悪女をやめて、森でピザを焼いて暮らします
「国外追放、ですか?」
私が訊ねると、レオンは重苦しく頷いた。
「はい。明日の朝、正式に通達が出るはずです」
「それは、エドワードさまが決めたこと?」
「……残念です」
口ごもるレオンは黒髪に青い目、いかにも誠実な容貌の青年騎士だ。
彼がいつも仕えている相手は、私の婚約者にしてこの国の第三王子、エドワード。
「ちなみに、私の罪状は?」
「宮廷の規律を乱したゆえ、とのことです」
なるほど、と思い、私はちらと自室の鏡台を見た。
そこに映るのは、豊かなストロベリーブロンドを完璧に巻き上げた派手な女だ。
私、ロザリー・ベルモント侯爵令嬢は、生まれつき容貌が派手だった。
真面目に勉強しても遊び人と決めつけられ、身に覚えのない浮気の噂まで立てられる。
婚約者のエドワードも、私本人より噂を信じたのだろう。
私は一度目を閉じてから、声を張り上げた。
「執事のアルベルト、それとメイドのアン!」
「は、はい、ロザリーさま、アンはここです」
「こちらに控えております、ロザリーさま」
「アルベルト、荷造りをお願い。道具類と食料、それから金貨を一枚、銅貨を少し。残りの私財は、使用人たちに分配してちょうだい」
「かしこまりました」
私は寝る前に読んでいた古びた小冊子を小脇に抱え、髪から宝石入りの櫛を抜いた。
窮屈だった結い髪が、ばさりと背中に広がる。
「アン、今までありがとう。この櫛を売って、病気のお父さまにお薬を買いなさい」
「ロザリーさま……!」
可愛いアンは、目に涙をいっぱいに溜めている。
エドワードの騎士のレオンは、戸惑ったように言った。
「一体どこへ行かれるつもりです?」
「さあ。みなさまのお邪魔にならないところへ行くつもりです」
私はせいぜい優雅に一礼。
「それでは、お暇いたします」
◆
それから十日。
私はメイドのアンから譲り受けた普段着を着て、安い馬を借り、隣国へとたどり着いた。
ここならいいかなと思えたのは、国境近く、山間部の宿場町。
よそ者にも寛容そうな町だ。私はさっそく宿屋に押しかけた。
「私、サリーと申します。働き手として雇ってくださいませんか?」
偽名を言って頭を下げた私を、宿屋の女主人はじろじろと見つめた。
彼女は恰幅がよく、指は水仕事で荒れていて、働き者なのがよくわかった。
「ふーん。妙にこぎれいな子だけど、ちゃんと働けるのかねえ」
「私、体力あります。三日くらい寝ないでもいけますし」
私は地味ドレスの袖をめくり、力こぶを作って見せる。
宮廷では三連続で舞踏会をこなすこともあった。体力はある。
「はっ。バカな貴族じゃあるまいし、夜は寝なよ」
「あ~……ははは、そうですよね」
「でも、早起きできそうなのは何よりだ」
「力もあります。言葉も三カ国語できますし」
前のめりになると、これは少し不審がられた。
「外国語? そんなのどこで覚えたんだい?」
「えーと、生まれた家が馬番の家で。馬を借りに来る外国人と話していたので」
家が馬番なんて、もちろん嘘だ。
私が馬に詳しいのは、派手な顔のせいで追いかけてくる男をかわすため、厩に逃げ込むことが多かったから。
「なるほどねえ。馬番の娘ってことは、馬も扱えるのか」
「はい! お世話も乗るのも得意です」
「……わかった。だったら雇ってあげる」
「ありがとうございます!」
私は思いきり頭を下げた。
女主人は、あたしはマルタだよ、と自己紹介をしてから、宿屋の奥の小屋を指さす。
「どうせ住むところもないんだろ? あの物置片付けて使っていいよ」
「助かります! ちなみに、家賃はおいくらでしょう?」
「家賃ねえ。何せ物置だし。先に住んでるやつの世話するなら、タダでいいかな」
「先に住んでる奴……?」
えっ、それって、男性ですか?
私、強制的に結婚させられそうになってます?
