ゆるりと。ふわり、風船。
赤い風船が飛んで、僕の視線はそれにつられて空に向いた。曇り空。近しい秋の空がそうさせるのか、雲がいつもより大きく見えた。灰色に染まる上空。不思議と物悲しさを感じないのはなぜだろう。理由は明白なのに、僕は現実から目を逸らして合わせない。会わせたくないもの。
毎度のことなのだが。いい加減慣れてしかるべきなのだが。慣れては人間として何かを失う気がするし、何より。慣れれるようなものじゃない。
何なんだよ、この状況は。
「ねーねーお兄ちゃん、風船、飛んでっちゃったね」
無邪気な高い声。僕の左手を握る小さな手は、幼き少女のものだ。見も知らぬ少女。色濃い髪が秋の季節に映える、綺麗な顔立ちの少女。僕は断じてロリコンなどではないから別に思うところがあるわけでもないのだが、そんな僕の眼から見ても、この少女は間違いない、可愛い。
「そりゃあ、ヘリウムガスの入った風船放したら飛ぶにきまってると思うよ、紫ちゃん」
ゆかり。あまりにも見てられなく、ってわけでも無く迷子みたいだったので声をかけたその少女の名を呼んで、僕は嘆息する。さっきまで大事そうに持っていたのに、何を思ったか急に手放したのだ、この子は。幼いこの挙動はいつでもよくわからないが、この子のそれが一線を画しているように思えた。研究部メンバーと同じ匂いがする。僕はつくづく、この類の人間に縁があるのだろうか。奇妙過ぎるし面倒過ぎる。
それより、今はこの状況を打開するのが先決だった。週末、暇を持て余したのでフリーマーケットを開催していると言う数駅先の街に出たは良いが、歩いているうちに自分の居場所を把握できなくなってしまっているのだ。なんてことは無い、紫ちゃんを迷子と判断したのも、現状の僕とまるで同じくきょろきょろと、不安げに辺りを見回していたからである。
つまるところ、紫ちゃんは迷子で、僕もまた、迷子だった。お恥ずかしい限りだ。こう言う時に限って僕という奴は携帯電話すら持ってなく、財布不携帯主義の僕は、そもそも何も買うつもりが無かったので公衆電話に入れる硬貨すら持ち合わせてはいない。あるのは電車の定期だけ。なんとも愚劣な結果を招いているようだった。どうしてこうなるか。
「お兄ちゃん、風船、もういっかい貰いに行きたい」
「はいはい、そんな状況じゃまるで無いけど、解ったよ」
「うんっ、ありがとう!」
無邪気な笑顔来襲。僕の荒んだ心にはいつでもクリティカルヒットで、まずい、このままではロリコンの汚名を着せられてしまいそうだ。気を確かにもとう。
「でもさ」
足を進めようとした紫ちゃんは、急に立ち止まって、僕を見上げてきた。僕の腹までくらいしかない身長の彼女が僕の顔を見るには、上を見上げる必要がある。
「どうしたのさ」
怪訝に思って問いかけると、紫ちゃんは依然として笑顔のまま、小首を傾げるような動作をした。
「どこでもらったんだっけ?」
うん可愛い。じゃねぇよ。
「風船もらったの、つい一分前くらいだよね」
「うんっ」
「そこで元気に返事してもらっても困るんだけど」
「でも挨拶と返事は元気にって学校の先生は良く言うよ」
「その教育方針は正しいと思うけどね、でもこの場合は馬鹿を露呈するだけだと思うんだよ」
「ばかとか言っちゃいけないんだよ、お兄ちゃん」
「それも君が正しいけどねっ!」
「やつあたりもいけないんだよ」
「違うこれは葛藤だ!!」
「……はいカットー?」
「オスカー狙ってるんですか……?」
「あんどれー!」
「変な事知ってるなぁ小学校低学年!」
「正しくは三年生だよお兄ちゃん」
三年生が迷子になるなよ、とか、そのくせ妙にバラエティーに富んだボケだなとか、いろいろと突っ込みどころがあり過ぎて飽和状態である。この子は将来間違いなく研究部の類に入る。逸材だ。
「風船、あっちだよ紫ちゃん」
「わお。良く覚えてるねぇお兄ちゃん偉いっ」
「お誉めにあずかりまして光栄の極みでありますお姫様」
「うむ、苦しゅうないぞ奴隷」
「せめて家来あたりにしてくれませんかねぇっ!」
「あと、ぼくはお姫様でなくておじい様だよ」
「君はおじい様でも王子様でもねぇよ! 女の子でしょうが」
「性差別はんたーい」
「……もうヤダ」
げんなりとして、僕は肩を落とす。結局引っ張っていく形で彼女を無料配布の風船の所に連れて行って、顔を覚えられていて「おひとり様一つまでなので」と断られかけたところを事情を説明して、それでも渋る配布係のお姉さんに対し紫ちゃんがまさかの泣き真似までやってみせて、それでようやく風船が彼女の手に渡ったのだった。色々と末恐ろしいな、この子。
「えへへー。貰ったよ、お兄ちゃんっ」
「そうだね紫ちゃん。さあ、君のお姉ちゃんたちを探そうか」
「うん。三人もいるからきっとどれか見つかるよ」
「実の姉をとても自然に物扱いするんだね君は」
どれかって。しかし三人もいるのか姉。きっとこの子に似て可愛かったり、若しくは美人だったりするのだろう。一番上は、彼女の年齢から察するに中学生くらいだろうか。
「お兄ちゃん」
「うん?」
また紫ちゃんが声をかけてきて、僕は彼女の方を見る。必然と見下ろす形になった僕に、彼女は衝撃的なセリフを投げかけてきた。
「風船飛んでったよ」
「君は馬鹿だ!」
はっとして上を見ると、ふわりふわりと無感動に飛んでいく青の風船が一つ。別のところで誰か知らない子が飛ばしたらしい緑色の風船と相まって、灰色の空に少しの明るみを添えていた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
別段落胆した風でもなく、紫ちゃんは言う。わざとじゃなかろうかという思考が鎌首をもたげたが、言わずにおいた。
「綺麗だね」
「……」
息をつく。幼子の感性は、どこか不思議で美しい。子ども心、というのだろうか。忘れてしまったその多彩な感情は、僕にしてみれば、とても輝かしい色に見える。
「そう、だね」
呟いて、僕は握ったままの紫ちゃんに手を引かれて、歩き始めた。
「いこ、お兄ちゃんっ」
「おっけー、紫ちゃん」
しばし、この小さくて綺麗な世界観に、付き合おうじゃないか。
久々にすらすら書けた回でした。意味はあまりないですが、きっとそれなりに意外(?)な結末を提供できるかと。お楽しみにっ。してくれると嬉しいです。
それでは、感想評価等戴ければ幸いです。




