当日。チョコレイト。
かくして二月十四日は訪れた。日付に覚える僕らの特別感など微塵も関係ない、とんと普通な朝だった。普通に勝るものは無いとは言え。
でもまぁ、こんなもんだろう。
とっとと着替えてリビングに顔を出すと、キッチンの方ではいつも通り、母さんが朝食を作ってくれていた。こういうところはまともな母親である。
その隣で制服の上からエプロンをつけている美稲は全然いつも通りじゃないし、まともな光景じゃないが。
何やってんだよ、君。
「さぷらいずよ」
「確かにびっくりしたけど」
「そうじゃないわ。サプライズ・イベントという奴よ。裸婦像は駄目って言われたから、直接顕正の家出作ろうと思ったの」
「その頭おかしい計画を我が母上様は許したんだな!」
「えぇ」
断るような人じゃないが! でもね母さん、あからさまに非難の言葉を投げかけてるのに完全無視して調理を続けるのは如何ともしがたい。無視と言うか、僕の存在を認めて無いくらいのスルーっぷりだった。ただ無視するだけでも格が違う人である。正しく「視て無」い。「視えて無」いのかもしれなかった。
「顕正、お義母さんを悪くいうものじゃないわ」
「何時君はうちの養子になったんだ」
「養子じゃないわ、息子の嫁よ」
「君を娶った覚えは無いなぁ!」
「記憶が曖昧なのね、可哀想に。でも大丈夫、私はそんな貴方も愛する女だから」
「僕の記憶は完璧だよ! 君が記憶を捏造しているだけだ!」
朝っぱらからこれである。何を作ってるんだとは聞かない。鼻孔をつく甘い匂いはどう考えてもチョコレートのそれだからだ。これで味噌汁とか作ってたらより驚いたけど。
……ちょっと嫌な予感がした。
「顕正、そろそろ出来るから座ってて」
「分かった、観念しよう」
逃げきる自信は無い。母さんは無言のまま、出来た朝食を自分の分だけ盛ると、さっさと食卓についてしまった。ていうか、見る限り僕の分は無いらしい。僕の今朝の献立はチョコレートらしい。なんだそれ。
「安心して、ちゃんと朝ご飯を意識した調理をするから」
「チョコレートでか……? チョコパンとかならありそうだけど、今から焼くには絶対遅刻だぞ」
「分かってる。言ったでしょ、安心して、座ってて」
「……観念しよう」
逃げ場は無い。分かっちゃいたけど。
そろそろ出来るとの言葉通り、程なくして美稲はお椀を一つ、僕の前に運び込んできた。
不安でいっぱいだったわけだが。
何故かお椀に注がれたそれは、見る限りは普通のホットチョコレートだった。マグカップに入れて欲しい所である。
「美味しいと思うわ」
「まぁ、君の料理の腕を疑うことはしないけど……」
センスを疑うことならする。めちゃくちゃする。信用ゼロ、全幅の疑念を抱いていると言っても良い。明音さんの趣味くらい、緑の頭脳くらい、蒼ちゃんの調理センスくらい疑ってる。全員に等しく怒られそうな思考だった。
しかしまぁ、この状況、既に出されてしまった以上飲まないわけにもいくまい。傍らで美稲が見守るのを感じつつ、僕は意を決してお椀を持ち上げた。口をつける。飲む。
ひと思いに、とはいかないが。熱そうなので。
「……」
結果的に、早まらなかったのが功を奏する結果になったようだった。甘みを抑えたチョコレートに、これは、もう隠し味とかそんなレベルじゃない、味噌の味。
「……なんだこれ」
「チョコレートよ。隠し味に味噌がいっぱい入ってるの」
「隠れてねぇ!」
いっぱいって言ってんじゃん!
「何言ってるの、味噌って言うのは、入れた量だけ美味しさが増す魔法の調味料なのよ、顕正」
「君の味覚はくるってる! なんだこれ、なんだよこれ、もう甘いのかしょっぱいのか分かんないよ!」
ほんのり苦くさえある。衝撃のドリンクでした。
「顕正、飲み物じゃないわ」
「……なるほど、この白いのは」
「味噌汁には豆腐よね」
「味噌汁って言った!」
チョコレートって言ってたのに! 味噌汁って!
