第20話 あいりの一歩
「あー、さっぱりした……」
荒い息をつきながら呟く。
それなのに、胸の奥はずっしりと重たい。
手は震えていた。
ゆうくんは、何も言わなかった。
しずくも、黙ったままあいりを見ている。
静寂が重くのしかかる。
心臓の鼓動が耳に響くほど大きくなっていた。
(……やっちゃった。)
わかっていた。
でも、引き返せなかった。
ゆうくんが、静かに口を開いた。
「……ごめんね、あいり。すごく苦しませちゃったね。」
その言葉に、あいりは息を詰まらせた。
"なんで"
飲めなかったのは自分なのに。
捨てたのも自分なのに。
なんで、謝られるの?
---
"怒り"
しずくは、強く奥歯を噛みしめた。
(……何それ。)
あいりが飲めなくて、吐き出して、最後には流しに捨てた。
ゆうくんのいちご牛乳を、ただの"飲めないもの"として。
なのに、ゆうくんは「ごめんね」と言った。
悲しげな声で、まるで自分が悪かったみたいに。
「……ねえ、あいり。」
しずくの口から、思わず言葉がこぼれた。
低い声だった。
あいりはピクリと肩を揺らし、ゆっくりとしずくを見た。
「……なに?」
しずくは一歩、あいりに近づいた。
そのまま、じっとあいりを見つめる。
「それ、本当にスッキリした?」
「……え?」
「ゆうくんは、頑張ってくれたことを嬉しいって思ってた。
無理しなくていいって言ってくれた。
なのに、あいりは何?
“こんなの飲めるわけない”って文句を言って、
机を叩いて、最後は流しに捨てた。」
あいりは唇を噛みしめた。
「それで満足した? 何か得るものあった?
ただ、ゆうくんを悲しませただけじゃない。」
拳を握りしめる。
悔しそうに、でも何も言い返せなかった。
「……別に、しずくに言われる筋合いないし。」
ようやく絞り出した言葉は、まるで負け惜しみのようだった。
しずくは小さく息を吐いた。
「そっか。」
それ以上、何も言わなかった。
けれど、あいりは苛立ちを抑えきれないまま言葉を吐き出す。
「だいたいさ、あんなの飲めたからって何も変わらないよ。」
しずくの目が鋭くなる。
「何も変わらない? そんなわけないよ。」
「……は?」
「ゆうくんのいちご牛乳は、ただの飲み物じゃない。
それをちゃんと受け入れられたら、きっと変わるよ。」
あいりは反射的に鼻で笑った。
「なにそれ。飲めば何か見えるとか?
そんなわけないでしょ。」
しずくはゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。
ただ飲むんじゃなくて、"受け入れる"ことが大事なんだよ。」
あいりの表情が少し曇る。
「……なに、言ってんの。」
「ゆうくんが作ったあのいちご牛乳には、すごく大切な意味があるの。」
「大切? あんな気持ち悪いものに?」
「あいりが気持ち悪いって思ったなら、それでいいよ。
でも、それが"ゆうくんの思い"そのものだったら?」
「っ……」
「だから、いちご牛乳の悪口を言うのは、ゆうくんに対しても失礼だよ。
ゆうくんは、あいりのためを思って作ってくれたんだよ。」
あいりは言葉に詰まる。
確かに、ゆうくんは本気だった。
自分が飲めるようになってほしいと思って、作ってくれた。
なのに、自分は吐き出して、捨てて、悪口まで言った。
「そこに、ゆうくんの気持ちが込められている。
その気持ちを受け取って、少しずつ飲み続けることで、
ゆうくんの思いを受け入れてることになる。」
「どれだけ不味くたって、それがゆうくんの思いなら——
あの味が愛しいものに変わるんだよ。」
しずくの言葉が、あいりの胸に重く響く。
「私も最初はすごく苦しかったけど、今はね、いちご牛乳がとても大事なものなの。
大好きなんだ。」
あいりは静かに聞いていた。
しずくはふと、あいりの目をじっと見つめる。
そして、少しだけ表情を曇らせながら言った。
「なのに、あいりはいちご牛乳の悪口を言って、最後には流しに捨てたんだよ。」
あいりの指がぴくりと動く。
「それはね、ゆうくんがあいりに作ってくれた思いを拒否して、
最終的にゆうくんの思いを捨てたんだ。
ゆうくんの"あいりへの気持ち"を、捨てたことと同じなんだよ。」
「っ……」
あいりの胸に、ズシンと重い何かがのしかかる。
まるで、心の奥にしまい込んでいたものが引きずり出されるような感覚だった。
「……そんなの、ずるいじゃん。」
あいりの声が震える。
「私は……ただ……しずくに負けたくなくて……」
しずくは微笑んだ。
「うん。わかってるよ。」
「……わかってるなら、そんなこと言わないでよ……」
涙が溢れそうになる。
「ゆうくんの気持ちを、捨てた……
そんなの、そんなの……」
その言葉が、胸に刺さる。
あいりは、唇を噛みしめた。
「……どうすればいいの。」
しずくは、少し優しく微笑んだ。
「じゃあ、まずはゆうくんに謝ってきて。」
あいりの肩がピクリと揺れる。
わかってる。
謝らなきゃいけない。
でも、どう言えばいいのかわからなかった。
「あ……謝る、か……。でも、どう言ったらいいんだろう……。」
自分がしたことを振り返れば、謝らなきゃいけないのは明白だ。
でも、「ごめんなさい」と一言で片付けていいのか?
