雨降り。おでん。
週末は僕の見立て通りに雨天だった。めちゃくちゃ豪雨だった。だと言うのに部室に居る僕って言うのは一体何だって言うんだろう。おかしい、昨日部室で美稲と居た時には、今日になった明日、如何にだらだら過ごそうかと想いを馳せていたと言うのに。なにがどうなってこうなったのかと言うと、まぁ、簡単な話、僕があれからずっと、起きることなく眠り続けて、日付が変わって朝が来て昼になる前、ようやっと目を覚ましたからだった。隣で眠りこんでいたはずの美稲は薄情にも一人で帰りやがったらしい。確かめたところ、前のドアが外から鍵をかけられていて、見回りの警備員の所為で僕が快眠を邪魔されるのを律儀にも防いでくれていたらしい。なんて迷惑な気の利かせ方だ。
窓の外を見遣る。雨は轟々と降り注いでいて、傘の無い僕としては走って帰る気にもなれなかった。こうなったらもう一泊してやるくらいの覚悟である。それに、ほんと言うと、週末に誰にも邪魔されずに研究に没頭出来ると言うのは喜ばしいことだ。一応ケータイを確認してみる。帰宅しない息子に対する両親からの心配の跡はどこにも窺えなかった。放任主義にもほどがあると思う。そのくせ、多分明日首尾よく帰れたらぶっとばされるんだろうから理不尽なものである。心配されてないわけではないんだと、ここは素直に愛を感じておくことにしよう。僕の為に。
さて、となると、目下の問題は食糧供給である。雨天もここまで高じるとどこの部活動も活動を休止すると言うもので、でなくとも、週末は基本的に、売店は営業していない。一縷の望みをかけて備え付けの冷蔵庫を覗いてみたが、半分くらい消費された味噌が入ってるだけだった。準備室には多分、米もあるだろう。炊飯器は以前自作した覚えがあるし、ここは大人しく味噌と白米で空腹をしのぐべきかと思案する。それ以外に方法なんてあるはずもないけれど。それにしてもお腹が空いた。昨日の昼から何も食べていないのだ。
炊飯器に米を入れて、最高速で炊く。この僕の発明ならば白米炊飯ならニ十分そこらで出来るだろう。待ち時間中に味噌でも焼いてみようか。何処かの地方ではしゃもじに味噌をぬりつけて焼くと聞いたこともある。味噌系統の知識の出所は勿論美稲である。
時間は流れていく。早くても、遅くても、長くても、短くても、ただひたすら待ち呆けているだけでも、ニ十分なんてそんな長いものじゃない。かくして炊飯器は炊きあがりを告げ、味噌焼きも良い感じに完成した。うむ、上等だ。わびしいけど。
ケータイが着信を知らせたのは僕が一人、そんな哀愁に身をまかせている時だった。一先ず炊飯器の蓋を閉めて通話ボタンを押す。着信相手は緑らしかった。
『あ、顕正くん、おはよっ』
「おはよって、君、僕が今起きたばかりだと思ってるだろ」
『違うんですか?』
「あたり前だ」
……ほんのニ十分前くらいだよ。
『それより、お昼ご飯とか食べました?』
「食べた食べた、嘘だけど食べたよ」
『無駄に捻くれないでよ、食べてないで良いじゃん。……じゃ、ちょっと待っててね』
「待っててって、どうする気だよ。うちに来るにしても外は大雨だぜ。ちょっと外出拒否したくなるくらい。それに僕は家に居ない」
『外出拒否したいんじゃないんですか。ううん、大丈夫、それも含めて待っててっていったんですよ」
「うん?」
なんか今、声が二重にぶれなかったか? まるで直ぐそこにいるように――――って。
「出前一丁、おでんですよ、顕正くんっ」
「何でいるんだよ!」
しっかり突っ込んだ。当然である。全身びしょ濡れの緑の手には小さめの鍋が抱えられている。いやいや、違うだろ、なんだこの状況。
「なんでって、そりゃあ勿論、おでんがすっごい良い出来だったから雨の中だけど気合一番外出して、顕正くん家行ったんだけど帰ってきてないって言われて、試しに学校来てみたらこっちに居たってだけの話ですけど」
「なるほどその鍋の中身はおでんか。死なないよな?」
「まず確認するのが暗黒物質の有無なんだね、おせちは美味しいって言ってくれたのに」
「いや、あれだけで緑に対するこれまでのイメージが払拭できたと思ったら大間違いだぜ」
「流石に怒っても良いよね!?」
「冗談だよ。それにしても、だ」
「うん、なに?」
「君は馬鹿だな」
「もう帰る!」
踵を返す緑。なんとかギリギリで肩を捉える。分かってる、今のは些か、僕が悪かった。
「些かじゃないよ、わんさかだよ!」
「分かった分かった、僕がわんさか悪かった。でもな緑、よぅく聞いてくれ、僕がわんさか悪い以上に、君はわんさかバカなんだ」
「もうやだ顕正くん嫌いっ!」
「待て待て、分かってる、今のは言葉の綾だ。僕は別に君に馬鹿って言いたいんじゃなくて、こんな雨の中尋ねてきたことに吃驚して責めずにはいられなくなっただけなんだ」
「……ですか。じゃあ良いや。あ、安心してね顕正くん、嫌いと言っても、大好きの中のちょっとした嫌いだから、もう既に大好きに飲み込まれてるよ」