傾けたお椀から覗いた白い豆腐の角を見つめつつ、これで頭を打って倒れられるならどんなに良いだろうかと。
思った。
僕はこの場を逃げ出したかった。
*
そんなわけで、とんと普通な朝では、まるで無いのであった。目ざめまでは普通だったと、そこは認めるにやぶさかではないが、その後の一幕はまるっきり蛇足である。
ていうか、げんなりと家を出た僕を見送る(学校には行かないらしい。相変わらない自由人だ。……制服まで着てたくせに)美稲の口元には楽しげな笑みが浮かんでいたから、おそらくあの味噌チョコレートスープは僕の反応まで見越したネタだったのだろう。
あの美稲がねぇ。
変わりつつある。皆等しく。この一年で僕は果てしなく成長したし、彼女たちも、それは多分同じことなのだろう。
何せ青春時代だから、ね。多感な年頃である。
いやいや全く。
と言うわけで、一人登校の道中を歩いている僕だった。眠いはずの頭は鮮烈な朝食のおかげですっかり覚めている。
「顕正くん」
「ん? ……あぁ、緑か、おはよう」
「おはよ。とまぁ、挨拶はそこそこに、ちょっと来て来て」
「昇降口はあっちなんですが」
「直ぐ済みますから」
藪から棒に、と言うか、校門を越えたあたりで急に声をかけてきたのは緑だった。出てきたのが校門の端からと言うところを見ると、まさかとは思うが、待ち伏せていたのだろうか。
「待ち伏せだなんて言うとちょっと人聞き悪いね」
「じゃあどう言い換えるのさ」
「……待ち伏せてました!」
「おい」
ボキャブラリーの貧しい娘である。らしいとしか言いようがないけども。
「それで、これは一体なんの演出だよ」
連れていかれた先は校舎裏だった。ヤンキー漫画なら果たし合い、ラブコメなら典型的な告白のシチュエーションである。緑は得意げに鼻を鳴らすと、後ろ手に持っていた紙袋を前に出してきた。
どうでも良いけど、その袋、後ろ手にして隠してたつもりだろうが、僕をここに案内する間ずっと目の前を歩いていたので完璧無意味である。丸見えも良い所だった。
「気付いてたなら指摘してよ!」
「気付いてないふりが優しさだと思ったんだ」
「だったら最後まで付き通して欲しいなっ!」
珍しく緑を振りまわしてやった。この程度のミスをする子じゃ無いのに、またこれはどうしたことだろう。
「ん、その辺は、気にしなくていいと思うよ」
「まぁ良いけどな」
歯切れも悪い。体調でも崩したんだろうか。
「そんなんじゃないけどさ。とにかく、折角呼び出したんだから話聞いてよ」
「わかったよ」
言って、緑に先を促す。折角聞く姿勢を作ったと言うのに、緑はと言うとそれから更に暫く話を切り出さなかった。
いい加減遅刻も視野に入ってきてるんですが。
「……うん。えっとね、だから、この紙袋なんだけど」
「うん」
手元のそれに目を落として、おずおずと口を開く緑。
二月十四日。僕に対して恋心を宣言している女の子。なにか入ってる紙袋。
「これを、その、顕正くんに……」
「ああ、チョコか、ありがとう」
「!!」
目を見開く緑。折角先を読んで話を進めてあげたと言うのに何か気に入らないんだろうか。
「あなたって人はぁ! 人が頑張って『バレンタインに照れながらチョコを手渡す可愛い後輩』を演じようってのに! 邪魔しないでよ!」
「既に君のなんたるかを知ってる僕としては似合わねぇよの一言だな」
「ひどい!」
「まぁでも、可愛かったよ」
「っ」
「いや、違うな、この言い方は違う。緑、可愛いよ」
「っ!?」
面白いほどに顔を発火させて狼狽する緑。苗字に恥じない赤らめっぷりだった。けっこう不意打ちには弱いのかもしれない。
ていうか、研究部って、基本的にアドリブ弱いのかも。蒼ちゃんはしっかり芯持ってるけど、そもそもが照れ屋な面があるわけだし。
「う~、なんか納得いかない……」
不服そうに、未だ赤みの引かない顔色のまま、観念したのか紙袋を僕に押し付けてくる緑。受け取って、とかく僕は、彼女に向き直って礼を言った。
「ありがとう、緑」
嬉しいよ、と。当然を口にする。また照れるかと思いきや、これは全然不意打ちで無いわけで、緑は自分が何か貰ったみたいな、いかにも幸福そうな笑みを浮かべた。
「よかった」
ほんの一言、噛み締めるように言う。
なんだかなぁ。
チョコレートを貰った上に、さらに満たされるような贅沢感がそこにはあって。
遅刻確定のチャイムと共に緑の眼が何か企みのあるそれに変わったのに、僕は勝手に満たされていた所為で気付けなかった。
「……遅刻じゃねぇか!」
「ふっふっふ。適当に演じてるふりを演じてれば遅刻まで持ち込めると思ってたんだ」
「何が目的だよ」
ただでさえサボりの多い僕の出席日数をなんだと思ってるんだ。
「遅刻が決定したくらいで出席日数を心配する顕正くんこそ何なんでしょうね」
「……まさかとは思うが」
「えへへー」
怪しげに含み笑いを見せる緑。
いやいやいや。
まさか緑が、緑ごときが、僕が「遅刻しちゃったらもう一日サボりたい気持ちになる」ことを見越したうえで、見せかけの芝居を打ったなんてことは、ない……よな。
「どうだろうねっ」
とにかくっ、と。
緑は言う。
相変わらない明るい笑顔で。
部内の誰より、無邪気な笑顔で。
「サボっちゃうなら、部室いこ!」
見透かされてたとしても、それはそれでまぁ仕方ないかな、なんて、思ったりする僕であった。
長い一日になりそうだ。
そんなわけで二月十四日。美稲&緑回でした。ちょっと更新空いちゃったのは、何と言うか、悪しからず。目指せコンスタントです。
もうじきクリスマスなこの時期にチョコレートの話題で書いてるのって私くらいでは無いでしょうか……。
そんなわけで、次回も是非、よろしくお願いします。