私は首を傾げたが、物置からのそのそと出てきたのは、毛の長い灰色の犬だった。
「わふ!」
「わんちゃんだ」
「モップっていうんだ。食い物にうるさいけど、行儀はいい。頼んだよ」
そんなこんなで、私は住む場所と職を手に入れた。
森の傍の宿屋と、物置。
宿屋の敷地内の、何もない空き地。
荷物にベルトで挟んでいた冊子を取り出し、ぺらり、と開く。
そこには、森の中に設置された石窯の精巧な絵があった。
私がずっと憧れていた、ピザを焼くための窯だ。
そして、目の前には、窯を作れそうな空き地がある。
「……最高」
私は、思わず微笑んだ。
◆
それからの生活は大忙しだった。
夜明け前に起きて、鶏とアヒルから卵を回収。沢で水を汲み、旅人の馬の世話をする。マルタが焼いたパンで宿の朝食が終われば、私もようやく朝ごはん。その後は皿洗いと掃除だ。
「やけに頑張るねえ、サリー」
チーズの分厚いひときれを載せた黒パンを頬張っていると、マルタが向かいに座った。
「そうですか? 早起きくらいしかしていない気がしますけど」
「水も汲んでくれるし、馬の扱いも上手い。助かってるよ」
「沢に行くのが気持ちいいんです。森で運動すると、朝ごはんが美味しいですし!」
舞踏会で飲み過ぎて二日酔いということもないですし、とは言わず、私はもう一口、パンにかじりついた。
ここに来て初めて食べる黒パンは、白パンよりも深みのある味と香りが口いっぱいに広がる。近所で作られたチーズとの相性もばっちりで、いくらでも食べられそうだった。
マルタは、ふーん、と言いながら自分もパンにかじりつく。
「このへんでうまいもんなんか、チーズと山菜くらいだけどねえ」
「最高じゃないですか! あと、森の中でキノコの群生地も見つけましたよ」
「キノコねえ。うちの国じゃあんまり食べないんだけど。あんたは食べるの?」
「大好物です。今度少し取ってこようかな」
私がにこにこしていると、マルタもつられて少し笑う。
そのあと、少し決まり悪そうに話を逸らした。
「そういや、モップはどうしてる?」
「モップさんなら元気ですよ」
「モップさん?」
「お見せしましょうか。汚れてますけど」
怪訝な顔をするマルタを、私は物置小屋へ案内した。
「わふ!」
「ずいぶん片付いたねえ。……って、モップはずいぶん立派なところにいるじゃないか!」
マルタが感嘆の声をあげる。
物置小屋は、すっかり様変わりしていた。
要らない家具はできる限り解体し、廃材を組み直して大きな作業机を作った。がらくただらけだった物置は、今では小さいながらも居心地のいい小屋になっている。
壁際には私のベッドと、モップのベッド。
私のベッドは、もともとあったものを修理しただけだ。
でも、モップの寝床は大きな棚に枯葉を詰めたクッションを入れ、古い絨毯を切って飾りをつけたこだわりの品である。
ふかふかの寝床にふんぞり返るモップを横目に、マルタは作業机を撫でた。
「ここで何かするつもりかい?」
「はい。いずれここでピザを練って、焼こうと思って」
「ピザ? なんだい、それ」
「古い本で見かけたんですけど……高温の窯で焼く、素敵な食べ物なんですよ」
私はベッドの枕の下から、古びた小冊子を取り出した。
我が家から持って来た、数少ない品のひとつだ。
異世界から来た人が残したものだという話もあるけれど、本当かどうかはわからない。
ただ、私はこの本に描かれた絵が好きだった。
丸い生地の上に、色とりどりのソースと具材をばらまいたピザ。
夢のように愛らしくて、見るからに美味しそう。
まだ食べたことはないけれど、ここには、きっと幸せがあると思う。
マルタはぺらぺらと冊子をめくって言う。
「見た目は平べったいパンみたいだねえ。麦で作れるのかい?」
「生地はそうですね。でも、窯を作るのが大変みたいです。レンガか石がないと」
私は挿絵の隣に挟んだ紙を開いた。
そこには、自分で描いたピザ窯の設計図がある。
私はかつて、王妃教育の合間を縫って、先生をつかまえてはピザ窯の作り方を相談した。王宮では役に立たない知識だったけれど、いつか自分で窯を作りたかったのだ。
設計図を眺めていると、マルタが宿屋の方を顎で示した。
「ふーん。この感じなら、うちの余ったレンガでいけるかもね」
「えっ、本当ですか!?」
「ああ。宿屋にくっついてるほうの物置から、使えそうなものを選んで持っていきな。あたしもピザには興味があるからね。客が少ない日に、窯作りをやってみたらどうだい」
レンガがある。
窯を作っていい。
つまり、ピザを焼けるかもしれない!
