第5章:最初の牙と小さな盾
「社長の隠し子」――その衝撃的な噂は、燎原の火のごとく社内を駆け巡った。紬が経理部の自席に戻ると、そこは以前とは全く違う空気が流れていた。遠巻きにひそひそと囁かれる声、あからさまな好奇の視線、そして、媚びるような作り笑い。平穏だった彼女の職場は、一夜にして居心地の悪い場所へと一変した。
特に、黒田副社長の派閥に属する社員からの風当たりは、日に日に強くなっていった。それは、あからさまな罵倒や暴力ではない。もっと陰湿で、じわじわと心を削るような嫌がらせだった。
回覧すべき資料が、紬のデスクだけ飛ばされる。会議に必要なデータをお願いしても、「今忙しいから」と後回しにされ、結局間に合わなくなる。共有フォルダに入っていたはずの重要なファイルが、いつの間にか消えている。そして、わざと間違った情報を教えられ、紬がミスをすると、待っていましたとばかりに上司に報告される。
紬は、懸命に耐えた。これは、自分が選んだ道だ。このくらい、覚悟の上だったはずだ。しかし、悪意の雨は、休むことなく降り注ぎ、彼女の心を少しずつ、確実にすり減らしていった。同期の亜美だけが唯一の味方だったが、彼女がいない場所では、紬は完全に孤立していた。
そんなある日の朝、マンションを出て会社へ向かおうとする紬を、蓮が呼び止めた。珍しく、出勤のタイミングが重なったのだ。
「顔色が悪いぞ」
低い声で指摘され、紬はどきりとする。必死に隠しているつもりだったが、この人の前では何一つ隠せないのかもしれない。
「何かあったのか。会社で」
「……いえ、何も」
反射的にそう答えてしまう。彼に心配をかけてはいけない。これは、自分の問題だ。そう思った。しかし、蓮は紬の嘘を見抜いていた。彼は、紬の前に立つと、その目を真っ直ぐに見据えた。
「報告しろと言ったはずだ。君は、自分の今の立場を理解しているのか? 君への攻撃は、俺への攻撃と同じことだ。君は、俺が守る。だから、一人で抱え込むな」
その力強い言葉と、真剣な眼差しに、紬の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。守ってくれる。その一言が、どれほど心強いか。紬は、こくりと頷き、ぽつりぽつりと、社内で受けている嫌がらせについて話し始めた。蓮は、ただ黙って、静かに聞いていた。しかし、その表情は次第に険しくなり、瞳の奥には冷たい怒りの炎が燃えているのが分かった。
彼の言葉に勇気づけられ、その日の紬は、少しだけ前向きな気持ちで仕事に臨むことができた。
だが、敵の攻撃は、さらにエスカレートしていた。その日、紬は月末の役員会議で使う、非常に重要な財務資料の最終チェックを任されていた。何度も確認し、完璧な状態に仕上げ、印刷してファイリングする。しかし、会議の直前になって、そのファイルがデスクから忽然と姿を消したのだ。
血の気が引いた。顔が真っ青になる。バックアップデータは自分のPCに入っているが、今から印刷していては、会議の時間には到底間に合わない。これは、明らかに誰かの仕業だ。絶体絶命のピンチに、紬は唇を噛みしめ、涙が滲むのを必死に堪えた。自分のせいで、社長に、会社に、迷惑をかけてしまう。
「白石さん、どうしたの?」
声をかけてきたのは、同じ経理部の先輩社員、田中さんだった。彼女は、いつも中立の立場で、紬のことを遠巻きに見ているだけの人だった。
「……資料が、なくなってしまって」
震える声で答える紬に、周囲から「ほら見ろ」と言わんばかりの冷たい視線が注がれる。黒田派閥の社員が、口元に意地の悪い笑みを浮かべているのが見えた。
万事休す。そう思った、その時だった。
「あら、大変。もしかして、これのことかしら?」
田中さんはそう言うと、自分のデスクの引き出しから、一冊のファイルをすっと取り出した。それは、紬が作ったものと全く同じ、役員会議用の財務資料だった。
「念のために、私もバックアップを取っておいたのよ。あなたの仕事ぶりを見てたら、万が一ってこともあるかと思ってね」
そう言って、彼女はにっこりと微笑んだ。「早く、会議室に持っていきなさい」と。
紬は、呆然としていた。なぜ。今まで、日和見を決め込んでいたはずの先輩が、なぜ自分を。
「社長の隠し子だからって、特別扱いされるのは気に入らないわ。でもね」と、田中さんは紬の耳元で囁いた。「あなたが、その立場にあぐらをかかずに、真面目に仕事に取り組んでることは、みんな知ってる。だから、仕事で手は抜かないでしょ、あなたは」
その言葉に、紬の目から、堪えていた涙が一筋、流れ落ちた。自分は、一人ではなかった。自分の仕事ぶりを、見ていてくれる人がいた。差し伸べられた手に、紬は何度も頭を下げた。ありがとうございます、と。
この偽りの役割を、もう少しだけ、頑張ってみよう。紬は、決意を新たにした。
その夜、帰宅した紬から一部始終の報告を受けた蓮は、静かに拳を握りしめていた。
「黒田……やり方が汚いな」
その声は、地の底から響くように低く、冷たい怒りに満ちていた。彼は窓の外の夜景を睨みつけながら、紬を守るため、そして、卑劣な敵に報復するための、次の一手を考え始めていた。彼の瞳は、獲物を狩る前の獣のように、鋭く光っていた。




