三、待つ? いいえ、待ちません。
階段をくだりきると細い車道が通っていた。右手と左手で、それぞれ二股に分かれて道が伸びている。
少しの間逡巡し、望は左手に曲がった。
周囲にはやはり、というか当然のように、古びた3階建てビルや一軒家がひしめくようにして軒先を連ねている。そしてそこには人の気配が微塵も感じられないのだった。
夢の中にいるみたいな気もするし、実は知らぬ間にドッキリ番組に参加しているような錯覚を覚える。
望は手に携帯電話を握りしめ、とにかく先に進むことだけを考えた。
気を取り直して周囲を見渡してみると、家々の間にポツンと背の高い木が覗いていた。
何の目印もなく闇雲に歩き回るよりはと、望はその木を目指して進むことにした。
アスファルトの平坦な道は時折折れ曲がりながら、民家の間を縫うようにして伸びていた。そして不思議なことに、この道はどこに行っても二車線のような広い道路に行き当たらなかった。この辺の正確な事実がありさの話に信憑性を与え、不安を募らせる材料になった。
そうこうしている内に小さな市民公園が見えてきて、そこに目指していた木があった。
ホッとして乾いた喉を潤そうと園内にある水飲み場に立ち寄ろうして、望は目を疑った。 木の傍に設えられた滑り台から足が飛び出していた。
それが視界に飛び込んできた瞬間、望は猛然と滑り台の傍に駆け寄って行って覗き込んだ。
「眞鍋望……?」
期待を込めて名前を呼ぶと、顔面を覆っていた帽子が動いて脇に滑り落ちた。
きめの細かい小麦色の肌に、色の抜けた頭髪が露わになる。
その人は、眞鍋望ではなかった。
がっくりと肩を落とし、思わずため息をつきたくなって思い直した。はじめて自分以外のヒトと出会えたのだ。状況からして喜ぶべきなのだろう。
望は最初に小さく声をかけ、次に大声で呼びかけ、身じろぎもしないので強く肩を揺さぶってその人はようやく身を起こした。
「? なにさ、あんたこんなところでどうしたんだい」
ぐっと両手を空に突き伸ばし、眩しそうに眉間に皺を寄せて目を細めているその人を望は肩を緊張させたまま見つめた。勢いをつけて立ち上がり、大きく口を開けてあくびする。
「見た感じ、こっちの人間じゃあないようだけどねぇ」
ちらりと横目に視線を向けられ、望は強い目で見返した。
「なぁに、とって喰いはしないよ。タビビトは友好的でなくちゃあね」
ふあははは、と奇妙な笑い声を響かせ、タビビトは映画に出てくる探検家が持っていそうなリュックサックを肩にしょい上げた。そしてそのまま彼の脇をすり抜けて行ってしまいそうな気配を感じて、望は慌てて手首を捕まえて引きとめた。
「ちょっと待てよ」
「ははあ、なにさ。あんたあたしに何か用かい」
「ここから出る場所はどこにあるか知ってるか? あと、黒髪のポニーテールにした眞鍋望っていう女の子も」
「……? もしかして、あんたワタリビトかい。そのなんとかっていう女の子を捜しているのか」
「何でも良いから、その女の子と出口がどこにあるか知らねぇの?」
タビビトを相手にするのが急に面倒臭くなって、早く聞き出して眞鍋望を捜しに行きたかった。彼の気持ちをいくらか察したらしいタビビトが、ふむぅと顎に右手を当てて考え込む素振りを見せた。
「あんたねぇ、さっきから出口出口言ってるけどねぇ、出口はずっとあっただろう?」
「はあ?」
「あと女の子だっけぇ? 外見をもちっと詳しく教えておくれよ」
出口の件で納得できず顔をしかめたが、望は相手のペースに巻き込まれるままに眞鍋望の特徴を思い出してタビビトに伝えた。
「んー、やっぱり知らないねぇ。ま、とにかくこんな道が入り乱れた場所で人捜しなんかしても意味ないと思うよ。ワタリビトはさっさと渡っちまいな」
「あのさ、もう少し詳しく言ってくんねぇ? さっきからあんたの言ってる意味、さっぱりわかんねぇよ」
「ワタリビトは皆そんなもんだからいいんだよ。いつかは出口が見えてくるもんだしねぇ」
タビビトにそう言われてなんだそうなのかと納得しかけ、ありさの顔を思い出した。
それじゃあ駄目だ。俺はあいつのいるところに戻らなければ。
望は携帯電話の発話ボタンを押して呼び出しコールを数回聞いた。タビビトが興味深そうにその様子を観察してくるのを軽く無視して、ありさが出るのを待った。
『はい』
3コール目でようやくありさが答えた。なんだか焦っているような声で、少しうわずって聞こえた。
「穂月? 何かあったのか……?」
『ううん、よくわからない。でも、すごく嫌な予感がして……なにか、忘れているような気がして……』
彼女の声がわずかに震えているのがわかった。何かを恐れ、怖がっている。
「俺、やっぱりそっちに戻るな。今タビビトとかいう奴を見つけてあんたの友だちのこと聞いてみたけど、よくわかんねぇこと言うんだぜ」