「ぜひ! ぜひお願いします!」
私は設計図をぎゅっと抱きしめた。
水仕事で荒れた手は、以前の手とはまるで違う。
私はこの手で窯を作る。
そして、いつか、この小屋で、焼きたてのピザを食べるのだ。
◆
「それで、これは一体、どういうことなんですか?」
「あら、あなたは……えーっと」
「レオンです。エドワードさまのおつきの騎士の、レオン・ハーグリーヴス!」
大きな声で言われ、私はくすりと笑った。
今日は宿屋の休業日。村の知り合いたちが集まり、レンガやセメントの入ったバケツを運んでくれている。ついに、ピザ窯を作る日が来たのだ。
そこへちょうどよく旧知のレオンが訪れたので、私は彼にもレンガを渡した。
「覚えてるわよ、ど忘れしただけ」
「大丈夫ですか? 宮廷ではひとの名前を忘れるのは厳禁ですよ」
「そうだったわね。ここは宮廷じゃないから忘れていたわ」
ちょっと棘がある言い方になったかな、と思いながら、私は手元の図面をのぞき込む。
そこへ、村の肉屋さんから声がかかった。
「おーいサリー! このレンガ、ここだっけ?」
「ちょっと待ってね。星マークが書いてあるやつよね?」
「そうそう、星の三だ!」
「そこで大丈夫よ、設置して」
肉屋さんは嬉しそうにうなずき、レンガを私たちの物置小屋の外に置く。
モップは小屋から顔だけ出して、ふんふんと嬉しそうだ。
もちろん私もとっても嬉しい。
難しい顔なのは、レオンひとりだ。彼は忌々しそうに鼻を鳴らす。
「隣国に旅に出た部下に噂を聞いてきてみたんですが……酷いところですね」
「えっ。どこが?」
「ど田舎ですよ。店ひとつない」
「馬に乗っていけば、村があるわよ」
「馬に乗ってるんですか!? 馬車じゃなく?」
レオンはさっと青くなる。
私はびっくりして、彼を見上げた。
「あなただって乗るでしょう? 騎士なんだから」
「あなたは騎士じゃないでしょう」
「私はただの宿屋の娘。レオンはこれも運んで。星の四よ、肉屋さんのお隣に置いてね」
「これは一体何をなさっているんですか? 砦でも建設中?」
「私の夢を作っているの」
「…………」
そう言うと、レオンはレンガを運んでくれた。
けれどその後、また浮かない顔で私のところへやってくる。
「ロザリー殿」
「なあに? 私はまだ指揮をしなきゃ」
なんとなくレオンと話したくないな、と思って後ずさると、さっと手を握られた。
ぞわ、と肌が粟立つ。
「お労しい。こんなに手が荒れて」
「ええと?」
「殿下はまだ、ロザリー殿のことを誤解しています。宮廷に復帰するのは難しいかもしれない。ですが、わたしと小さなしあわせを掴むなら……ああ、もちろん正妻というわけにはいきません。ですがわたしにも、それなりの甲斐性はあります。二番目、三番目の妻ならば、可能性はあります」
――レオンは、なんの話をしているんだろう。
私は、ぼうっとして彼の話を聞いていた。
そこでモップが突然吠え、レオンの足元をぐるぐる回る。
「わふ!」
「こらこら、モップさん。危ないわよ」
抱き上げて眉間を撫でると、モップはまだ不満そうに唸っていた。毛に絡まった葉っぱを取ってやると、ようやく「わふん」と鳴く。
私がほっとすると、レオンが辛そうな声を出す。
「とにかく、ここでの生活を後悔したら、連絡してください。あなたを、助けに来ます」
そう言って、レオンは帰っていった。
私はモップを抱いたまま、その後ろ姿を見守る。
「助けに来るなら、もっと早く来たらよかったのに」
ぼそり、というと、腕の中のモップが私を見上げてきた。
「わふん……?」
「大丈夫よ、モップさん。私は充分幸せなの」
そうつぶやいて、私はモップを強く抱いた。
モップは大人しく抱かれていてくれて、やがて、私の顎をぺろりと舐めた。
◆
さて、それからほどなく、私の夢のピザ窯は完成した。
が、実際のピザ焼きはさっぱり上手くいかなかった。
「……上手くいきませんね」
「なんでだろうねえ」
親身になってくれるようになったマルタと、試作のピザを囲む。
シンプルなトマトソースのピザは、底が焦げているのに、上のほうは生焼け。焼き直したものは、今度は耳がパサパサになってしまった。
私はそれをかじりながら、小冊子をめくる。
「窯の設計は完璧なはずなんですけど……。もう一度、生地のほうを改良してみます」
「別にこれだって、まあまあのパンにはなってるんだけどねえ」
「もう少し、頑張らせてください。私の夢見るピザは、もっとこう、幸せの形って感じなんです」
マルタは深く頷いたものの、少し心配そうな顔をした。
「好きなだけおやり。でも、材料だなんだで、あんたの貯金もそろそろ……」
「大丈夫です。また稼げばいいので!」
私はにぱっと笑い、マルタにおやすみなさいを言った。
物置小屋でひとりになると、頭の隅にレオンの顔がちらついた。
――三番目の妻ならば。
今思い出しても、悲しくなる言い分だ。
でも、彼の三番目の妻になったら、庭でピザを焼かせてもらえるかもしれない。
私は、そのピザで幸せになれるだろうか……?
