第14話 あいりのスタートライン
あいりは震える手で、ゆっくりとグラスを持ち上げた。
悔しさと、負けたくない気持ち。
そして——ゆうくんへの、どうしようもなく溢れる想い。
「……もう一回……やる。」
震えながらも、意を決した声が静かに響く。
グラスの中の液体を見つめる。
先ほどまでのトラウマが蘇るような、どろりとした粘度。
けれど、もう逃げないと決めた。
——今度こそ、飲み干してみせる。
意を決し、一気に口へと流し込む。
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——嫌悪感はなかった。
驚いた。
さっきまで感じていた、喉に絡みつくような不快感が、どこか遠ざかっていた。
(あれ……?)
確かに粘度はある。
独特の重みも、喉に引っかかる感覚も、まだ感じる。
でも、それ以上に——
ほのかに甘い。
先ほどは「拒絶」しかなかった。
でも、今は違う。
「……っ」
喉を通る感触を感じながら、必死に飲み込む。
相変わらず、胃に落ちるときの圧迫感はある。
それでも、強く意識を保ち、最後まで飲み切ることだけを考える。
(ゆうくん、ゆうくん……)
心の中で、何度も名前を繰り返した。
すると、どこか奥底が、じんわりと温かくなる。
——温かい。
なんだろう、この感じ。
胸の奥が、じんわりと満たされるような。
気づけば——
あいりは、全てを飲み干していた。
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「……はぁ、はぁ……」
震える息を整えながら、あいりはグラスを置く。
唇には、まだ微かにいちご牛乳の甘みが残っていた。
「……飲めたよ。」
声が掠れる。
けれど、確かにそう言った。
しずくが、あいりをじっと見つめる。
「あいり……」
その目に浮かぶのは、確かな「理解」だった。
——この気持ち、伝わった。
ゆうくんのいちご牛乳は、もう私だけの特別じゃなくなった。
けれど、寂しさよりも——
同じ想いを抱く親友と、この気持ちを共有できることが、どこか誇らしかった。
「……しずく。」
「あいり、すごいよ。」
しずくの微笑みに、あいりの胸が熱くなる。
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「ゆうくん、私……やったよ……」
しずくが部屋を出て、ゆうくんを呼びに行く。
ゆうくんが戻ると、あいりはまだ肩で息をしていた。
彼を見つめると、込み上げるものが止められなかった。
「……ゆうくん、私……やったよ……」
その瞬間、涙が頬を伝った。
嗚咽が漏れる。
飲めた喜びなのか、悔しさなのか、それとも——ゆうくんへの想いが溢れたのか。
ゆうくんの手が、優しくあいりの頭を撫でた。
「うん、すごいよ、あいり。」
その言葉が、嬉しくて、苦しくて、たまらなく愛しい。
——本当に、飲めたんだ。
苦しくて、吐きそうで、それでも諦めなくて。
しずくみたいに、ちゃんと飲めたんだ。
「私、頑張ったよね……?」
「ああ、頑張った。」
ゆうくんの声が、あいりの胸を満たしていく。
その隣で、しずくがそっと微笑んだ。
「おめでとう、あいり。」
特別だったものを分かち合うことに、最初は少しだけ寂しさを感じた。
けれど——
「……ありがとう、しずく。」
あいりは涙を拭いながら、微笑んだ。
喉にはまだ、いちご牛乳の余韻が残っている。
でも、それすらも今は、心地よく思えた。
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少しだけ、ためらいながら。
けれど、決して揺るがない意志を持って、あいりは言った。
「今度また、いちご牛乳……飲みに来てもいいかな?」
その言葉に、ゆうくんは微笑んだ。
「うん、いいよ。」
その笑顔を見た瞬間。
——ああ、やっぱり、ゆうくんが好きだ。
しずくだけが、今までこの時間を独占していた。
それが少しだけ悔しいと思いながら——
でも、今度はちゃんと、この場所に並ぶことができる。
そう思うと、あいりの心は、少しだけ満たされる気がした。