第7章:秘書の忠告と迫る影
偽りの休日以来、紬は、一条蓮という存在を過剰に意識してしまっていた。社内で彼の姿を見かけるたびに、心臓が小さく跳ねる。朝、マンションのリビングで顔を合わせるだけで、緊張してうまく挨拶ができない。明らかに、浮き足立っていた。
そんな変化は、仕事にも微妙な影を落とし始めていた。集中力が散漫になり、普段ならあり得ないような、単純な計算ミスをしてしまう。もちろん、すぐに気づいて修正するのだが、そんな自分に紬自身が一番焦っていた。
そして、その小さな変化を、見逃さない人物がいた。
「白石さん、少々お時間をいただけますか」
ある日の昼休み、紬は蓮の秘書である高遠彰に、静かな声で呼び出された。場所は、社員食堂の喧騒から離れた、屋上庭園のベンチだった。
高遠は、いつも通りの感情の読めないポーカーフェイスで、しかし、有無を言わせぬ強い意志を込めて、単刀直入に切り込んできた。
「社長に、これ以上個人的な感情を抱くのはおやめください」
その言葉は、まるで冷たい水のように、紬の浮ついた心に浴びせられた。図星を突かれ、紬は何も言い返すことができない。
「誤解なさらないでいただきたい。私は、あなたを責めているわけではありません。ただ、事実を申し上げているだけです」
高遠は、静かに続けた。
「この計画が、どれほど危険な綱渡りか、あなたもご理解されているはずです。一条社長は、ご自身のキャリアと、一条家の看板、その全てを賭けて、この戦いに臨んでいらっしゃいます。あなたの些細な心の揺れが、計画全体を破綻させる引き金になりかねない」
彼の言葉は、刃物のように鋭く、的確に紬の核心を突いてきた。
「社長は、孤独です」と、高遠の声のトーンが、ほんの少しだけ和らいだ。「社長に就任されて以来、彼は常に四面楚歌の状態で戦ってこられました。会社を良くしたい、という一心で、たった一人で。あなたをこの計画に巻き込んだのは、彼の覚悟の表れです。どうか、その覚悟を無にしないでいただきたい」
高遠は、蓮に絶対の忠誠を誓っている。彼の言葉は、蓮を守るためのものであり、そして同時に、危険な計画に巻き込まれた紬を、これ以上深入りさせないための、彼なりの優しさなのかもしれなかった。
「……申し訳、ありませんでした」
紬は、深く頭を下げるしかなかった。「これは仕事だ」。高遠の忠告は、恋に浮かれかけていた自分への、何よりの戒めとなった。改めて、自分に強く言い聞かせた。
その矢先のことだった。黒田副社長が放った新たな刺客の影が、紬のすぐそばまで忍び寄っていた。
週末、紬が地元の商店街を歩いていると、見知らぬ男に声をかけられた。いかにもうさん臭い風貌の、目つきの悪い男だった。「白石紬さんですね? 少し、お話を…」
紬が警戒してその場を走り去ると、男はそれ以上追ってはこなかったが、背筋に冷たい汗が流れた。そしてその翌日、親友の亜美から、慌てた様子の電話がかかってきた。
『ねぇ、紬! 昨日、あんたのこと聞いてくる変な男に声かけられたんだけど! あんたの実家の定食屋の場所とか、色々しつこく聞いてきて…!』
その言葉に、紬は血の気が引くのを感じた。黒田副社長が、探偵を雇ったのだ。そして、その調査の手は、自分の身辺だけでなく、大切な友人や家族にまで及ぼうとしている。
自分の軽率な気持ちが、周りの人たちを危険に晒してしまうかもしれない。その事実に、紬は青ざめ、言いようのない恐怖を感じた。
蓮に、報告すべきだろうか。いや、できない。これ以上、彼に心配をかけたくない。それに、高遠さんに忠告されたばかりだ。私がしっかりしなければ。彼に迷惑はかけられない。これは、私が解決しなければならない問題だ。
紬は、一人でこの問題を抱え込むことを決意した。高遠の忠告を胸に、個人的な感情は全て封印し、完璧な「隠し子」という役に徹しよう、と。
しかし、その痛々しいまでの決意が、後に彼女自身を、そして蓮をも巻き込む、より大きな危機へと繋がっていくことを、この時の紬はまだ知らなかった。