「わふ」
モップが私の膝に顎を載せてきた。私はその頭を撫でる。
「モップさんも心配してくれるの? 大丈夫、いつかきっと上手くいくわ」
「わふー……」
「……上手くいかなかったら、それはそれでいいじゃない? 三番目の妻っていう最終手段もあるし」
「うー! わふわふわふわふわふ!!」
「えっ、三番目は駄目? えっ、どこへ連れていくの、モップさん!」
モップは私のスカートを咥え、庭の隅へと引っ張っていった。
そこには、こんもりと土を盛り直した跡がある。
モップは猛然と土を掘り返し、泥団子のようなものを私の前に転がした。
「これは……ええっ!? ものすごい高級キノコじゃない!」
「わふ!!」
「これ、どこで見つけたの? この森?」
「わふわふ!!」
モップは得意げに走り回った。
きっと、森で掘り起こしたキノコを、わざわざ庭に埋めておいてくれたのだろう。
私は目の前がぱっと明るくなるのを感じた。
「すごい、お宝だわ! 絶対にこれをピザに載せたい……。ここから離れるなんてバカだわ、私。ここで、どうにかピザを完成させなきゃ!」
「よく言った!!」
突然、ものすごい美声で怒鳴られる。
私は目を丸くした。
いつの間にか、目の前に灰色の髪を肩まで垂らした、とんでもなく美しい男性が立っている。髪と同じ灰色の毛皮をあしらったケープを羽織り、水色の目をきらきらと輝かせていた。
「おぬしの気持ちが固まるのを待っていた! ここに骨を埋める気ならば、わたしもおぬしを助けることができる。この森と、そういう契約をしてしまっているからな」
「え、あ、その……どなたですか?」
どうにか尋ねると、灰色の美青年は髪をかき上げた。
「ああ? どう見てもモップだろうが」
「ど、どう見ても、高位の魔法使いさまに見えます!!」
自称モップの美青年は、かすかに笑った。
「なるほど、魔法使いの出で立ちを知っているとは。おまえは元は王族に近しい者だったのだな。ならば知らせよう。わたしの名はセドリック・オルフェウス」
「セドリック・オルフェウスさま……! 世界三大賢者のひとり!」
「今はモップでいい。現世はこりごりだ。それより!」
「は、はい!」
セドリックはずかずかと物置小屋を出て、ピザ窯に歩み寄った。
「おまえのピザとやらをとっとと食わせろ。なぜ窯ごときで手こずっておるのだ」
「申し訳ありません! 私が無知なばっかりに……」
「言い訳はいい、知識はわたしが補う。お前は自分の頭を使え」
セドリックは言い、窯の前にしゃがみこんで内側を指で叩く。
「サリー、ひとつ訊く。窯のこの形状には、どのような意味がある?」
ピザ窯のことなら、暗記するほど読んでいる。
私はセドリックの隣に座り、はきはきと答えた。
「ピザ窯は、火で直接食べ物を焼くためだけのものではありません。石に熱を蓄えさせ、その熱で焼くんです。下からは窯の床が生地を焼き、上からは天井に蓄えられた熱が具材と生地の表面を焼く。さらに、窯の中を巡る熱い空気が全体を包む。それで短時間にパリッと焼けるんです!」
「なるほど。悪いところがわかったぞ。おまえの窯は、熱の釣り合いが悪い」
「熱の釣り合い……そんなことがわかるんですか?」
驚く私に、セドリックはつんと顎を上げた。
「炎の精霊が見えるからな。おぬしの窯は床の一部ばかりが熱くなり、天井には十分な熱が蓄えられておらぬ。だから、場所によって焼け方が違うのだ」
「窯の作りの問題ですか」
薄々わかっていたことだけれど、はっきり言われると悩ましい。
床の石。丸く積み上げた天井。薪をくべる場所。煙の抜ける穴。
窯の形を確かめながら、私は考えた。
「……窯の形を変えるしかないのかも。それか、薪を置く場所を工夫する? 火そのものを動かして、窯全体を熱くするとか……。うーん、どれも難しそうですね」
「そうだな」
セドリックは隣で頷きながら、じっと待っていた。
