第13章:本当の気持ち
数日後、全ての後処理に、ようやく一つの区切りがついたのだろう。その夜、蓮はまだ日付が変わる前に、マンションへと帰ってきた。
リビングのソファで、彼の帰りを待っていた紬。久しぶりに、ゆっくりと顔を合わせた二人。しかし、互いに何を話していいのか分からず、ぎこちなく、重たい沈黙が流れた。
あの嵐のような役員会議以来、二人の関係は、名前のない、宙ぶらりんの状態になっていた。
先にその沈黙を破ったのは、紬だった。彼女は、この数日間、ずっと考えていた決意を、震える声で、しかし、はっきりと口にした。
「あの、社長。今まで、本当にありがとうございました」
紬は、ソファから立ち上がると、蓮に向かって深く、深く頭を下げた。
「私、会社を辞めようと思います」
その言葉に、蓮の眉がぴくりと動いた。
「自分のついた嘘で、会社に、社長に、多大なご迷惑をおかけしました。それに…」紬は言葉を続けた。「もう、私には、あなたの側にいる資格は、ありませんから」
それは、自分自身に言い聞かせるような、悲しい響きを持った言葉だった。彼の負担にはなりたくない。彼の輝かしい未来の、足かせにはなりたくない。その一心からの、苦渋の決断だった。
それを聞いた蓮は、しばらく何も言わずに、ただ紬を見つめていた。そして、その顔に、今まで見たこともないほど、悲しげな色を浮かべると、静かに首を横に振った。
「辞める必要は、ない」
彼は、ゆっくりと紬に歩み寄ると、その両肩を、優しく、しかし、逃がさないというように、強く掴んだ。
「役員会議で言ったこと、あれが、嘘やその場しのぎの方便に聞こえたか?」
「……」
「全て、本心だ」
真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳から、紬は視線を逸らすことができなかった。
「初めて君に会った時、驚いたんだ。社内の不穏な空気の中で、君だけが、まるで違う世界にいるように、誠実に、自分の仕事と向き合っていた。その姿が、なぜか、ずっと頭から離れなかった」
彼の、不器用な告白が始まった。
「隠し子計画に君を選んだのは、もちろん、身辺がクリーンだったという理由もある。だが、本当は、ただ、俺の側にいてほしかった。どんな形でもいいから、君という存在を、近くに感じていたかったんだ」
「……え?」
「偽りの親子を演じるうちに、その想いは、日に日に大きくなっていった。君が作るスープが、世界で一番美味しいと思った。君が俺のために怒ってくれるのが、嬉しかった。君が笑うと、俺の世界が明るくなった。いつの間にか、君は、俺にとってかけがえのない存在になっていたんだ」
彼の言葉の一つひとつが、紬の心に、温かく染み込んでいく。
「雨の夜、君がひったくりに遭ったと知った時、俺は、生きた心地がしなかった。君を失うかもしれないと思ったら、会社のことも、黒田のことも、どうでもよくなった。その時、はっきりと分かったんだ。君はもう、俺の計画のための駒じゃない。俺が守るべき弱点でもない。君は、俺が、この先の人生を、共に生きていくために必要な、力なんだ」
彼は、紬の肩を掴んでいた手を、そっと離すと、一歩下がり、彼女の目の前で、深く、深く頭を下げた。
「白石紬さん。俺と、結婚を前提に、お付き合いしてください」
それは、あまりに真摯で、あまりに誠実な、申し込みだった。
偽りの親子関係が終わった今、彼は、本当の関係を始めたいと、そう言っている。
紬の目から、涙が、とめどなく溢れ落ちた。悲しみの涙ではない。喜びと、安堵と、そして、彼への愛しさで、胸が張り裂けそうだった。
「……はい」
涙でかすむ声で、紬は、やっとの思いで、そう頷いた。
「喜んで……!」
その言葉を聞いた蓮は、安堵の息を漏らすと、愛おしそうに紬を抱きしめた。偽りの契約書から始まった二人の物語は、今、この瞬間、本当の愛の物語として、その第一歩を踏み出したのだった。




