第十一話 繋がれた指、揺れる心
「――ねぇ、シキ。シキは……やっぱり元の世界へ帰りたいの?」
識にとっては余りに刺激的だった時間を終え、二人はいつものように床について向かい合っていた。リリアの問いかけは、識の胸に深く、そして重く響いた。先ほどまでの狂宴とも呼べる雰囲気が嘘のように、部屋には落ち着いた空気が漂っている。
二人の距離は昨晩よりも幾分か遠い。しかし、互いに向ける眼差しに籠もった熱は、昨晩とは比べ物にならないほどの純粋な熱が込められていた。識の視線は、まだわずかに上気したリリアの頬を捉え、その金色の瞳の奥に宿る複雑な感情を読み取ろうと努める。
「それは……まぁ。親も、心配してると思うし……」
識は歯切れ悪く応える。異世界に来てからの数日間は、あまりにも濃密で、元の世界のことを考える余裕すら十分には与えてもらえなかった。しかし、家族のことは常に識の心の片隅に引っかかっている。もしかしたらこの世界と元の世界とで時間の流れが違う、なんてこともあるのかもしれないが、それは識には確かめる術がない。ただ、両親がどれほど自分を心配しているだろうかと想像すると、胸が締め付けられる思いだった。
識の指に、そっとリリアの指が絡められる。柔らかな指先が、識の感情の揺れを優しく包み込むように。
「……そうよね。シキにはシキの、家族がいるのよね」
そう呟くリリアの金色の瞳は、水面に揺れる月のようだ。静かで、それでいてその奥には計り知れない深慮があるように感じられる。それは物分りの良い大人を演じているような、どこか虚実の入り混じった複雑な感情を宿しているように、識には見えた。寂しさ、理解、そして微かな諦めのようなものが、彼女の表情を覆っている。識は、普段の明るく奔放なリリアからは想像もつかない、そんな繊細な感情に触れて、どうしようもない焦燥感に駆られた。
「リリアさん。俺は、その……」
識はいつも明るいリリアにそんな表情をさせたくなくて、どうにかしなければ、何か言わなければと慌てて口を開く。しかし、気休めのような言葉を吐いたところで、リリアの元気は戻りはしないだろう。その場しのぎの言葉は、きっと彼女を更に傷つけるだけだ。結局識は言葉に詰まってしまった。この感情をどう表現すればいいのか、的確な言葉が見つからない。
「リリア、でいいわ。シキ」
優しくシキの手を撫でながら、リリアが子供に諭すような口調で言った。その声には、先ほどの寂しさはもう含まれていない。どこか、いたずらっぽい響きすら感じられた。
「私ね、今年で120歳くらいなんだ。それでもこの村じゃ一番若いんだけどね」
ほら、みんな私のことすぐ子供扱いするでしょう? とくすくすと笑うリリアに、識はどうして突然そんなことを言い出したのか戸惑いを隠せない。ダークエルフが長命であるとは聞いていたので、その年齢に驚きつつも納得ではあるのだが……今ここで話す意図が掴めない。
「私がシキくらいの頃は、まだまだ本当に子供でね? シキみたいに、みんなに頼りにされたり、尊敬されるような子じゃなかったわ」
「え……そうなんですか?」
識は今とは違う過去のリリアの話に、一生懸命耳を傾ける。リリアはきっと、今とても大切な話をしようとしてくれているのだという直感が、識に芽生えた。彼女の優しげに細められた瞳の奥には、遠い過去の記憶が映し出されているようだった。
「そうなの。防衛隊に入ることを許されたのも、最近のことなのよ? ――って言っても、20年くらい前だから、シキが生まれる前からやってるんだけどね」
リリアは、識の手を撫でている手と反対の手で、識の頭を優しく撫でる。その手つきは、まるで愛しい弟を慈しむ姉のようだった。
「……あなたはとても立派よ。私達のために、毎日自分が出来ることを精一杯やってくれて、それを驕ることもしない。村の一員として、当たり前のように振る舞ってくれているわ。それは、とても……とても凄いことなのよ?」
それは、称賛の言葉だ。識が元の世界にいた頃から心のどこかで常に欲していた、肯定の言葉。誰からも認められることのなかった、自分の「底辺機械オタク」と揶揄されてきた知識が、この世界では誰かの役に立ち、感謝されている。その事実が、識の心を温かく満たしていく。
リリアは懸命に言葉を選びながらも、ここが識の居場所であると伝えようとしてくれていた。彼女の優しさが、識の心を強く締め付ける。
(リリアさんは、『大人』なんだ……)
識も本当はリリアが何を言いたいのか、もうわかっていた。
ここにいて欲しい、元の世界になんて帰らないで欲しい、と。
そう言葉にしてしまえば識を困らせてしまうのがわかっているから、リリアは決してそれを言葉にしないのだ。彼女は今も、識の気持ちを第一に尊重しようとしてくれている。