急かさず、私が考えるのを待ってくれている。
それが嬉しくて、私はもう一度、窯を見上げた。
どうすれば、熱を均一に広げられるだろう。
「……服を着せる?」
「なんだと?」
「窯に、ティーコージーみたいに服を着せるんです! 温まったところの熱を閉じ込めれば、足りないところにも熱が回るんじゃないですか?」
「なるほど、そういうことか」
「やってみる価値はありますかね?」
「やめた方がいい」
きっぱり言われ、私はがくりとうなだれた。
「駄目ですか」
「この窯が一体何度になると思っておるのだ。服などすぐに焦げてしまう」
「ですよね。やっぱり、私には無謀だったかな」
私は膝を抱え、深いため息をついた。
せっかく作った窯が、いまいちなままになるかもしれない。
みんなに、美味しいピザを食べさせられないかもしれない。
その考えは、今の私にとってはかなりおそろしいものだった。
この窯は、私ひとりで作ったものではない。
ここで出会った大切な友人たちに手伝ってもらって、やっと完成したもの。
ここでの新生活の象徴のようなものだったから。
「だが、考え方はよい」
セドリックの言葉に、私はがばっと顔を上げた。
「本当ですか?」
セドリックはすっくと立ち上がり、衣装のポケットから、親指の先ほどの赤い卵を取り出した。それを窯の中に入れ、外側に手を置く。
水色の目がきらめき、灰色の髪が風もないのにふわりと揺れた。
「火の精霊よ。ここをおまえの住処と定める。火竜の山の溶岩のごとく、この窯の火がおまえの力だ。住まえ、抱えよ、太古に滅びし火竜の卵を孵せ」
歌うような言葉とともに、窯の内側で炎がぶわりと揺れた。
セドリックの入れた卵が燃え上がったように見え、数秒後、すっと消え去る。
「卵……消えた……?」
「精霊との契約がなされたのだ。これでよい」
セドリックは何事もなかったかのように手を引いた。
「これで、この窯は火竜の住む山と同じものになった。炎の精霊はここに住まい、火竜の卵を孵すため、全体を一定の温度に保とうとするだろう」
「すごい……!」
「ただし、何もないところから炎は生まれん。おまえが薪をくべ、炎の精霊を喜ばせ続けねば、逆に災いになることも……」
「すごい、すごい、すごい!! ありがとう、モップさん!」
私は感極まって叫び、セドリックに抱きついた。
セドリックは目をまん丸にしたあと、決まり悪そうに顔をしかめた。
「まだ説明が終わっておらんが……まあ、いいか」
「あの! 早速ピザを焼いてみてもいいですか!?」
彼の首にかじりついたまま尋ねると、セドリックはにやりと笑った。
「では、きちんと食べられるものを頼むぞ、サリー」
◆
それからは、お祭りだった。
「すごい……こりゃ、一体なんなんだい!?」
初めて完璧なシンプルピザを食べたマルタは、目を丸くして叫んだ。
「これが、ピザです!!」
「なるほど。もう一枚焼ける?」
「はい、すぐに!」
私は夢中で二枚目を焼き、マルタはそれを半分自分で食べ、残りを宿の客に振る舞った。
客たちも、すっかりピザに夢中になった。
「次は家族と一緒に来るよ! 夕食だけでもいいのかい?」
「ええと、それは……」
「いいよいいよ、ピザだけでも食べにおいで!」
マルタの許可を得て、宿屋はたちまちピザを出す料理屋のようになった。
やがて客が溢れてしまい、宿屋は新しい人を雇った。
私はピザ専門となり、物置小屋を本格的なピザ工房に改装した。宿屋の看板の隣には『森のピザ屋』の看板が吊り下げられ、客席は工房の前から森の中へと広がっていった。
「サリー、これは使えないかい? 肉によく合う香草だよ!」
「いいですね、やってみます!」
「こっちも載せてくれよ。鹿のソーセージだ!」
「美味しそう……! この香草と一緒に載せたらいいかもしれません!」
私は夜なべして、新しいピザを考えた。
