第6章:偽りの休日、本物の笑顔
週末の金曜日の夜。疲れ切って帰宅した紬を、リビングで待っていた蓮が、唐突にこう言った。
「明日、出かけるぞ」
「え?」
「周囲に『仲の良い親子』をアピールしておく必要がある。父親なら、娘と休日くらい過ごすだろう」
あくまでも業務の一環だ、と彼は強調した。しかし、その声はどこか弾んでいるように聞こえ、紬の心も、思わず小さく跳ねた。休日、二人で出かける。それは、契約上「デート」とは呼べないけれど、限りなくそれに近い響きを持っていた。
翌日、リビングに現れた蓮の姿を見て、紬は思わず息を呑んだ。いつもは寸分の隙もないスーツに身を包んでいる彼が、今日は上質なコットンのシャツに、細身のチノパンというラフな格好をしていた。髪も少しだけ無造作にセットされていて、社長という鎧を脱いだ彼の姿は、年齢相応の、それでいて抗いがたい魅力を放っていた。
行き先は、多くの家族連れやカップルで賑わう、郊外の大型ショッピングモールだった。車から降り、並んで歩き出す。周囲の喧騒の中で、二人の間にはまだ、ぎこちない空気が流れていた。
「何か、見たいものでもあるか?」
「いえ、特に……」
そんな会話を交わしながら、あてもなくモールの中を歩く。紬が、ふと足を止めたのは、可愛らしい雑貨が並ぶ店の前だった。手作り感のある、温かい風合いのマグカップが並んでいる。その中の一つ、素朴なハリネズミの絵が描かれたマグカップに、紬の目は釘付けになった。
「可愛い……」
無意識に漏れた呟きを、蓮は聞き逃さなかった。彼は紬の隣に立つと、そのマグカップを手に取り、「ふうん」と呟いた。そして、何でもないことのように、それを持ってレジへと向かう。
「え、あの、社長!?」
「たまには、父親らしいことをしないとな。プレゼントだ」
慌てて追いかける紬に、彼はぶっきらぼうにそう言って、会計を済ませてしまった。手渡された小さな紙袋が、じんわりと温かい。
その後、二人はゲームセンターに足を踏み入れた。蓮が「あれは、どうやるんだ」と指差したのは、クレーンゲームだった。紬がルールを説明すると、彼は「簡単そうだな」と自信満々に千円札を両替し、ぬいぐるみが詰め込まれた機械の前に仁王立ちした。
しかし、彼の自信は、開始数十秒で脆くも崩れ去った。アームは、彼の意図とは全く違う場所へ向かい、ぬいぐるみを掴むことなく空を切る。
「くそっ、なぜだ…」
普段のクールな姿からは想像もつかないほど、彼はムキになっていた。眉間に皺を寄せ、悔しそうに唸る姿は、まるで少年のようだ。何度も挑戦するが、結果は惨敗。そのあまりの必死さに、紬は思わずくすくすと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
拗ねたようにこちらを睨む蓮に、紬は「いえ、すみません」と笑いを堪えながら首を振る。その時だった。二人の間に、初めて自然で、温かい笑いが生まれたのは。
結局、ぬいぐるみは取れなかったが、二人の間の氷は、すっかり溶けていた。
「ほら、こっちへ来い」
人混みの中、蓮が不意に紬の手を引いた。そして、「親子に見えるように、だ」と呟きながら、紬の頭をポン、と優しく撫でた。大きな、少しごつごつした彼の手の感触。その不意打ちのスキンシップに、紬の心臓は、警報が鳴り響くかのように激しく高鳴った。顔が熱い。きっと、耳まで真っ赤になっているに違いない。
映画館で、子供向けのヒーローが登場するアクション映画を観た。ポップコーンを頬張りながら、スクリーンに夢中になっている蓮の横顔は、大企業の社長ではなく、ただの映画好きな青年に見えた。
帰り道、夕日に染まる街を走り抜ける車の中で、紬は静かに彼の横顔を見つめていた。クールで、孤高で、手の届かない存在だと思っていた人。でも、本当は、悔しがったり、笑ったり、子供みたいに夢中になったりする、普通の人間なんだ。
この偽りの関係に、ほんの少しの心地よさを感じ始めている自分に気づき、紬は戸惑う。これは、仕事だ。そう何度も言い聞かせているのに、胸の奥で芽生えた温かい感情は、消えてくれそうになかった。
マンションに帰り着き、自室でそっと紙袋を開ける。ハリネズミのマグカップが、コロンと顔を出した。これは、契約の一部だ。父親らしい振る舞いの、一環だ。
そう、頭では分かっている。なのに、このマグカップを見るたびに、今日一日の出来事と、彼の不器用な優しさが思い出されて、胸に温かいものがじわじわと広がっていくのを、紬はもう止めることができなかった。