それは、リリアにとって識は守るべき『子供』だと考えている事に他ならなかった。そして同時に、識の選択を尊重し、彼の幸せを願う『大人』の愛情でもあった。識は、そんなリリアの深い愛に、二人の間にある埋めることの出来ない大きな差に、絶望にも近い思いを抱いてしまう。
「――でも」
そこで、リリアは頭を撫でていた方の手で、そっと識の頬を撫でる。その指先が、識の肌に触れるたびに、識の心に甘い痺れが走っていく。
「もう……離したくなくなっちゃった」
ドキリ。と、心臓が酷く大きな音を立てたような気がした。識の鼓動は、リリアの指先の温かさに呼応するように加速する。先ほどまでの、大人として自分を案じるリリアの表情はそこにはなく、まるで一途な少女のような、切ないほどの熱情が識の目には映っていた。
「私ね、シキ。あなたの事を助けてすぐの頃は、弟ができたみたいに思ってたの」
それは頷ける話だ。リリアは識を初日から自らの家に招き、背中を拭わせ、共に寝るように申し付けた。固辞するシキに構わず、何でもないことのように振る舞う様は、異性というよりも弟や、何ならペットに近い扱いだったようにも思う。識もまた、彼女のそうした態度に安心し、甘えていた部分があった。
「だけど、あなたが風車を直してくれたり、今度は井戸を掘ってくれるってなったりしてるうちに、そうじゃないんだって分かった」
リリアの指が、識の指に絡められる。二人の指が、まるで意思を持つかのように絡み合い、互いの体温を伝え合う。
「あなたはもう、立派な『大人の男性』なんだなって。そう思ったの」
「えっ……と、リリアさん?」
「――リリア」
短くぴしゃりと訂正される。その顔は少し不満気で、子供が甘えているかのような、リリアの表情としては初めて見る表情だった。その可愛らしい表情に、識の戸惑いはさらに増していく。
「う、うん。……リリア」
「えっへへ。なぁに、シキ?」
(は? 可愛いかよ……!?)
照れながらも満足気に答えるリリアに、識の脳が揺さぶられる。心の中でツッコミを入れながらも、識の頬は熱を帯び、顔が緩んでいくのを自覚する。この無邪気な笑顔を見ていると、それまでの葛藤や不安が、まるで霞のように晴れていく気がするのだ。
「それって、つまりその…」
「うん、そう。今日であなたの『お姉さん』はもうおしまい。だから、私ももっとワガママ言ってもいいわよね?」
にしし、と。悪戯っ子のような笑顔でリリアが笑う。その笑顔は、識の心を鷲掴みにする。彼女の「ワガママ」が何を意味するのか、識には痛いほど理解できた。そして、そのワガママを許したいと願う自分がいることにも気づかされる。
「それに……私にあそこまでしておいて、シキは一人で元の世界に帰るつもりなの?」
「え!? いや、それは……全くもっておっしゃる通りで……」
こうなってしまっては、もう識はリリアの掌の上で転がされるより他にない。
確かにそうなのだ。識にとっての故郷が元の世界にあることには変わりがない。
両親も心配しているかもしれない。
それも事実だ。
だが、たった数日間とは言え識は己にとっての新たな故郷とも言うべき場所を手に入れてしまっていた。それは単なる物理的な場所ではない。自分を頼ってくれる人々、信頼してくれる仲間、そして愛情を注いでくれるリリアがいる、心の拠り所だ。
魔法というチートはあったにせよ、行動し、結果を得たのは識自身の努力によるものだ。
この数日間で得た経験は、元の世界での人生と比較しても何ら遜色がない。むしろ、それ以上に充実した、生きている実感に満ちた日々だった。
そしてリリアという大切な女性を得た今となっては、識自身もそれを捨ててでも元の世界に帰りたいかと言われれば、即答はできなくなっていた。彼女の存在が、識の人生に新たな意味を与えてくれていたのだ。
「私、シキのためならなんでもするわ。シキを守るためなら、命だって懸けられる」
「リリア……」
リリアは、強い。大胆で、奔放で、自分の気持ちに嘘をつかない。そして識が想像していた以上に、深く愛してくれている。
リリアが、ぎゅっと抱き締めてくれる。識の体を包み込むその腕は、戦士としての強さだけでなく、温かな愛情に満ちていた。温かな、しかし昨晩までとは全く違う早さの鼓動が識の胸に伝わってきた。それはリリアの、識に対する真剣な想いの表れだ。
「私を置いて、どこにもいかないでね」
耳元で囁くように告げられたその言葉は酷く熱っぽく、識の心に焼き付けられる。その言葉は識の心の奥深くに根を張り、もう二度と離れないと強く誓う、甘い痛みを伴う茨の鎖のように識を縛りつけたのだった。
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