとかなり階級が上そうだなと当たりをつける。とりあえず、要件を聞いた方が良いのか挨拶をした方が良いのか直人が直人なりに悩んでいたが、ブノア達の中でも一番威厳がありそうな初老の男が先に口を開いた。
「直人殿、お初にお目にかかる。ユピリスの領主をやらせてもらってるジルベールじゃ。此度は急な訪問になり誠に申し訳ないのぉ」
「領主様であらせられればいつでも歓迎いたしたく思います。大したもてなしもできないですが、すぐに用意させますゆえしばしお待ちくださいませ」
「いや。お気遣いは結構じゃ。じゃが、お茶は興味あるので今度喫茶店の方に寄せてもらおうかのぉ。それで、今日はここに来たのはレジス殿を回収に来たのじゃ。迷惑をかけてすまんのぉ」
「い、いえ……」
早く引き取ってくださいと言う訳にもいかず直人は口を濁した。そして、この時初めて目の前にいる貴族の名前を直人は知ったのだった。領主がレジスの方を向いたのに合わせ、直人も彼の方を見ると、先ほどまで怒りで顔を真っ赤にしていたとは思えないほど顔を青ざめさせていた。そんな彼の様子に構う事なく領主は言い放った。
「レジス殿。誰の許可をとってこのような事を行ったのじゃ? ヌフス伯が許可するとも思えんし、独断であるとしたら問題じゃとは理解しているのかのぉ?」
「そ、そんな! わ、私は王国のことを思ってしたまでのこと! 決してそしられるような事をした訳ではありません!」
「ほぉ? 事前に直人殿に何の連絡もせず、警備兵を貴族としての権限で黙らせ、怒りながら受け入れを迫るというのが問題ないと申すのかのぉ?」
「そ、それは……」
好々爺とした領主が淡々という事実を前に、流石のレジスも言い返す事ができなかったらしく言い淀んだ。
「ま、よい。領主館で詳しい話を聞くとしよう」
領主はブノア達を促し、レジスの拘束するように両脇を固めさせた。そして、直人の方に向き直ると深く頭を下げ謝意を示した。
「此度は大変迷惑をかけたようじゃ。誠に申し訳ない。このような事は二度と起こさないようにするゆえ、許してもらえないじゃろうか」
「は、はい。領主様は悪くありません。それに、自分の部下や身内が問題を起こしたからといって私のような若造に頭を下げてくださる領主様を尊敬することはあっても、お怨み申し上げることはございません」
「そう言ってもらえるとありがたいのぉ。また、この埋め合わせはさせてもらうから待っていてくれ。では、帰るぞ。レジス殿も抵抗せずについて来たまえ」
それだけ言い、領主は項垂れて歩くレジスを促し部屋を出て行った。だが、直人の予想に反し、ブノアはその場に残っていた。一緒にいかなくても良いのかと直人は疑問に思ったが、レジスとは違いブノアに悪感情を持っていなかったこともあり早く出ていけと思うようなことはなかった。不思議そうに自分を見ている直人に気付いたのかブノアは頭を下げながら言った。
「直人殿。大変申し訳なかったです!」
「いえ、ブノアさんが悪い訳じゃないから気にしなくても良いですよ。しかし、どうして彼はここまで執拗に勧誘を迫ったんでしょうか?」
「それは、きっと後が無くなっていたからだと思います」
「どういうことですか?」
ブノアの説明にますます直人の疑問はつのるが、続きを聞いて納得した。ブノア曰く、このケレス王国で親や親族から爵位を譲りうける為には譲渡資格がいるという。そして、先ほどのレジスは文官や武官の資格や何らかの博士号といったものを有していなく、このままであれば自分が爵位を譲り受ける資格を手に入れる前に、あと少しで条件を満たしそうな弟が爵位を譲り受ける可能性があったので焦っていたそうだ。その為、手っ取り早く優秀な人材をケレス王国に引き込んだという実績を作って譲渡資格を得ようとしたのではないかということであった。