『……タビビト?』
「そ。で、俺はワタリビトなんだと。まぁそんなことはどうでもいいからさ、これからそっちに戻るって」
『う、うん……あっ』
「何、どうした?」
『思い出したわ。確か望もタビビトの話をよく聞かせてくれたの』
「……」
『タビビトは様々な世界を行き来するヒトなのよ。それでね、一人前になるにはソラマメみたいな勾玉を手に入れなければいけないんですって。だから旅をして、勾玉を探し続けるからタビビトと言ったりもするのよって』
望の手に嫌な汗が浮かび、握りしめている携帯を滑り落としそうになる。
勾玉だって? そんなの……
ちらりと側に立つタビビトを見る。そしてある確信を持って、彼は見事なスタートを切ってその場から走り出した。
穂月ありさをみすみす失ってしまうのではないかという不安に胸がざわつき、全身全霊で直進した。この変な道に迷い込んでから、ずっとこれに似た焦燥を感じていた。
彼女は勾玉のもう一つの意味をきっと知らないに違いない。そして、タビビトの話をしてくれたという眞鍋望が本当はどういった存在なのかということも。
空を見ると、いつの間にか太陽が傾き、赤く色づきはじめていた。時間がないと、すぐにわかった。
「くそっ、恨むからな、眞鍋望!!」
思わず吐き捨てるように言ったが、走っているので息が上がってうまく言葉にならなかった。
ずいぶんと長い間走り続け、やっとの事で見覚えのある民家の前にまで辿り着いた。そこからまた角を曲がり、ようやく見えてきた長い階段を2段飛ばしで駆け上った。見覚えのある庭先の家に穂月ありさの名を叫ぶようにして呼びながら駆け寄って行く。すると背後から誰かに腕を掴まれ、引き止められた。ぎょっとして振り向くと、そこにはぬばたまのように黒い髪をポニーテイルにしてまとめあげ、尖った細いあごと二重の目をした望と同い年くらいの少女がいた。
「お、まえは……ッ!」
望が呼吸をするのもやっとという体で喘いで言葉もうまく喋れずにいると、塀の向こう側から顔を覗かせたありさが声をあげて塀にしがみついた。
「望!」
彼女の、その歓喜に震えた声が忽然と現れた少女のすべてを明らかにさせた。
望と異性同名で、穂月ありさの親友である少女ということだが、ありさの思い出したタビビトの話を聞いて望が真っ先に思い出したのは彼の今は亡き祖父の言葉だった。
祖父は生前考古学者として各地を巡る研究者だった。祖父の引退後、望は彼の隣に座ってよく考古学的な話を子守歌代わりに聞かされていたものだった。その祖父がある時、出土する装飾品について話してくれたことがある。
——勾玉は、人の魂だよ。あの形が、人の胎児を象徴しているという者もいるのだよ。
そうだ。だからありさがタビビトは一人前になるのに勾玉を必要にすると言った時、望はありさの身を案じたのだ。なぜなら彼女は以前この歪んだ世界に連れてこられている……親友だという眞鍋望に。人の魂を必要とする、タビビトのなりそこないに……。
「離せッ、バカヤロウ!」
望が強い力で突き放すと、腕を掴んでいた少女の体はいともたやすく倒れ込んだ。どさっという音がして、向かいの家のフェンスに体をもたれかけるようにして小さいうめき声をもらしている。背後からはありさの短い悲鳴が聞こえてきた。
「眞鍋くん、やめてっ! どうしてそんな乱暴なことをするの!!」
それは今にも泣き出してしまいそうな声だったが、その顔を見るとすこしも泣いていない。動揺と混乱がその黒目がちな瞳の奥にゆらゆらと揺らめいて見える。
望はフェンスに手をかけて立ち上がろうともがいている少女から少しも目を離さないよう注意しながら、用心深く間合いを取った。
「穂月、いいから聞け。お前は勘違いしてるんだよ、こいつはタビビトであって親友じゃないぜ。人さらいでしかも死神と似たようなモンなんだぞ」
「何言って……」
「そうだよぉ、何言ってくれちゃってるのキミぃ」
「は?」
思いもよらぬ声がしたので驚きを隠せずに振り返ると、望の目と鼻の先に例のタビビトと称する女がにやにや笑みを浮かべて、電信柱に寄りかかってこちらを見ていた。
重そうに自分の体を電信柱から離して起き上がると、タビビトはすたすたと3人の側まで近寄ってきた。
「この人間が我々と同じタビビトなわけがないでしょう」
と言って指さした先には、ようやく立ち上がったポニーテイルの少女がフェンスにしがみついている姿がある。
そんなことを言われて望は混乱した。それはどういう事だ。わけがわからない。
思考が追いつかずにぼんやりする望をおもしろがるように、タビビトは大口を開いて笑い声を上げた。
「ずいぶん前に弟子が迷子になっていてねぇ、あんたと会った公園で昼寝して帰りを待っていたんだよぉ」
