From me to you
おかしなことに、人生において初恋というものはいつだったか特定しずらい。若い頃は新しく好きになる人を今度こそ本当の初恋だ、と思ったり、年老いた人は自分の今までの人生の中で一番奇麗な思い出を初恋としたり、好きな人や場所や時が変わればいつだって初恋だ、と思ったり…。きちんと記憶を整理すれば確定できないこともないのだろうが、人にはその人なりの初恋という定義があることは間違いないのだろう。そして当時中学校二年生の僕も何度目かの都合のいい初恋を迎えていた。
相手は同じクラスのいつも明るい活発な才女だった。名前をMと言い、外見もかわいかったし、器量もよく、学年の男子達はいつも彼女のことを話の種にしていた。最初は別にどうとも思っていなかったが、僕もそんな噂に刷り込まれて、いつしか彼女のことを気に掛けるようになっていた。
ある日席替えが行われ、僕は彼女の隣の席になった(席替えと言えばクラスの一大行事である。僕は席替えが楽しみだった)。
「あ、よろしくね」
彼女は屈託無く話し掛けてきた。
「う、うん」
僕は周りの男達の視線を気にしないように、またカッコつけるために、あるいは緊張と気恥ずかしさから、始めはクールに装っていて彼女と上手く話すことができなかった。それに心の中で、他の男子達みたいに自分は騙されないぞ、と素直になれずに意地を張っていたのだ。
「××君、黒板消しといたから。次の授業は代わりにやってね」
「わかったー」
しかし授業を通しての共同作業や日直の仕事、相向かいでの給食など、二人で同じ時間を共有するうちに打ち解け、僕は彼女の笑顔に引き込まれるようになっていった。確かに男子が注目するだけあって素敵な女の子だった。
「ねえねえ、昨日のあのドラマ観た?」
「観たよ。あれ面白いねー」
「でしょ。私あれすごく好きなんだよね。原作のマンガも全部持ってるんだー」
そんな風にMと楽しく会話をすると、彼女は僕のことを好きなんじゃないかという錯覚にさえ陥り、ますます気になってしまった。僕はこんなに学校が楽しく感じたことはなかった。永遠にこの時間が続けばいいのにとさえ感じた。
僕から見て、かなり彼女と仲良くなれてきたと思った頃、残念なことにまた席替えをすることになってしまった。くじ引きの結果、彼女とは離れた席に移動することになり、サヨナラの言葉もなく僕等は机を移動したのだった。僕は新しく彼女の隣の席になった男に嫉妬を覚え、ヤツが彼女と楽しくお喋りをしようものなら怒りさえ込み上げてくるのだった。
席が離れてしまうと彼女とは殆ど話す機会もなくなり、いつも遠くから彼女を眺めているだけだった。隣の芝は青く見えたのか、無い物ねだりかは定かでないが、僕の心の中に彼女への独占欲が日に日に高まっていくのだけは確かだった。授業中も彼女が気掛かりで横目でちらちら盗み見をし、部活帰りは彼女を一目見たさにひたすら待ち惚け、果ては毎晩のように夢の中でも彼女が出てきた。彼女を想う度に、得も言われぬ苦しさが胸に詰まり、溜息を吐かずにはいられなかった。そして僕は、これはきっと初恋だ、と悟るのであった。
それから長い休みと幾つかの学年行事が過ぎ、何度目かの席替えで再度Mと同じ席に着くことが出来た。
「あ、また同じだね」
僕は有頂天になった嬉しさを顔に出さないように抑えて言った。
「あれ、そうだっけ?」
しかし、彼女が何処かしら以前と比べて冷めているように感じた。
それからの一緒に過ごす時間も彼女は言葉少なで、僕は戸惑ってしまった。ただ実際は、彼女が変わったのではなく、長い時間が二人の仲を溶けさせ、僕等の関係が振り出しに戻ったというだけだった。全ては僕が勝手にMとの時間を止め、思い込みをしていただけだったのである。それに、また同じように時間を共有していくと、僕等は前にも増して仲良くなれた気がしたのだった。加えて彼女はどんな男にも同じように打ち解けてしまうから、僕も彼女の魅力に惑わされていたのだった。
それでもMが好きだった。好きで仕方がなかった。ノートにMの名前を目一杯書いた。部屋で一人で居ると涙が出た。勉強も部活もどうでもよくなった。好きだという感情をどこにぶつけていいのか分からずにいた。そして僕はその気持ちを発散するために誰かに相談したくなった。話してしまえば楽になると思った。