ケレス王国の貴族制についてはポイントで得た知識と実際にケレス王国に来てから見聞きした情報で知っていたが、まさか平民の自分が巻き込まれるとは直人も思っていなかった。それと同時に、自分の立場が脅かされているのであればレジスの強引な勧誘も無理もないなぁっと迷惑をかけられた立場ながらも怒りを忘れ同情する程であった。
ただ、この時直人はある事に気づいてしまった。自分を引き入れたら特典になるのはブノアも一緒なのだと。そして、ブノアは領主館……つまり国側の人間だと。そう、友達だと思っていたブノアは実はレジスと同じだったのではないだろうかと。そんなふとした思いつきは直人の頭から消える事なく、むしろ少しずつ大きくなっていくのであった。
レジスという貴族の勧誘の一件から直人は人に対して疑心暗鬼になっていた。考えれば考えるほどブノアという存在が自分に都合の良い存在だったと思えてきたためだ。ホーリーバードを領主館に持ち込んだ時の対応は普通であった。そして、奴隷に関してのアフターケアも購入に関わったゆえのサポートだと理解はできた。だが、その後の事は今の直人には色々不審な点があるように感じられたのだ。当時は何も思わなかった事も、自然であると思っていた事も何もかもが怪しく感じられるようになってしまった。そして、直人はとある結論にたどり着いた。所詮、ブノアも自分を取りこんで功績にしただけの人間か、仕事だから自分の事を相手にしているだけの人間だと。
この結論を得てから、直人にとって本当に信じられる人間はクラリスのみとなってしまった。奴隷時代に電流を流しても付いてきてくれ、そして今でも自分の傍に居て親身になってくれる唯一の人間だと。初めは両親から逃れる手段として自分を頼っていたかもしれないが、両親の追及をかわすだけであれば他にも方法があったはずであると直人は考えた。実際に、直人が館を始め資産を譲渡すれば、その資産を売った金で誰かに庇護を頼む事も可能であったはずだと。それにも関わらず、色んな利益を捨ててでも自分と一緒に居てくれる。そう、クラリスだけは自分の味方で身内なのだと。
直人は決意した。自分を支えてくれるクラリスを何があっても守り抜こうと。何があっても支え続けようと。そして、彼女が幸せでいれる環境を提供し続けようと。直人は人知れず決意したのだった。そんな直人の想いを全くしらないクラリスは、直人の前でアーソスの練習をしていた。
「やっぱり、難しそうだね。誰かに教えてもらえるように頼んでみようか?」
「そこまでしていただかなくても……趣味でやっている程度ですので」
「でも、試験も終わったし時間に余裕ができるんだから真剣にやってみるのも悪くないと思うんだけど。まぁ、気が変わったら言ってよ。お客さんの中にもやっている人がいるから頼んでみるよ」
「その時はお願いします」
ぺこりと頭を下げるクラリスに、直人は俺が好きでやっていることだから気にするなともはや定番となりつつある台詞を言った。以前からお金に対してさほど執着がなく、クラリス達奴隷にもお金を注ぎ込んできた直人としては本当に気に留める必要性も感じていなかったのだ。といっても、今クラリスが何気なく手に取っているアーソスにしても金貨380枚という超高級品だという破格の扱いをしていた。もっとも、クラリス本人はその値段の事を知らなかったが。
練習に戻るクラリスを眺めながら直人は思う。クラリスの両親対策もある程度できつつあるからこれからは好きに生きるべきだろうと。まだ結果は出ていないものの、クラリスであれば初級薬師の試験に受かっているに違いないと。直人はそう確信していた。そもそも、クラリスが初級薬師の試験を受ける事になったのは1年と4カ月程前から決まっていた事だった。ケレス王国では15歳未満の未成年に対する親の権利が強かったので、両親がクラリスを奴隷として再度売却したり労働力として酷使することを避ける為に直人が提案したのだ。ギルドランクDを目指すと共に薬師にならないかと。ギルドランクDになれたら成人後の干渉はある程度避けられるようになるだろうし、薬師も初級の資格を取った時点で成人擬制されるから便利だろうと。直人のその言葉を受けてクラリスは喫茶店の仕事や家事の合間に勉強を重ね、つい先日初級薬師の筆記試験に合格しており、あとは提出した薬の効能が認められれば初級薬師としての資格を得られる段階まで来ていた。
