第16章:社長の孤独と私の居場所
自分の両親という、最初の関門を無事にクリアした二人。次なる壁は、言うまでもなく、蓮の家族だった。
ある週末、蓮は「父に、君を紹介したい」と、真剣な顔で紬に告げた。紬の心臓は、緊張で大きく跳ね上がった。一条家の当主であり、『Claire』の現会長でもある、蓮の父親。蓮から聞く限り、非常に厳格で、古風な考えを持つ人物だという。
連れて行かれたのは、都内の一等地にある、まるで時代劇に出てくる武家屋敷のような、壮大な日本家屋だった。高い塀に囲まれ、手入れの行き届いた庭園を持つその屋敷は、紬が今まで足を踏み入れたことのない、別世界そのものだった。
通された広間で、紬は、蓮の父親である一条正臣会長と、初めて対面した。正臣は、齢七十に近いというのに、背筋がすっと伸び、その鋭い眼光は、少しも衰えを知らない。蓮と同じ、怜悧な顔立ちをしているが、そこには、温かさのかけらも感じられなかった。
彼は、紬が差し出した手土産には目もくれず、値踏みするような視線で、紬の頭のてっぺんから爪先までを、じろりと一瞥した。
そして、開口一番、冷たく言い放った。
「君が、息子の相手かね」
その声には、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。
「事前に、調べさせてもらった。ごく平凡な家庭に生まれ、ごく平凡な教育を受け、ごく平凡な社員として働いてきた。間違いないかな?」
「……はい」
「率直に言わせてもらう。一条家の嫁として、君は、相応しくない」
冷たく、突き放すような言葉。それは、紬の心を、容赦なく抉った。分かっていたことだ。身分違いだということは、自分が一番、理解していた。それでも、実際にこうして面と向かって言われると、全身の血が逆流するような、惨めな気持ちになった。紬は、深く傷つき、ただ俯くことしかできなかった。
その時だった。黙って話を聞いていた蓮が、隣で俯く紬の手を、テーブルの下で、強く、強く握りしめた。
そして、彼は、今まで一度も逆らったことのないという父親に向かって、毅然とした、静かな、しかし、燃えるような怒りを込めた声で、言い放った。
「父さん。俺が選んだのは、この人です」
「蓮! お前、何を…」
「俺が選んだのは、一条家のためだけの道具になるような女性ではありません。俺の人生を、共に歩んでくれる、たった一人のパートナーです。この人の価値は、家柄や経歴などで測れるものではありません」
蓮は、すっと立ち上がると、父親を真っ直ぐに見据えた。
「もし、父さんが、彼女を認められないと言うのであれば、俺は、この家を出る覚悟です。会社も、会長の座も、全てを捨てても構わない」
その言葉に、紬も、そして、正臣会長も、息を呑んだ。
幼い頃に母親を亡くし、それ以来、常に「一条家の跡継ぎ」として、厳しく育てられてきた蓮。彼は、父親の期待に応えることだけを考えて、孤独に生きてきた。そんな彼が、生まれて初めて見せた、父親への反抗。そして、家や地位、全てを捨ててでも、自分を守ろうとしてくれる、その強い意志。
紬の目から、涙が溢れた。嬉しくて、そして、彼が背負ってきたものの重さを思って、胸が張り裂けそうだった。
私は、この人の、心の拠り所になりたい。彼が、唯一、心から安らげる「居場所」に、なりたい。
いや、違う。もう、なっているのかもしれない。
この人の孤独を、半分、私が背負っていこう。そう、紬は、強く、強く決意した。
帰り道、車の中で落ち込んでいる紬を、蓮が優しく抱き寄せた。
「すまない。辛い思いをさせたな」
「ううん、大丈夫。私、嬉しかった。蓮さんが、私のために、戦ってくれて」
紬は、彼の胸に顔をうずめながら、言った。
「君さえいれば、俺は、どこでも、どんな場所でも、生きていける」
試練は、二人の絆を、以前よりもさらに、固く、強く結びつけていた。