相談相手は同じクラスのSという男だった。彼とはなぜか波長が合い、それ程深い間柄という訳でもなかったのだが、真面目な話の出来る数少ない友達の一人だった。
「やっぱりその気持ちはMに伝えるべきだと思うよ。もうすぐ三年に上がって、クラス替えになってしまったら、彼女に言うチャンスはないよ」
「でも、もし振られて、また同じクラスになったらどうしよう」
「その時は仕方ないよ。振られたらどっちにしたって気まずくなるわけだし。何もせずに後悔するよりも、行動して後悔するべきだよ」
「ああ、そうだな!」
Sの大人な発言に僕はすっかり感化されてしまい、僕はMにこの気持ちを伝えることにしたのだった。しかし、直接口に出して伝えるのは緊張して出来ないし、Mの友達に頼むというのも情けない。
「手紙ならいいんじゃないか?」
「手紙?」
「手紙の方が誠意を感じられるし、二人で推敲して出せばきっとMに好印象を与えられるぜ」
そんなわけで僕はSの力を借りてせっせと手紙を書き上げた。さすがに、席が隣の時に告白するのはどうか、という話になり、次の席替えで彼女と別れるまでは、手紙は保管された。
席替えが終わり、僕は彼女と離れた。悲しかったが、これでキリはつきそうだった。
僕等は木曜日の放課後、Sと一緒に誰もいない教室に忍び込んだ。木曜日を選んだのは、この手紙をMが金曜日の朝受け取り、土、日の休みの間に考えさせるためだった。そうすれば月曜日には返事が来ると思ったのである。
僕は彼女の机の中に手紙を押し込んだ。
「これで大丈夫だな」
「ああ返事が楽しみだぜ」
もし僕と付き合ってくれるのなら返事を下さい、という旨を手紙に記していた。
その夜は昂奮して寝付けなかった。頭に浮かぶのは彼女と過ごした楽しい日々だった。これが僕だけのものになればと強く願った。
月曜日、僕は逃げ出したい緊張を隠し、いつも通りに学校へ行き、いつも通りの顔をして席に着いた。Mはまだ来てはいなかったが、万一を考え、机の中を探った。しかし、そこには教科書・ノートにくしゃくしゃの授業のプリントしか入っていなかった。
体育授業からの帰りやお昼休みの後など、僕は机から離れる度に机の中を探したが、中はカラのままだった。次の日になっても、一週間待っても机はカラのままだった。いや、待つというのは表現として間違っているかもしれない。つまり僕は振られたということだった。
それからはMの姿は気まずくて見ることが出来ず、極力彼女から遠ざかるようにしていた。しかし彼女はいつも僕の方を見ていた。僕の被害妄想かもしれないが、Mは僕を哀れみをもって眺めていたのだろう。
悲惨なことに、進級してクラス替えが行われると、Mと同じクラスになってしまった。相変わらず僕は気まずさを感じていて、肩身の狭い心持ちがした。それに彼女を見る度に自分が振られたという敗北感に嘖まれ、辛かった。大好きだった席替えはサスペンスに変わった。それでも、一年間彼女とは同じ席にならなかったことだけが唯一の救いであった。
僕とMの関係はそのまま卒業という形で終わった。彼女は女子校に進学し、僕はかわいいコが多いという共学校に進学した。
高校生活が始まったが、僕は中学校とは違う規律・生活になかなか馴れなかった。それに僕が願っていたように女の子の友達も思うように作れなかった。
そんなある日、溜息混じりの学校帰りの時だった。
「おい、久し振りじゃん」
それはSだった。Sとはあの後、Mに振られたということを報告し、慰めてもらっていたが、クラス替えで別々のクラスになると疎遠になっていた。
「どう?高校は」
「うん…、うまくいかなくてさ。あの頃は楽しかったなあ」
Sも僕と同様、新しい環境で苦戦しているらしかった。
「Sなら頭もいいんだし、すぐかわいい彼女出来るよ」
僕がそう慰めると、
「お前程女の子の扱いが上手くないからな」
と笑われてしまった。
「そうそう、覚えてるかMのこと」
「そりゃ、忘れもしないよ。あの時はおれのためにいろいろ相談に乗ってくれて助かったし、ありがとな」
「うん…」
「でもやっとMと同じ空気を吸わないでいられると思うと嬉しいよ」
僕は笑って強がった。
