春深し。あかつき。
終業のチャイムと同時に教室を出て(つまりホームルームをぶっちぎって)部室に向かうと、いつもの僕の定位置になる窓際の席に先客の姿があった。呼吸に合わせてわずかに揺れる肩にかかる程度だった髪は一年の間にずいぶん伸びていて、ところでこの子、座ったままの姿勢で支えも無しに眠りこけているらしい。器用なまねをするな……。
「おい緑、授業はとっくに終わってるよ。教室に帰りなさい」
「おぅわっ、って、顕正くん。びっくりさせないでよもう、先生かと思ったじゃん」
「それは不幸中の幸いだったな……と言いたいところなんだけど、さっさと帰らないと多分とっくにホームルーム始まってるぜ」
「……それを言う顕正くんはどうしてここに?」
「サボった」
「だと思ったからここで重大なネタバレをするとね、実は六限からサボっちゃいましたー!」
寝起きを感じさせないテンションで快活に言う。アホだ。ここで声に出さなかった僕を褒めて欲しいが、あいにく顔には出してしまったらしい、不満気に、緑が唇を尖らせる。
「馬鹿にしてる目だね、でもしょうがないじゃん、どうせ顕正くんもサボりだろうと思って来たのに、アテが外れたんだから」
「……色々言いたいことはあるが緑、アテが外れたなら戻れば良かっただろ。なんで寝ちゃうんだよ。無駄に器用に」
「器用? 褒められた、嬉しいな!」
「話が進まないから流すよ」
しっぽなんて生えてたならば全力で振り回してそうな表情を浮かべて笑うが、あいにく彼女のこの手の可愛さには慣れている僕である。……可愛いのは可愛いし、だからこの、犬にするみたいにわしわしと頭を撫でる手は詮無きことなのだ。うん。
「えっへへ、そうなんだけど、折角顕正くんがいないでしょう? だから、いつも座ってる席に座ってみたいなあって思って」
「なるほど……。で、どうだった、僕の定位置は」
「眠くなっちゃった。この席、案外つまんないんだね」
「それは暇を持て余した結果だ」
僕の席のせいじゃない。まぁ春だからね、今日は天気もいいし、窓際、陽当りの良いところで椅子に座っていたら、それは眠たくもなるだろう。
「うん、俊敏赤ずきんがなんとやら、だね」
「は? なんて?」
「あれ、違ったっけ。じゃあシンデレラ……灰かぶりだ!」
「童話が違うって言ってんじゃねぇよ、君ほんとに高校生か」
あまりにかけ離れ過ぎていて、多分僕じゃなかったら伝わってない。正しくは春眠暁を覚えずだ。
「あ、それだよそれそれ。春眠暁。私、覚えた」
「緑、無事進級は出来てるの? 学年確認した?」
「しっつれいな! 余裕で二年生ですよ! いくら顕正くんでも馬鹿にし過ぎっ、人外だよ!」
「……自信ないけど、心外かな、それは」
「それ!」
わざとだなこいつ。たとえそうでないとしてもそう信じたくなるような間違いだけど、ここは緑を信じよう。信頼関係、大事だね。
わざとだよな?