まだ、合格できるかどうかは決まっていないとはいえ薬の効能自体は直人監修の下練習に練習を重ねており、ギルドランクを上げるため冒険者ギルドに販売していた実績もあって審査に落ちる事はないと直人は考えていた。クラリスは受かっているかどうか心配していたが、それでも試験が終わった事で気が抜けたのか以前から興味のあったアーソスの練習に精を出し始めたのだった。過保護な雇用主の支援を受けて。
呪文を唱え、術式が完成すると同時に目の前に小さな小さな手のひらサイズの木が生えて来た。これで、今日のノルマである100本の成長が終りとトマにすかさず渡されたタオルで額の汗を拭った。
「これで第三果樹園の方の作業は終りですよね?」
「はい。そうです! 明日からは第四果樹園の方で、3週間後は第五果樹園の方となっています。それで果樹園の方は終了となりますので仕事が幾分か楽になると思います」
「それは良かったです。まぁ、もし私が寝込んでしまえば食料供給が止まってしまうということにでもなれば一大事ですからね」
直人はそう言って笑ったが、実際問題トマや領主館の人員からすれば笑える話ではなかった。1人の力で多くの食料が供給できる。その言葉だけを聞けばとてつもなく魅力的なものかもしれなかったが、逆を言えば直人という緑魔法に精通しているという貴重な高位魔法使い1人がいなくなるだけで多くの食料が得られなくなるということであったのだ。直人が言うように、もし彼が病気で倒れたら、もし強盗にでも襲われ死んだなら、もし他国に誘拐されてしまったらどうなるかは明白であったのだ。そして、領主館としてもこの危険性については当初から予見していた。ゆえに、対策は最初から講じられてきたのだ。
対策といっても何も難しいことではなかった。農業放棄地を直人の力を借りて再び農作物を作れるようにするだけで良かったのだ。といっても、口でいうほど簡単な事ではなく担当者達が何十人も集まり効果的効率的な計画を練って、直人という非常に協力的で優秀な高位使いの存在があったがゆえにできたことだった。その甲斐もあってか、直人が農業に参加し始めて8カ月経った頃、ようやく都市内の農業放棄地の数がゼロになるという快挙を成し遂げることに成功した。そう、これで直人の緑魔法に頼らなくても自領内で疫病前に提供できていた水準の食料供給ができるようになったのだから。
といっても、直人がお役御免になるという訳では当然なかった。普通の作物を作れば農家の打撃になるのではないかと直人は懸念し農業に参加する事をやめようとも考えていたのだが、トマやブノアの説明というか説得を聞き直人は折れるしかなかった。その説明とはこうだ。確かに旬の野菜を作れば打撃になるが、この地域で作れない野菜や旬でない野菜を作れば誰も不幸になることはないと。それに、果樹園の再建を手伝ってもらいたいと。木は1年そこらでは大きくならないからと。その説明は農家や商人に与える影響といった具体的な数値も含めた詳細なもので、直人が質問しても一瞬で解消してくれるほどの出来であった。
この説明を聞き、直人は内心喜んでいた。これで自分が関わらなくても問題なくなると。後少し付き合えば、面倒な利害の中心から抜け出せると。もっとも、旬でない作物の栽培には協力することにはなるだろうが直人としてはそれすらもいずれ止めるつもりだった。旬の野菜が売れるか分からなければ農家が困るであろうとでも理由をつけて。もう、自分を利用して儲けようとしている人達に関わることに直人は嫌気がさしていたのだ。それは、人々に感謝されるという喜びをもはや超えるくらいに。