そんな簡単な言葉で、ゆうくんの気持ちが戻るとは思えなかった。
そんなあいりの迷いを感じ取ったのか、しずくはそっと言葉を紡ぐ。
「ゆうくんはね、あいりが本当に心から謝れば、ちゃんと受け入れてくれるよ。」
「……」
「だから、素直に自分の気持ちを伝えればいいんだよ。」
あいりはしずくの言葉を噛みしめながら、深く息を吐いた。
胸の奥に引っかかっていたものを、少しずつほぐしていくように。
(……素直に、か。)
あんなことをした自分が、素直になってもいいのか。
でも、しずくはあいりに道を示してくれている。
それが、しずくの答えなら——
あいりは、自分の中の迷いに区切りをつけるように、こくんと頷いた。
「うん、ありがとう……ゆうくんに、ちゃんと伝えてみる。」
---
ゆうくんは、キッチンで片付けをしていた。
あいりが流しに捨てた、いちご牛乳の残骸を洗い流している。
(……)
あいりは、その後ろ姿を見て、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
手を強く握りしめ、緊張しながらも、ゆうくんに声をかける。
「ゆ、ゆうくん……ちょっといいかな?」
ゆうくんは驚いたように振り返り、あいりを見た。
「どうしたの?」
その優しい声が、余計に胸を刺す。
こんなにひどいことを言ったのに、捨てたのに。
まだ、あいりを拒絶しないでくれている。
喉が詰まりそうになる。
でも、ここで黙ってしまったら、本当に終わりだ。
しずくに言われたように——素直に、伝えるんだ。
「さっきの……いちご牛乳……」
声が震える。
「ほんとうに、ごめんね。」
言葉にした瞬間、目の奥が熱くなる。
「私、ちゃんとその気持ちを受け取るべきだった。
なのに、飲めなくて、捨てて、あんなこと言って……。」
自分のしたことを、改めて言葉にすると、どれだけひどいことをしたのかが痛いほどわかった。
ゆうくんの気持ちを、踏みにじったのは自分だ。
「だから……また今度、もう一度、チャンスをくれる?」
必死に言葉を紡ぐ。
それが、あいりにできる精一杯だった。
ゆうくんは、一瞬驚いたような顔をした。
でも、すぐに、優しく微笑んだ。
「もちろんだよ。」
「……!」
「焦らなくてもいいんだよ。あいりが飲めるようになったら、僕はすごく嬉しいけど……無理に飲まなくても大丈夫だから。」
その言葉に、あいりの胸がじんわりと温かくなる。
(……ほんとに、優しいよね。)
今までは、その優しさに甘えてばかりだった。
でも、今度はちゃんと向き合おう。
しずくのように、ゆうくんの気持ちを大切にできるように。
あいりは、ゆうくんに向かって力強く頷いた。
「うん、ありがとう。少しずつ、頑張るから。」
その言葉と共に、心の中に溜まっていたわだかまりが、ほんの少しだけ溶けていくような気がした。
ゆうくんの思いを受け入れるための第一歩。
それを、ようやく踏み出せた——そう思えた。