ピザの小冊子には、私が描いた新しいピザの絵が次々と挟まれていく。工房には香草の束が干され、いつもいい匂いが漂っていた。
焼きたてのピザは、とにかく美味しい。
パリッとした生地から小麦の香りが広がり、たっぷり載せた熱々のチーズが、気持ちよく伸びていく。
私の店の名物ピザには、『森の散歩』という名前をつけた。
モップの見つけた高級キノコと、そこまで高級ではないけれど味の濃いキノコ。そこに、爽やかな香りの香草をたっぷり載せる。
ひと口食べれば、朝の森を散歩しているような気持ちになる。
つまり、とっても幸せな味だ。
そして、数ヶ月ののち。
「いらっしゃい、ようこそ森のピザ工房へ! ……って、あら」
木製の大皿に載せたピザを持って小屋を出ると、見知った顔があった。
なんとも言えない顔をしたレオンと、連れの騎士たちだ。
彼らは、森の中にまで広がった客席と、賑わうピザ屋を呆然と見渡している。
私が何か言おうとしたところに、お客から声がかかる。
「サリー、こっちこっち!」
「あっ、すみません。さあ、召し上がれ。実りの森のピザ、キノコマシマシです」
「うおお、美味そうっ!」
お客の前にピザを置き、私はレオンに向き直った。
レオンは少し躊躇ってから、やっと切り出す。
「元気そうで、何よりだ。その……同僚がここのピザ屋の評判を聞きつけて、どうしても食べてみたいと言うので来たんだが」
「そうだったんですね。あいにく満席なんですが、少し待っていただけます?」
「ああ。その。ロザリー」
「今は、サリーです」
「サリーか。きみは、なんというか……きれいになったな」
「はい?」
私は思わず首を傾げた。
私が綺麗になったわけがない。
日にも焼けたし、筋肉もついた。手は荒れているし、お化粧だってほとんどしていない。
今の私は、宮廷ではきっと笑いものだと思う。
レオンの言葉は、きっとお世辞だ。
でも、私はそれでいい。
私はにこっと笑った。
「そんなことを言っても、順番は順番ですから。待っていてくださいね」
「いや、違う、お世辞じゃないんだ。ロザリー、わたしは――」
レオンが追いすがろうとしたところへ、横からすっとセドリックが割り込んだ。
そして、手にしていたピザの一切れを、レオンの口に突っ込んだ。
「うちの店主につきまとうなど、このセドリック・オルフェウスが許さんぞ。腹が減っておるなら、わたしのおやつを分けてやる。それでも食って待っていろ」
「むぐぐ、もぐ、もぐ……わたしは、腹が減っているわけでは……いや、美味い……うまっ、なんだこれ、美味いっ……!!」
レオンは反論しようとしたものの、結局ピザの美味しさに負けた。
周囲の騎士たちも、うらやましそうに彼を見ている。
セドリックは、ふん、と鼻を鳴らして私の肩を抱いた。
「彼女のピザはこの世で一番の美食だ。いずれ世界も征服することができよう。貴様らのような凡人は、その美味さにひれ伏していればよいのだ」
「モップさん、言い過ぎですよ。お昼ご飯の時間が終わったら、甘いピザを焼いてあげますから、お客さんにもうちょっと優しくしてください」
「ちっ、仕方がない。……ところでサリー、甘いピザには何が載るのだ?」
「顔が近いです! 何を載せようかな~。モップさんがいい子でいたら、とびっきりのドライフルーツを載せるかも!」
「わたしはいつでもいい子だろうが!」
言い合っていると、周囲がどっと笑った。
レオンはそんな私たちを、しばらくぼうっと見ていた。
やがて席が空くと、彼は素直に腰を下ろし、ピザを注文する。
私は彼の前にも、焼きたてのピザを置いた。
騎士たちはすぐにピザを食べ始めたが、レオンは私を見上げ、何か言いたそうな顔をしている。
けれど私はもう、彼が何を言おうとしているのかを確かめる必要はなかった。
私はただ、笑って言う。
「どうぞ召し上がれ。これが、私の幸せです」




