第2章:嘘つきたちの契約書
「…………はい?」
紬の口から、間抜けな声が漏れた。今、この人は、何と言っただろうか。「娘に、なってほしい」。日本語として理解はできる。単語も分かる。しかし、その意味するところが、紬の処理能力を遥かに超えていた。
もしかして、これは手の込んだ解雇予告なのだろうか。「君は今日から我が社の社員ではなく、赤の他人の娘だ」みたいな。そんな突飛なことを考えるくらい、紬の思考は完全に停止していた。
「……あの、私が、社長の……む、娘、ですか?」
恐る恐る聞き返すと、蓮は初めて、ほんのわずかに表情を動かした。それは呆れとも感心ともつかない、奇妙なものだった。
「言葉通りの意味だ。もちろん、本当の親子になるわけじゃない。世間に対して、君が『俺の隠し子』だということにしてほしい」
「か、隠し子!?」
今度は、はっきりと悲鳴に近い声が出た。混乱の極みにいる紬を置き去りにして、蓮は冷静に言葉を続ける。彼の声は、この非現実的な状況において、唯一の確かなもののように響いた。
「知っての通り、俺は若くしてこの会社の社長に就任した。だが、創業者一族とはいえ傍流の俺には、社内での地盤がまだない。特に、黒田副社長を中心とした保守派閥は、俺のやることなすこと全てに反対し、失脚の機会を虎視眈々と狙っている」
彼はデスクから立ち上がり、窓辺へと歩を進めた。ガラスに映る彼の姿は、まるで孤高の王のようだ。
「彼らを黙らせ、俺が自由に動ける時間を稼ぎたい。そのためには、強力なカードが必要だ。そこで考えた。突然現れた、後継者候補になりうる『隠し子』というスキャンダル。これは、古狸どもを牽制する格好の材料になる」
あまりに壮大で、現実離れした計画。紬はただ、唖然として話を聞くことしかできない。
「なぜ……私、なのでしょうか。もっと、その…適任の方がいるのでは…」
そう、それが一番の疑問だった。なぜ、数いる社員の中から、地味で目立たない自分が。すると、蓮はこちらを振り返り、真っ直ぐに紬の目を見据えた。
「君が、社内で最も平凡で、目立たない存在だからだ。そして、秘書に調べさせた限り、身辺は驚くほどクリーン。派手な交友関係もなく、SNSもやっていない。敵が調べても、ボロが出にくい。この計画において、君のその『普通』は、最大のメリットになる」
平凡で、地味。いつもなら少しだけ胸が痛むその言葉が、今は最大の賛辞だと言われている。皮肉なものだ。
「それに…」と蓮は言葉を続けた。「何より、君の瞳の奥には、嘘をつけない誠実さがある。そういう人間がつく嘘は、かえって真実味を帯びるものだ」
瞳。彼の黒い瞳が、自分の心の奥底まで見抜こうとしているようで、紬は思わず視線を逸らした。この人には、何もかもお見通しなのかもしれない。
「……で、ですが、そんな大役、私にはとても務まりません! 無理です、絶対に!」
必死に首を横に振る。こんな馬鹿げた計画の片棒を担ぐなんて、考えただけで胃が痛くなる。
しかし、蓮は紬の拒絶を予測していたかのように、動揺ひとつ見せなかった。彼はデスクに戻ると、一通の封筒を紬の前に滑らせた。
「これは、業務命令だ」
冷たく言い放つ声に、有無を言わせぬ圧力がこもる。社長と社員。その絶対的な力関係を、紬は改めて思い知らされた。
「もちろん、君に一方的にリスクを負わせるつもりはない。封筒の中を見てくれ」
震える手で封筒を開けると、中から現れたのは『業務委託契約書』と記された書類だった。そして、その目に飛び込んできた成功報酬の欄に記載された金額に、紬は息を呑んだ。ゼロの数が、おかしい。自分の年収の、何倍にもなる金額だった。
その数字を見た瞬間、紬の脳裏に、ある光景が蘇った。実家で営む小さな定食屋。年季の入った厨房。そして、店の改築費用をどうしようかと、ため息をついていた両親の背中。必死に働いても、なかなか貯まらない弟の大学の学費。自分がお金に困っていること、まとまったお金を必要としていること。それも、この社長は知っているのだろうか。
「どうやら、君にも事情があるようだ。この計画が成功すれば、君の悩みは全て解決するだろう。もちろん、守秘義務は絶対だ。計画が完了すれば、君は元の平凡な日常に戻っていい。誰も君を責めたりはしない。俺が、そうさせない」
悪魔の囁きだった。平凡な日常を壊す、甘く危険な誘惑。拒否したい。こんな恐ろしいこと、関わりたくない。けれど、提示された金額は、紬の置かれた状況にとって、あまりにも魅力的すぎた。
「……もし、私が断ったら?」
「その時は、君に不利益がいくようなことはしない。だが、この計画は誰か別の人間に実行させるまでだ」
彼の言葉は、冷静で、事実だけを告げていた。
紬は、契約書と蓮の顔を、何度も見比べた。契約書の条項には、『互いのプライベートに干渉しないこと』『恋愛感情を持たないこと』といった、いかにもビジネスライクな文言が並んでいる。これは、仕事なのだ。期間限定の、特殊な業務。そう自分に言い聞かせようとするが、心臓は警鐘を鳴らし続けていた。
蓮は、ただ黙って紬の決断を待っている。
沈黙が、重くのしかかる。家族の顔が、次々と浮かんで消えた。あの金額があれば、みんなを楽にしてあげられる。弟は、学費の心配なく勉強に集中できる。両親は、古くなった店を新しくできる。私の少しの我慢で、みんなが笑顔になる。
紬は、ゆっくりと息を吸い込み、そして、吐き出した。
「……やります」
その声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。
蓮は小さく頷くと、デスクの上に置かれていた万年筆を、紬の方へと差し出した。
「賢明な判断だ」
促されるまま、紬はその重たい万年筆を手に取った。契約書の末尾にある署名欄。そこに、自分の名前を書き記す。インクが紙に染み込んでいくのを見ながら、紬はこれがただの契約ではないことを、本能で感じていた。これは、二人の運命をがんじがらめに縛り付ける、重たい鎖になるのかもしれない。
「白石紬」という自分の名前が、まるで知らない誰かの名前のように見えた。




