第21話 花恋
しずくは、いつものようにゆうくんの家でくつろいでいた。
窓の外では、柔らかい風が木々を揺らし、午後の静けさが心地よい。
ゆうくんと二人だけの、穏やかな時間──。
そのはずだった。
「こんにちはー! ゆうくんいるかなー? 久しぶりに会いに来れたよー。」
突然、明るく弾んだ声が玄関先に響いた。
しずくはピクリと肩を揺らし、ゆうくんの方を見た。
(……誰?)
知らない女の人の声。
少なくとも、しずくの記憶の中にはない響きだった。
ほどなくして、玄関のドアが開き、その人物が姿を現した。
──少し、大人びた女性だった。
ゆうくんの家に馴染む気軽さで、彼女は自然に室内へと足を踏み入れる。
長い黒髪が揺れ、柔らかく光を反射した。
腰まで届くストレートの髪は、前髪が斜めにカットされ、左目にかかっている。
淡い茶色の瞳は、光が当たると琥珀色に輝き、目の奥にどこか優雅な強さを秘めていた。
透き通るような白い肌。
白いブラウスに紺色のスカートという上品な服装。
アクセサリーは控えめで、シンプルなピアスとネックレスがさりげなく輝いている。
ふわりと香るのは、フリージアの柔らかな匂い。
スラリとした長い手足に、しなやかな動き。
そのプロポーションと堂々とした雰囲気は、まるでモデルか女優のように洗練されていた。
一瞬、しずくは息を呑んだ。
(……誰?)
ゆうくんに、こんな大人びた女性の知り合いがいたなんて──。
しずくは、ゆうくんの周囲にいる女の子はある程度把握しているつもりだった。
けれど、この女性については全く知らない。
驚きと、言い知れない不安が胸をざわつかせた。
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「もしかして……花恋?」
ゆうくんが、少し驚いたように言った。
「久しぶりだね。……3年ぶりぐらいかな? なんか見違えたね。ものすごくきれいになった。」
「正解!」
女性──花恋は、嬉しそうに微笑んだ。
「3年ぶりなのによくわかったね。私、そんなに変わったかな?」
軽く髪を指先で梳く仕草も、どこか優雅だ。
「ま、否定しないけどね。……ほんと、男の子や女の子から告白されまくってて、困っちゃうくらい。」
さらりと衝撃的なことを言いながら、花恋は微笑んだ。
自信に満ちたその笑みは、どこか人を惹きつけるものがある。
「昨日、海外留学が終わって戻ってきたの。だから、すぐに会いに来ちゃった。」
ちらりとしずくに目を向けたが、特に何も言わず、すぐにゆうくんに視線を戻した。
しずくはその様子に、なんとも言えない違和感を覚えた。
(……私のことは、気にならない? それとも、わざと無視してる?)
考えすぎかもしれない。けれど、どこか意図的なものを感じた。
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「そうなんだ。プロのピアニストになるために頑張ったんだよね。」
ゆうくんの問いかけに、花恋は誇らしげに微笑んだ。
「もちろん、ピアニストになれたわよ。しばらくは日本に住むつもりだから、また、ゆうくんのところにもちょくちょく来たいなって思ってるの。」
彼女の瞳は輝き、その表情はどこか嬉しそうだった。
「はは、おめでとう。よかったね。夢を諦めなくて。」
ゆうくんは、心から祝福するように微笑む。
──その笑顔に、しずくの胸がざわついた。
(……何、この感じ。)
花恋は、嬉しそうに頷いた。
「うん。……ゆうくんのおかげだよ。」
その言葉に、しずくの心臓がひとつ、大きく跳ねた。
花恋は、名前を強調するように、柔らかく言った。
どこか特別な響きが、その声に込められていた。
それを聞いたゆうくんは、ただ微笑むだけだったが──
しずくは、胸の奥で小さな不安が膨らんでいくのを感じた。
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「ごめんね、いきなり来て、ゆうくんと話し込んじゃって。」
花恋が、ようやくしずくに視線を向けた。
その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
けれど、どこか探るような雰囲気があって──しずくは、微かに息を詰めた。
「いえ、お構いなく。」
そう返しながらも、内心はまったく穏やかではなかった。
(……ゆうくんと花恋さん、こんなに親しかったんだ。)
「彼女は、幼馴染のしずくだよ。」
ゆうくんが、さりげなくしずくを紹介する。
「ちっちゃい頃から、一緒にいることが多いんだ。」
花恋は改めてしずくを見つめ、ふっと微笑んだ。
「……ああ、あなたがしずくちゃんね。」
その声は、まるで何かを確かめるような響きを持っていた。
「たまにゆうくんと話してると、名前が出てたから気になってたの。」
さらりと言われた言葉に、しずくの肩がわずかにこわばる。
(……私のこと、ゆうくんと話してた?)
花恋は、しずくに向かって手を差し出した。
「私は花恋よ。花に恋って書くの。19歳だから、年上のお姉さんになっちゃうね。」
上品で、どこか優雅な微笑み。
しずくは、その手を取るべきか一瞬迷ったが──
「はじめまして、しずくです。花恋さん。」
できる限り、礼儀正しく答えた。
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花恋は、ふっと目を細める。
「ゆうくんにはね、昔、私が落ち込んでた時に励まされたことがあって、その頃の付き合いなの。」
何気ない風に言うその言葉。
だが、その次の一言に、しずくの心臓が止まりそうになった。
「海外留学に行くまでだけどね。一応、元カノってやつかな。」
「……っ⁉」
──しずくの頭が、真っ白になった。
(元カノ⁉ ……まさか⁉)
これまで、一度もそんな話を聞いたことはなかった。
しずくは、ゆうくんの隣で、かすかに唇を噛んだ。
(そんな……そんなはずない。)
でも、目の前の花恋は、微笑みながらそう言った。
ゆうくんの表情を、しずくは固唾を呑んで見つめた──。




