第3章:嵐のお披露目パーティー
契約書にサインをしてから、数日が過ぎた。紬の日常は、表面的には何も変わらない。相変わらず経理部で数字と向き合い、同僚たちと当たり障りのない会話を交わす。しかし、その水面下では、とてつもない計画が着々と進行していた。
そして、運命の日がやってきた。会社の創立記念パーティー。毎年、ホテルのボールルームを貸し切って盛大に開催される、社内の一大イベントだ。今年は、新社長である一条蓮のお披露目の場も兼ねており、例年以上の注目を集めていた。
その華やかな舞台こそ、蓮が「隠し子」である紬の存在を公表する、Xデーだった。
パーティー当日の午後、紬は高遠秘書に言われるがまま、会社の近くにある高級ホテルのスイートルームに連れてこられた。部屋には、すでに数人の男女が待ち構えていた。
「彼女が白石紬さんだ。あとは頼む」
高遠のその一言を合図に、魔法が始まった。プロのヘアメイクアップアーティストとスタイリストと名乗る彼らは、紬を椅子に座らせると、手際よくその姿を変えていく。肌は艶やかに、髪は優雅なアップスタイルに。普段は縁のない、繊細なメイクが施されていく。鏡に映る自分は、まるで知らない誰かのようだった。
そして、用意されたのは、月光をそのまま布地に織り込んだような、上品な光沢を放つシルバーグレイのロングドレス。シンプルながらも、計算され尽くしたドレープが美しい、超高級ブランドのものだと、紬にも分かった。
「わ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。ドレスに身を包み、用意されたパールのネックレスとイヤリングを身に着けると、鏡の中には、普段の地味なOLの面影はどこにもなかった。まるで、魔法にかかったシンデレラだ。
しかし、その心は、高揚感よりも不安で押しつぶされそうだった。こんなに美しく着飾っても、中身はただの白石紬なのだ。これから自分が足を踏み入れる世界と、演じなければならない役割の重さに、息が詰まりそうだった。
準備が整った頃、部屋の扉が開き、蓮が姿を現した。寸分の隙もない完璧なタキシード姿の彼は、いつにも増して圧倒的なオーラを放っている。彼は、美しく変身した紬の姿を認めると、一瞬だけ目を見張り、そしてすぐにいつものポーカーフェイスに戻った。
「時間だ。行こう」
促されるまま、彼と共に会場へと向かう。パーティー会場へと続く専用エレベーターの中で、蓮がふと口を開いた。
「緊張しているか?」
「……し、てない、と言ったら嘘になります」
「そうだろうな。だが、心配はいらない。君はただ、俺の隣で微笑んでいればいい」
そう言って、彼はリハーサルだ、と前置きをしてから、紬の肩をそっと抱き寄せた。「父親らしい振る舞い」の予行演習。分かっているのに、彼の体温と、ほのかに香る上質なコロンの香りに、心臓が大きく跳ねた。
パーティー会場の扉が開かれると、眩い光と人々の熱気が二人を包み込んだ。豪華なシャンデリアが輝き、業界の有力者や華やかに着飾った社員たちで埋め尽くされている。その中心を、まるでモーゼの十戒のように人を分けながら、蓮は紬をエスコートして進んでいく。注がれる視線、ひそひそと交わされる囁き。誰もが、社長の隣にいる見慣れない美しい女性が誰なのかと、探るような目を向けていた。紬は、自分が動物園のパンダにでもなったような気分だった。蓮の腕にしがみついているのが精一杯で、笑顔を作る余裕なんて、どこにもなかった。
しばらくして、会場の照明が落ち、スポットライトがステージを照らした。蓮のスピーチの時間だ。彼は、これまでの会社の歩みを労い、未来への展望を力強く語った。その堂々とした姿は、カリスマ性に満ち溢れている。社員たちは皆、彼の言葉に静かに聞き入っていた。そして、スピーチの最後に、その爆弾は投下された。
「そして本日、皆様にご紹介したい人物がおります。私の、娘です」
会場が、水を打ったように静まりかえる。誰もが、自分の耳を疑った。
「紬、こちらへ」
蓮に名前を呼ばれ、促されるままにステージへと上がる。全ての視線が、自分一人に集中する。その静寂の後、まるでダムが決壊したかのように、大きなどよめきが会場全体に広がった。
「娘……!?」「隠し子ってことか!?」「いつの間に…」
様々な声が飛び交う中、紬は一点だけ、突き刺すように鋭い視線を感じていた。黒田副社長だ。彼は、取り巻きの役員たちに囲まれながら、驚愕と、そして隠しようもない敵意に満ちた目で、壇上の二人を睨みつけていた。その目は、まるで獲物を見つけた蛇のようだった。
こうして、白石紬の偽りのシンデレラストーリーは、嵐のような幕開けを迎えた。
パーティーの終盤、なんとか役目を終えて壁際に寄りかかっていた紬の元に、案の定、黒田副社長が近づいてきた。
「これはこれは、お嬢様。一条社長に、このようなお隠しになっていたご令嬢がいらっしゃったとは、存じ上げませんでしたな」
ねっとりとした、探るような声。威圧するようなその態度に、紬は身を縮こませる。どう答えればいいのか分からず、言葉に詰まっていると、すっと蓮が間に割って入った。
「副社長。私の娘に、何か?」
その声は静かだったが、絶対零度の冷たさを帯びていた。蓮は紬の肩を優しく抱き寄せ、完全に自分の庇護下に置く。その毅然とした態度に、黒田は一瞬たじろぎ、「いえいえ、ご挨拶を、と思いまして」と作り笑いを浮かべて去っていった。
遠くでは、同期で親友の亜美が、信じられないという顔でこちらを見て、口をパクパクさせている。後で、嵐のような質問攻めに遭うことは間違いない。
全てが終わり、疲労困憊で控室に戻った紬に、蓮が高価なシャンパンではなく、ペットボトルの水を差し出した。
「よくやった。今日の君は、誰よりも綺麗だった」
不意にかけられた、優しい言葉。それは、社長としてでも、偽りの父親としてでもない、素の彼から発せられたような気がした。驚いて顔を上げると、そこには、ほんの少しだけ口元を緩ませた、柔らかい表情の蓮がいた。初めて見る彼のそんな顔に、紬の心臓が、トクン、と小さく跳ねた。嵐のような一日の中で、その瞬間だけが、やけに鮮やかな記憶として心に刻み込まれた。