「……」
心が広い。いや、愛が深いのか。なんていうか、冥利に尽きる思いもあるのだけど、この圧倒的な質量の好意には時に戸惑うばかりである。
「仕方ないですよ、だって好きって字はバラしたら女子だよ? 私が女子である限り、好きの気持ちは無くならないんだよ」
「君の暴論はちょっと他では考えられないレベルだよな」
この子は阿呆の子です。確信した。ていうか、していた。じゃあなにか、嫌いっていうのは女を兼ねてるのか。浅見にして寡聞の僕は話にしか聞いたことがないけど、両性具有かなにかなのだろうか。ただのオカマかも知れないけど。
「顕正くんの思考も偶にびっくりするくらいバカですよね」
「君には言われたくなかった!」
「ま、とりあえず、おでん食べましょう。あ、ご飯炊けてるじゃないですか、準備良いですね」
「とりあえずと言うのなら、君はまずそのびしょ濡れの服を着替えろよ」
「着替えないです」
「その台詞は着替える服が無いのか着替えたくないと言う意思表示なのか分かりにくいところがあるけど、前者ならほら、僕のだけどジャージがあるからこれを着なさい。気になるなら教室行って自分の取って来い」
「勿論顕正くんのを着ます」
何が勿論か。差し出した袋をひったくるようにして、緑は準備室の方へ駆けていった。嵐のような女である。……仕方ないので茶碗を二つ用意して、しっかり炊けた白米を盛る。緑は良いタイミングで戻って来た。弁えてるのか、天然か。どうせ後者だ。
「改めて着てみると、顕正くんって背高いんだね」
「そりゃあ、君よりはな」
「くんかくんか」
「嗅ぐな!」
「じゃあ匂いづけで我慢します」
「自分のにおいを『匂』で表すんだな……」
そりゃあ、まぁ、そうなんだろうけど。駄目だ、そんなつもりは無かったんだけど、こうなるとこのジャージは持って帰らないと、このまま次の体育で使う気にはなれなかった。無理無理、気まずいって。思い出すって。嗅いじゃうって。僕が変態みたいになるじゃないか。
「や、その件に関しては既にすごく手遅れだと……」
「失敬な後輩だな。服はどうしたの?」
「あ、準備室で干してます。ストーブつけてるからすぐ乾くと思いますよ。乾いてくれないと帰れないですけどね」
「あそ。んじゃ、これ食べて良い?」
「どぞどぞ」
箸を取って手を合わせる。例のおせちは例外で無かったようで、おでんの出来も確かに相当なものだった。図らずも先の味噌が良く合う。
「美味いね」
「ほんと? 良かった、蒼の制止を振り切っただけあったなぁ」
「……」
雨の音がヤケに大きく聞こえた。ん、と言うかこれ、服が乾いたとしてもまたびしょ濡れになって帰ることになるんじゃないか。
「それもそうですね。……んじゃ、泊まっていこうかなぁ」
「安直だなぁ。あのな、僕もいるんだぞここには。雨がやまない限り僕だって帰れないんだからな」
「良いよ、顕正くんなら」
「何が!?」
何が良いんですか緑さんっ。自分の台詞に照れたのかはにかむ緑。指先でいじる濡れた髪がなんとも言えない色香を演出していた。いや、いやいやいや。どういう状況だよこれは。誤魔化すようにこんにゃくを口に運ぶ。うむ、美味い。
食事を終えると僕は引き続き研究作業に戻った。片付けを終えたらしい緑がコーヒーを淹れてくれる。濃いブラック。そう言えば、緑は何故か味覚だけは大人だったっけか。
「今度はなに発明してるんですか?」
「とりあえず、傘」
「……あはは」
昨日よりは少しだけ活動的な午後。窓の向こうでざわめく雨の音を聞きながら、苦いコーヒーを啜る。材料不足(部室に放置されていた壊れた傘達)の所為で骨組み九本の傘が完成する頃には、後ろからずっと覗き込んでいたはずの緑は目を閉じていた。起こそうかと考えかけて、首を振る。そんなに急ぐことも無いだろう。生憎と言うか、僕は十二分に眠っていた所為で眠気も無い。後輩の寝覚めを、ゆっくり待つことにしよか。
*
目を覚ますとからからの晴天で陽が昇っていた。背中を見ると、緑の姿はまだあるようだった。二日連続置いてけぼりでは無い事実に安心する。窓の外、空を仰いでぼやく。
何やってんだ、僕は。
後日、二人で夜を越したことを蒼ちゃんに問い詰められ、耳聡くそれを聞きつけた他二名につるしあげを食らうのだが、それはまた、別の話。というか、語りたくもなかった。
……ほとんどひと月ぶりです。今まで幾度となく書いてきた「お久しぶりです」の言葉が全部褪せて見えました。お待たせしました、ようやっと更新です。
緑回、と言うよりは、前回の流れを継いだゆるゆるの回と言った方が作者的にはしっくりきます。何も考えずに読める話です。考えるまでも無いと言った方が正しいかしら。
それでは、何時になるか分かりませんが、次回もよろしくお願いします。流石に今回ほどは空けないつもりですので……っ。