第9話 カニの王、深海ヤドカリ帝国と対峙す
海は暗かった。
光は届かず、ただ冷たく、重い。
潮の流れすら止まったかのように、沈黙が広がっている。
(……ここが、深海か)
悠はゆっくりと脚を動かす。
そのたびに、砂ではなく“泥”が舞い上がる。
どこかから“カチ、カチ”と不気味な音が返ってきた。
《警告:未知の生体反応 多数接近中》
(来たな……)
暗闇の向こう、赤い光がいくつも灯る。
それは瞳ではなかった。
ハサミの反射だった。
ズズズ……ズズズ……。
巨大な影がいくつも、泥をかき分けて現れる。
ヤドカリだった。
鋭く伸びた鋏、節くれ立った脚、
全身を覆う殻は、まるで岩のように黒い。
その中央に王がいた。
他よりも二倍はある巨体。
その甲殻は赤黒く光り、両の鋏は歪んだ刀のように反っていた。
(あれが、“ヤドカリ帝”か……)
ヤドカリたちは声を上げない。
ただ、ゆっくりと前に進む。
群れが動くたび、深海の水がうねりをあげた。
(言葉なんか通じねぇ。だが通じなくても分かる)
悠はハサミを鳴らした。
ガチン!
静寂を切り裂く音。
ヤドカリ帝が止まる。
その目が、悠を見据えた。
一瞬の沈黙。
深海の重圧が、互いの甲殻を軋ませる。
(……これが、王の“気配”か)
《スキル《王威》発動》
水が震えた。
悠の体から、見えない圧が広がっていく。
周囲のカニたちが後退し、一部のヤドカリはその場で動きを止めた。
だがヤドカリ帝は、微動だにしない。
ゴゴゴゴ……ッ。
底の泥が盛り上がり、帝の脚がゆっくりと動いた。
巨大な鋏が、悠に向けて構えられる。
(やる気満々か……上等だ)
ガチンッ!
悠も構えを取る。
互いに言葉はない。
ただ、一瞬で世界が爆ぜた。
ドンッ!
海底が割れ、衝撃波が走る。
ハサミとハサミがぶつかり、
その音が深海を震わせた。
ズガァァァァァン――!
岩が砕け、泥が吹き飛ぶ。
悠は一歩も引かない。
だが、ヤドカリ帝の腕力は圧倒的だった。
(こいつ……力で押し潰す気か!)
《スキル《甲殻強化・改》発動》
悠の体が光り、殻が硬化する。
圧力を受け止め、そのまま鋏をねじり込む。
ギギギ……ギチィッ!
ヤドカリ帝の右鋏が弾け飛んだ。
だが帝は怯まない。
残った左鋏で、悠の脚を掴み。
叩きつけた。
ドゴォンッ!
岩が粉々に砕け、砂が舞う。
悠の視界が一瞬、白く弾ける。
(やるな……本気だ)
帝は低く身構え、体を傾ける。
その動きが“礼”のように見えた。
(……今のは、試し合いか?)
ヤドカリ帝は一度、鋏を鳴らした。
悠も、それに応えるように。
カチ!
音を返す。
その瞬間、周囲のヤドカリが動きを止めた。
海が、静まる。
《戦闘中止》
《同盟交渉の兆候》
(……戦うだけが王じゃねぇ。もしかしたら、これが初めての“平和”かもしれない)
悠はゆっくりとハサミを下げた。
ヤドカリ帝も同じ動きを見せる。
二人の王が、深海で互いを認め合った。
その上空、光の粒が静かに降り注ぐ。
まるで、神が祝福するように。
(……悪くない。少しは、楽できそうだ)