「なあ、そのことなんだけどさ、お前にずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
急にSは声を強め、下を向いた。
「あの時、二人で手紙を書いたじゃないか」
「ああ、書いたねー。放課後残って、よく書いたよなあんなもん」
Sは黙った後、一呼吸置いて発した。
「あれ、届いてないんだ」
「えっ、」
僕は意味が分からずに、Sの言った言葉を理解しようとしていると、Sは続けた。
「おれ、悔しかったんだよ。お前がいつもMと一緒に楽しそうに喋ってるの見るとさ。一晩考えたんだ。それで、おれ次の日に朝一で学校に行って手紙抜いたんだよ、Mの机から」
僕はそれが信じられず、暫く会話にならない感嘆詞を連呼した。
「本当に悪かった。おれずっとそれ後悔してて、時が経つにつれて余計に苦しくなって。本当にすまないことをしてしまったと今だに思ってるんだ。許してくれ」
僕は怒りと同時に、酷くSに幻滅していた。
「どうしてそんなことしたんだよ」
「オレは恐かったんだよ。Mが他のヤツにとられるのが」
「それじゃあ、お前も」
「…ああ、そうだよ、おれもさ。本当に、本当にすまなかったと思ってる」
「そうか」
僕は諦めたような顔をしたが、心の中では人生の汚点が無くなったことに多少安堵もしていた。どうせあの時Mを振り向かせることは出来なかっただろう。そうとでも割り切らなければ、おかしくなってしまいそうだった。
それからされに何年か経ち、初恋という気恥ずかしい単語も忘れた大学二年のこと。地元で成人式などという忌まわしき行事が行われることになった。始めは出ようか出まいか、尻込みしていたが、親の「人生に一度きりなんだから出たら」という助言に後押しされ出席することになった。
式の日が近づくにつれて、遠くの記憶からMの顔が浮かんできた。彼女に久し振りに会いたいと思った。
当日、会場に行くと、次から次へと懐かしい顔に出会い、彼らを掻き分けながらもMの顔を探した。中学校当時仲の良かった女の子達と談笑している中に彼女はいた。化粧をしてピンクの羽織袴を身に付けたMは、大人っぽい表情の中にも、僕が好きだった当時の面影を宿していた。
しかし、彼女には昔のように惹かれなかった。
彼女は彼女のままだし、僕は僕のままだった。ただ、変わったのは僕等を取り巻く環境だった。大人になった僕達が人を選ぶ基準に、ファッションや職業やセックスや会話のセンスや学歴や友達の多さや同じ趣味や境遇、自分への妥協を考慮して、といったいろんな選考過程が生まれ、さらには中学校という狭いフィールドから抜けたからだった。僕等はあの頃とは違って、単純に中学校の中から性格や顔だけで人を選ぶ環境にいなくなっていたのだ。だから、何も変わっていない彼女に魅力を感じなくなっていたのだ。
聞くに堪えない来賓の挨拶や面倒臭いやりとりが終わり、地域別の集団写真撮影も終わると談話コーナーに移った。先生達と話をしていたMと目が合った。
「あれ?××くん?えー、久し振りー、変わったねー。今何してるの?」
それでも話してみると僕達はあの頃の隣の席のような感覚で話し合うことが出来た。僕等はやっぱり仲が良かったんだと今更になって確信した。
その後は学年合同で飲み会が行われることになった。貸し切りの居酒屋で大勢の人達が酔っぱらって騒ぐ中、僕とMは二人っきりになって話すことができた。
「ねえ、今付き合っている人とかいるの?」
Mの私服は割りと地味な格好だった。顔色は白い肌が少し赤らんでいた。
「いや、いないよ。ずっと暇してるんだよね」
「あ、そうなんだ。私もいないんだよねー」
そうやってMと談笑すると、つい昨日まで中学生だったような感傷に襲われた。僕はそれがとても切なくなって苦しくなるから、現実を無理に引き戻そうとして、彼女にあのことを伝えようかと考えた。でも、どうしても言えなかった。
「私ね、ずっと伝えたかったことがあるの」
「なに?」
「あたしの初恋の人だったんだよ」
「…え、」
ビートルズの「From me to you」は曲の終止符がマイナーコードで締め括られる。陽気なメジャーキーで始まった曲なのにどこか腑に落ちない、物憂いラストである。
多くの初恋はマイナーコードで締め括られる。
(完)