「ところで顕正くん、三笠先輩とか二瓶先輩、おんなじクラスじゃなかったっけ。なんでいつも一緒に来ないの?」
「いや……特に理由は無いんだけど。そういやなんでだろうね。心当たりとしては、僕がホームルームサボり常習犯だからとかあるけど」
「うぅん、私ならそれ、一緒に着いて行くからなぁ」
「行くなよ。まぁ僕達誰一人としてサボりに対する罪悪感とか無いから、着いて来てもおかしくはないが」
その辺は、彼女たちなりの線引きなのかもしれない。そもそも二人とも四六時中僕に付きまとってくるって感じの性格でもないし。一昔の美稲なら、それも有り得たのかもしれないけれど。
最近引き際というか、距離感をわきまえてるような節があるからなぁ。キャラクタ―というか、役割を大事にしている感じ。
「二瓶先輩はまるっきりストーカーみたいなものだし、いない方が不自然に思うんだけど」
「おい君美稲のことそんな風に思ってたのかよ……」
「冗談だよ冗談。二瓶先輩はストーカーじみた神出鬼没性を持ってるだけで、何も本当のストーカーじゃないもんね」
「ううん、まぁ、あいつの場合気付いたらそばにいたみたいなことが本当にあるから一概に否定は出来ないな………」
神出鬼没性、ねぇ。神に鬼、……さっきの緑じゃないけど、人外の存在。それに近しい能力を、美稲はだんだんと身につけつつある。
いやいや、とは言え、美稲は人間だ。僕でさえ、すぅちゃんですら人間なのだから。
「まぁ、先輩も人間は人間ですよね。まっとうな人間かどうかは知りませんけど」
「げっ、蒼……」
「現れるなり失礼な後輩だな君は……」
開けっ放しにしてしまっていたらしいドアの方から聞こえる声に振り返る。なんでか息を切らした蒼ちゃんがそこにはいて、まず一呼吸とばかりに僕を貶めてから、眉を釣り上げて窓際の緑を睨んだ。
「緑、あんた、ホームルームさぼったでしょう。緑の担任がわざわざ私のとこまで来たんだけど」
「ずいぶん熱心な担任だね、いない生徒をちゃんと探そうとするなんて」
「いえ、それが普通で、先輩のところがおかしいんです。いいから緑は一度教室に戻って怒られてきなさい」
「うえぇ、めんど……。しょーがないなぁ……」
折角顕正くんとふたりきりタイムを獲得出来たのに、とかボヤいて、めちゃくちゃ嫌そうに顔をしかめながら、蒼ちゃんの横をすり抜けて緑は研究部室を出て行った。すり抜けざまに肩がぶつかって、今度は蒼ちゃんが少し表情を歪ませる。僕の顔から言いたいことを察したのだろう、ぶつかった肩をすくめて、蒼ちゃんはため息をついた。
「わざとですね、今の」
「小学生かよ……」
やつあたりだった。大変幼稚な攻撃手段である。
「緑があんな風になったの、先輩のせいですからね」
緑の去った僕の定位置に今度は自分が着きながら、蒼ちゃんがジト目を向けてくる。いやいや待て待て、それは遺憾なんてもんじゃあない。
「確かに僕は不良だが、緑が馬鹿な理由まで僕のせいにされちゃあ敵わないぞ……。ていうかさぁ、蒼ちゃん」
言葉を区切った拍子に、察しの良い蒼ちゃんが目線を逸らす。今度は僕が彼女にジト目を向ける番だった。
「しれっと座ってるけど、君のところもホームルーム、まだ済んでないだろう」
「やっぱりばれちゃいますか」
「当たり前だ」
ちろっと舌を出すその仕草は普段の彼女とのギャップも相俟って大変魅力的なのだが、それはそれとして、これじゃあどっちが不良だか分かったもんじゃない。学校から留学を持ちかけられるくらいの優等生だった蒼ちゃんのこの変化が僕の影響だとしたら、親御さんに申し訳なさ過ぎて土下座しても足りないくらいだ。学業成績だけみれば僕も十分優等生だし、そんな僕が他人に悪影響を及ぼすなんてあるはずもないことだけれど。
「なにすっとぼけてるんですか、先輩から見た私達姉妹が何かしら変わったっていうのなら、そんなのはこの一年間での先輩の影響に決まってるじゃないですか」
「確かにこんなこと言う子じゃあ無かったな! 反省して矯正するから今すぐ自分の教室に戻りなさい!」
「いやですよ、折角緑を追い払えたんですから」
「あれ、今君双子の姉を追い払ったとか言ったか?」
「気のせいですよ……そうだ、先輩」
とん、と、椅子から立ち上がった蒼ちゃんがつま先で床を鳴らす。一歩、二歩とリズミカルに距離を詰めて、座ったままの僕の頬にそっと両手を伸ばした。いいこと思いついた、とばかりに微笑みながら口を開く。