タビビトは背負っていた鞄を足下に降ろして中からおもむろに鋏を取り出して、ありさのいる庭先に近づいた。望が引き止めるより早く、タビビトは手にしていた鋏でいとも容易く門扉の蝶つがいを断ち切ると、こちら側にありさを引き込んでしまった。
ありさはびっくりしたようにしばらく震えていたが、しだいに彼女の顔に浮かぶ表情が変わってくるのがわかった。
「どうしてかあんたンとこの世界に馴染んじゃったんだねぇ。一度戻ってきたと思ったらまた別の出口から違う世界に逃げて行くしねぇ」
はー、まったく困ったモンだ。と言葉をもらすタビビトの顔はどこまでもうれしそうだ。
ポカンとだらしなく口を開けて様子を見ていると、タビビトがそんな望を手招いた。
「うちの弟子が迷惑をかけたみたいだね。でもあんたの世界は馬鹿弟子のお陰でこの庭からまだつながっているようだから、そこから帰りなね」
と言って軽く望の肩を押す。
パンジーの咲くプランターが並んだ庭先に一歩足を踏み入れただけで、望の視界はどこまでも澄きとおって見えた。
「あとこっちの女の子は、アタシたちがきちんと元の世界に連れてったげるかね」
タビビトの声がどうしてか空から降って聞こえてきた。
望が背後を見てもそこにはもうすでに誰の姿もなく、夕日に照らされて、壊れたはずの門が少しだけ開いていた。
望は後ろ髪を引かれながらも、そっと門を押し開き、外に出た。
目の前に夕暮れ時の町の風景が溢れかえる。小学生が友人と別れて自転車をこぎ出してからもなお、しつこいぐらいに「バイバイ」を繰り返して言い合い、惜しみつつ別れ道をそれぞれの方向に歩いて行くのが見えた。街灯にポッと明かりがともった。
それは、あまりにもあっけない幕引きだった。
穂月ありさはタビビトの弟子だったという。そしてもう1人の眞鍋望は別世界の人間。
わけがわからない。
望はどうしても納得できなかった。
「くそ、こんなんで、なにもかも終わったような顔しやがって」
ぼそりと吐き捨てるように言うと、望は駅に向かって歩き始めた。一歩一歩、しっかりと地面を踏みしめるようにして、前をまっすぐに見据えたまま。
脇目もふらず歩き続けた。
****
「眞鍋教授」
振り返ると、いつの間にかすぐ側に教え子の姿があった。
「また新入生にあの話をしていましたね?」
「そうだよ、君に何か不都合があるかな?」
「いいえ、でも眞鍋教授がそんな話をするから新入生達をこまらせてしまうのも事実ですよ」
「そうか……そうだな」
教え子のほうが正論を言っているな、と思う。
自分がまだずいぶんやんちゃだった頃に体験したことは、科学や理論で説明できないのだから。
「そのせいで変な噂とか、いっぱいあるんですよ。教授は知りませんか」
「ん、知らん」
「はは、それもそうですね。何でも、教授は宇宙人だそうですよ。それから未来人ですし、電脳を持っているなんて噂もありましたっけねぇ」
この教え子はこんなに饒舌だっただろうか。そんなことをぼんやり考えつつ、廊下を歩いて自分の研究室に向かった。
「でも僕は、教授の仮説……というより体験ですよね。そういうの、興味ありますよ」
「君は俺をからかいに来たのか?」
「そうじゃなくてですね、僕も教授の仮説を研究したいと考えているということですよ。それから、用事もちゃんとありますよ。教授の研究室に来客があったので呼びに来ました」
一瞬、教え子の顔をまじまじと見つめてしまってから、わざとムッとした表情を作った。眉間に皺を寄せて、自分の研究室の扉を見る。
ちらりと教え子の方に視線をやってから、
「そういう大事なことはもっと早く言いなさい」
と苦言をもらした。
そして扉を押し開けて中にいる人を視界に入れた瞬間、ハッとした様子で足を止めた。
不思議そうな顔をして部屋の奥に視線を投げかけた教え子が見たのは、どこか影の薄い、清楚な女性の横顔だった。そしてその女性を、見つめる、見たこともない表情を浮かべた眞鍋望の姿だった。
2人の関係はわからないが、それでも2人にとってもっとも重要な意味を持っているということは、教え子の男にも理解できた。
彼は眞鍋教授を残して、そっと部屋の扉を閉めた。「おひさしぶり」そう言った女性の明るい声が聞こえた気がした。彼女の言葉に眞鍋教授はどんな顔をして、どんな声で、なんと答えるのだろうか。
男は何も聞かなかったことにして、その場を静かに立ち去った。
「私、望にごめんねって謝って、仲直りできたんだ」
大人の魅力を備えた彼女は、やわらかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう。今の私があるのはみんな、眞鍋くんのお陰だよ」
彼女の前に立った俺は、ガキ臭かったあの頃とは違う。顔を上げると綺麗になったありさと目があった。
俺もありさに伝えたかった言葉がある。それを今、口にする。
──お前だけのために。