第二話 夢幻の森で、現実を識る
月は天高く昇り、森は一層の静寂に包まれている。識は呆然とへたり込んだまま、リリアが倒した巨獣を見つめていた。リリアは識の視線に気づいているのかいないのか、巨獣の傍で屈み込むと、躊躇なく巨獣の右眼に刺さった奇妙なモノを引き抜く。それは、木製の矢だった。矢羽根の代わりに小さな葉が取り付けられ、鏃には返しのない菱形のものが取り付けられている。材質は、石だろうか? リリアは続けて額に突き刺さった矢も抜き取る。その動きは滑らかで、一切の躊躇がない。識が驚きのあまり声も上げずに息を呑んで見守る中、リリアは巨獣の眉間にある黒い皮膚の一部を、器用に腰にぶら下げていた短剣を使って剥がし始めた。すると、そこから淡く輝く透明な結晶が姿を現した。
「ふぅ。魔力結晶は無事みたいね。ほら、ちゃんと取れたわ」
リリアは満面の笑みで、掌に乗せたその結晶を識に見せた。それは、まるで紫紺の宝石のように、しかしどこか生物的な輝きを放っている。折角見せてもらっても、識にはそれが一体何なのか皆目見当もつかないのだが。
「これは……何ですか?」
識が恐る恐る尋ねると、リリアは不思議そうに首を傾げた。
「あら、知らないの? これは魔力結晶よ。魔物が持っている、凝縮された魔力が形を持ったもの。この子はそこそこ大きかったから、良い魔力結晶が採れたわね」
魔力結晶。識は、その言葉にファンタジーの世界が現実になったことを改めて思い知らされ、背筋がゾクリとした。
「魔力……ということは、さっきの矢も?」
識が、リリアが放った矢の軌道や威力、そして魔物を仕留めた光景を思い出しながら尋ねる。リリアは得意げに頷いた。
「ええ、そうよ。私が魔力を込めたら、ただの木の矢でもああやって飛ぶし、頑丈な魔物の骨だって貫くこともできるの。魔力があれば、いろんなことができるわ。矢の軌道を操ったり、威力を増したりだけじゃなくて、軟らかいものを硬くしたり、火を起こしたりもできるのよ」
識の脳裏に、現代科学ではありえない現象の数々が浮かび上がった。物理法則を無視した矢の軌道。一瞬で生物を仕留める圧倒的な威力。それはまさに、識が小説やアニメで見てきた超常現象そのものだった。しかし、それを操る魔力という概念は、識にとって全く未知の領域だ。
「魔力について、何も知らないのね……あなた、どこの人間なの?」
リリアは、首を傾げながら識の身なりを改めて見た。識が着ているのは、まさしく部屋着のスウェットとTシャツだ。
「その格好も変わっているし、家名があるのに共も連れていない。貴族には見えないわ。それに、魔族領のこんな森の奥まで、人間の貴族が一人で来ることなんてありえないし……」
識は、自分が「人間族」であること、そしてリリアたちが「魔族」であることを再認識した。識は戸惑いながらも、自分の知る「世界」について話し始めた。地球、日本、科学、文明、そして自分が住んでいた家や家族のこと……。互いの言葉が問題なく通じていることに一縷の希望を託し、出来る限り色々なことを話した。
しかし、リリアの反応は、識の期待を裏切るものだった。
「ごめんなさい、シキ。力になれなくて悪いけど、私には何も分からないわ。そんな国も場所も、聞いたことがないもの。あ、でも言葉は通じて助かったわね」
リリアは困ったように眉を下げながら、識を気遣うように薄く笑みを浮かべる。識は、その言葉に胸を締め付けられるような絶望感を覚えた。
(やっぱり……そうか。ここは、俺がいた世界じゃない。完全に、別の世界に来てしまったんだ……)
「あの、リリアさん。俺が元いた世界に、帰る方法って……」
望み薄なのは理解していたが、識は最後の望みをかけるように尋ねた。リリアは申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめんなさい。そんな話は聞いたことがないわ。別の世界へ行くなんて、おとぎ話ですら聞いたことがないもの」