「キスしたげるから、見逃してください」
顎をわずかに持ち上げられて、上を向いた視線と僕を見下ろす蒼ちゃんの視線が絡まる。頬が明らかに上気していて、薄く細められた目つきからは蠱惑的な色が見て取れた。
「……ね?」
「うゎ……」
潤んだ瞳でちょっと首を傾げる蒼ちゃん。思わず呻くが、いやこの子、急にアクセル踏み過ぎだろう。珍しくちょっとした悪事に手を染めたこととか、うまいこと厄介払いが出来てしまった幸運とか、多分久しく僕と二人きりなこととか、そして薄桃色の春の陽気にあてられて、高揚した気分に普段の自制心やら羞恥心やらが根こそぎ溶けてしまっている。
中腰の態勢に限界を感じたのか、彼我の距離を縮めるべく蒼ちゃんの肢体がさらに僕に寄せられる。座っている僕に顔を近づけようと思えば、当然もう、膝に跨るくらいしか選択肢は無いわけで……。
焦点の合わない目が向けられている。小悪魔的に笑う唇は誘うように薄く開かれている。荒い吐息がいよいよ僕の鼻先に感じられるくらい近くなって、って、いや、冷静に観察している場合ではないんだけど、ううん、どうしたものかなぁ……。僕としてはこのままされるがままでも一向に構わないというか普通にご褒美なのだが、今回の場合、ここでそれを許してしまうと蒼ちゃんに騙されて教室に帰っていった緑に不公平だからなぁ。
なんて考えているうちにもはや蒼ちゃんの柔らかな唇があとほんの数センチのところまで迫ってきている。もういいや、今回は蒼ちゃんの計略勝ちということで、なんだか今の蒼ちゃんはこう、男の本能的に逆らい難い感じにエロいし(そう指摘すれば或いはこの子はあっさり羞恥に襲われて離れるのかもしれないけど)、なんて考えている間に――
「そこまでよ、赤坂妹」
「いたぁっ!?」
――とか、この研究部でそう上手く事が運ぶわけはなく、いつの間にやら部室に到着していた明音さんの容赦無い手に髪を引っ張られた蒼ちゃんは、瞬く間に悲痛な声を上げながら僕の膝からも降ろされてしまった。
「まったく、後輩の分際で色仕掛けだなんて、油断も隙も、ついでに身の程も知らないようね」
「何するんですかっ、ていうか、身の程を知れってどういう意味です?」
「胸囲増やして出直して来なさいって意味よ」
「な……」
明音さんの容赦無い一言に蒼ちゃんが絶句する。まぁ蒼ちゃん、実は全然年下のすうちゃんよりも薄かったりするからな……。
どこをとは言わないけど。
「まぁ、貴女程度の色仕掛けはさほど脅威に思っていないけどね。胸囲だけに」
「それいう必要あったか?」
折角優位に責め立てていたのに台無しである。以前ならもっとえげつない追撃をしてただろうに、そういう意味では明音さんも、研究部員に対して随分丸くなったものである。
「顕正、貴方、最近ガードが緩みっぱなしなんじゃない? 気持ちが緩んで頭のネジまで緩んだのかしら」
訂正、他の部員への敵意が消えた分、僕への直接の罵倒が増えている気がするのでイーブンだ。むしろ僕個人としては被害が増えただけとも言える。
「あら、これくらいはラブラブなじゃれあいの範疇でしょう? まぁ物足りないと言うなら仕方ないわね、キスしてあげるからこっち来なさい」
「ちょ、ちょっと三笠先輩!」
未だに髪を引かれたままの蒼ちゃんが身を捩って抗議する。そんなことしたら当然、余計に引っ張られる形になるわけで、蒼ちゃんは僅かに目を細めながら、しかし気丈にも横暴な先輩に食って掛かった。明音さんの手首を取って睨みつける。賢明で天才な僕としてはやめといた方が良いと思うんだけどなぁ。
「ご忠告どうも、でも私、今に懸命なんです」
「あら、勇ましいのね、そういうの蛮勇って言うのよ」
……こりゃだめだ。掴み合ったまま睨み合う美少女二人からそろりと離れてため息をつく。仲良くなったって、丸くなったって、恋する乙女は時としてお互いに譲らないのである。
「あほらしいことこの上ないわ」
「いつの間に現れたんだよ君は」
「ストーカーがどうのってくだりのあたり」
「めちゃくちゃ序盤じゃねぇか!!」
まったく気づかなかったよ、日常生活の中で気配を消すな。平然と隣に立つ美稲に一際深く嘆息して、陽の傾いだ空を見上げる。春の陽気は暖かだけど、研究部室は今日も今日とて些かばかり、熱っぽい。
それなりに忙しく生きている内に2年経っていました。驚きとかそんなレベルじゃあない。完結させる意志はあの頃から変わりません、よければどうぞ、お付き合いくださいますよう。