識は、目の前が真っ暗になるのを感じた。帰る方法は、ない。ここは、見知らぬ異世界。たった一人、この世界で生きていかなければならないというのか。
「でも、長老様なら、もしかしたら何か知っているかもしれないわ。私よりずっと物知りだから」
リリアの言葉に、識の胸に一縷の希望が灯った。ダークエルフの長老。この世界には、まだ自分が知らない知識を持つ者がいるかもしれない。
「わ、分かりました。でも……その、俺みたいな怪しい人間を、どうして助けてくれたんですか? なんで、見ず知らずの俺を村まで連れて行ってくれるんですか?」
識は、素朴な疑問を口にした。通常であれば警戒され、敵視されてもおかしくないはずだ。
リリアは少しだけ考え込む素振りを見せると、透き通るような瞳で識を見つめ、まっすぐに答えた。
「だって、助けられたから。目の前で困っている人がいて、助けられるのに助けなかったら、それはもう私の罪でしょう?」
識は、その言葉に言葉を失った。私利私欲も、打算もない。ただ純粋な優しさが、その言葉の全てだった。
他愛もない会話を交わしながら歩くこと数十分。森の木々がまばらになり始め、やがて視界が開けた。そこに現れたのは、高くそびえる木の壁に囲まれた、小さな集落だった。木々と同じ色の壁は、森の中に溶け込むように建ち、見張りの者が目を光らせていた。
「着いたわ、ここが私たちの村よ。さあ、中に入りましょう」
リリアに促され、識は村の門をくぐる。木々が織りなす壁の内側には、苔むした木の家々が並び、淡い光を放つ石――魔石と呼ばれる石らしい――が道を照らしていた。夜にもかかわらず、村人たちが焚き火を囲んで談笑している姿が見える。皆、リリアと同じく浅黒い肌に白銀の髪を持つダークエルフだった。彼らは識を見て一瞬警戒の目を向けたが、リリアが隣にいることに気づくと、すぐに表情を和らげた。
リリアは識を連れて、村の中心にある一際大きな木造の家へと向かった。そこが長老の家らしい。
「長老様、リリアです。ただいま戻りました」
リリアが声をかけると、中から重厚な声が響いた。
「おお、リリア。無事に戻ったか。――む?」
奥から現れたのは、リリアと同じ白銀の髪を持つ、いかにも威厳のある壮年のダークエルフだった。彼もまた、識を一瞥すると眉をひそめた。その視線には、警戒と品定めのような感情が入り混じっているように感じられる。
「リリア。その人間は?」
長老の問いに、リリアが識を庇うように一歩前に出た。
「森で魔物に襲われていたところを助けました。シキと言います。行くところもないようですし、このまま放っておくわけにはいかないと思って……」
リリアの言葉に、長老は小さく息を吐く。そして、識へと真っ直ぐな視線を向けた。
「そうか。リリアが助けたからには、ここですぐに村を追い出すわけにもいくまい。だが、人間をこの村に置くには、それ相応の理由が必要なのだ。我々魔族と人間族は、元より敵対関係にある。お前のような者を受け入れるとなれば、村の中には反対する者も多くいるだろう。リリアの立場も危うくするかもしれん」
長老の言葉に、識は再び絶望を覚えた。帰る場所もない異世界で、受け入れてくれる場所すらもないのか。
「今日のところは、リリアの家で泊まることを許そう。だが、もしこの村の一員となりたければ、それに足るだけの利を示せ。それができぬのなら、お前は明日にでも村を出ていくしかあるまい。助けたリリアには悪いがな」
識は、長老の言葉に息を飲んだ。自分に一体、何ができるというのか。金もなく、リリアのような戦闘能力もない。食料もなければ、この世界の常識も知らない。
自分に残されたもの。それは、現代日本と機械の知識だけだ。
識は、じっと長老の目を見返した。この世界で生きていくためには、今この場で、自分の全てを差し出すしかない。
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