折り神と御霊の冬至(伍・完結)
冬至の日は靉靆の夜すらも満遍なく澄んだ銀湾を架ける。雪月花の揃う凍玻璃を、薄暮冥々の頃合いまで待って常の様に座っていた。指が折るのは、清められた和紙に描かれた物物。徐々に近づく時間に、思わず私は手を止めて白い息を吐いた。
「この日が来るまで、私は淡々と彼らに会うことしかできない。」
最後の一枚を折り、立ち上がる。長髪が乱れてしまわないように一つに結っておき、濁りのない瞳だけが見ることのできる青々とした拙い御霊を、胸に抱いて歩んでいった。
「これが、私の折神として唯一、与えることのできること。」
鳥居を前にして、点々と星が増えていくのを見守る。沈丁花の縫われた着物が、降りやんだ雪の痕に触れようと風に揺れていた。
「ごめんなさい。これしかできないのだけれど…。貴方方が自ら手折ってしまった命を、私に送らせてほしいの。」
折神様の元へ来るのは、自らの人生を折ってしまった人々。俗世の闇に捕らわれて、ただ絶えてしまう命の重みに叫びも上げられなかった。
「嗚呼…。」
手が震えないよう。袋から取り出した折紙たちを、手で抱くように集める。
「荒涼とした世界に埋め尽くされて。漠然とした心の鈍りが、目の前にあったものを掴んでしまった。吐き出そうとして、隣に誰も居なくて…。恐怖すら壊してしまったら、もう。」
そう言って、私は頭を振った。
「聞くことしかできないの。それぞれの胸中と、押しかかった負担を。それでも尚、向こう岸に行かないでほしい。此処に留めて、自分の中にある大切な物を見つけてほしい。それが、どんな物であってもいいのだから…。なんて、言うのはきっと烏滸がましいのよね。」
手に集めた折紙を天に掲げて。外気に冷え、神々しく輝く月に吸い込まれる。青い御霊を浮かばせもするだろう。様々な思いの丈たけが生み出した、この世に一つしかない折形が、季節外れに瞬いた蛍の様に光を持つのを見つめた。
「あなた達が向かう先が、どうか幸の多い世であることを…。」
ふわりと水滴が時を止めてしまった瞬間が流れて、一つまた一つと私の手から離れて行く。月夜の終わりが悲しみを打ち射ても、四季折々に過ぎていった人々の姿は残り続け、私が忘れることはない。先程までの言い知れぬ切なさは消え、ただ滔々と消えゆく魂の光を見上げるばかりの私は、言い知れない心内に透き通った涙を一滴だけ落として、最期の一つを見送ったのだった。
「折ちゃん?儂らが入れたという事は終わったのだろうが…、大丈夫か?」
「寒いだろう。私のものでよければ羽織ると良い。」
「あ…。」
ぼんやりと遠くの月を見つめ続けていた私は、はっとして我に返ると、後ろで心配そうに此方を見ている彼らに気づいて振り返った。
「さあ、冷えたのだろう?此方においで。」
「儂と此奴の二人で、鍋をこしらえたから共に食べるぞ。早く行こう。」
羽織を肩にかけられ、梅神様は私と雪神様の手を掴んで、社の方へと歩いていく。
「でも…。」
「よく、頑張ったな。」
雪神様が私の頭に、そっと手を置いた。
「あ…。」
「大変な苦労をしてるのは知っている。それでもなお、君が足りないと思っていることもな。けれど、今日この日ぐらいは私達に君をいたわらせておくれ。」
「いつも、折ちゃんの優しさを貰ってばかりで、心苦しいでな。せめてもの感謝の意として、少しだけでも折ちゃんの傍に寄り添いたいんじゃ。」
手の温かさに、あの優しい黒いコートを着た青年を思い出して、涙がこぼれそうになる。けれど、この二人ならば彼の事も聞いてくれて、きっと何も言わずに側にいてくれるのだろう。そう思って、私の手を握っている梅神様の方を見たら、彼女は満面の笑みを返してくれた。
「鍋が冷えてしまうだろう。早く行くよ。」
「その命令口調が、なぁ。むかつくというのを奴は、分かっとらんのか。」
「ふふ。」
笑いを暖かい羽織の袖で隠して、私は二人の後をついて行った。
幾重も重ねた悲しさの中で、足掻いていた魂を見送った冬至の日。彼等を待ち続け、過ぎ行く一年。ただ一節の冬であっても、私にとっては一人一人が刻まれるべき大切な人々だった。心内に、佳夕を保たれている神獣達。ひらりと落ちては、泰らかさの残る雪紅。折りてしまわないように、手で掴みたかったものを雑然とした思考のまま浮かべていると、私の傍で佇んでいたらしい雪神様と梅神様が、顔を見合わせて悲し気な笑みを、趣に添えた。
「君が冷えてしまわないように、僕達は見守っていることしかできない。」
呟く声がする。雪神様は、ぼんやりと虚空を眺めている私を、うっすらとした視界で見て思う所があったのか、私の頬についた雪を指で払うと、微笑みと共に私から少しだけ離れた。
「私と梅神は先に行っているから。必ず、後から来るのだよ。」
「…ええ。」
「涅槃雪など舞い降りてこぬ内にな。ついでに、鍋の支度を終える頃には儂らの傍にいておくれ。」
「ありがとね。梅神ちゃん。」
二人が、背を向けて社に入ってゆくのを見送り、私は霜柱を踏みながら山眠る光景が一望できる場所まで移動したのだった。
徒桜の様な人々の命を、ただ折形として受け止めてきた数千年。夢幻泡影とはよく言ったもので、少し強めの風が髪を揺らがす度に、雪の薄命と月の燈籠に照らされる、この景色だけが変わらず残り続けている。
「…。」
何も紡げずに、待ち人達を送った夜は寒さだけを身に纏ってきた。二人の友人の元に帰れば暖かい物が私を包んでくれる事を知りながらも。淡雪に溶けなじんでいく黎明は、世に頽廃を促し、改稿すらも許さない涙で沈めてしまったのだと。
「雪に融ければ良かったのかしら…。どれほど強靭な紙で折った鶴も、水には濡れ落ちてしまうものだもの。」
氷輪に、恐ろしいほどの氷粒を散らばす様。けれど、その月に向かって飛び立つ鶴。咲き誇るチューリップ。勇ましく誰かを守るライオン。ただ一枚吹かれるばかりの千代紙であっても、私の瞳にはこの景色と同じく荘厳さを極めて、極夜の星を望むだけの力があったのだと。映り込むことは、まるで可笑しいことではなかった。
「あてなるもの
薄色に白襲の汗袗。
雁の子。削り氷のあまづらに入れて、新しき鋺に入りたる。
水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじう美しき児の、いちごなど食ひたる。」
清少納言 出典(枕草子:四十段)
そのような世であれば、これほど憂うれうこともなかったのでしょう。と…。胸に当てた手はそのままに、見下ろした先。日の出もまだな山々が冬を受けて、より凍てつく様子を感慨もなしに見つめた。
「そうね。貴方の言う通りよ、雪神様。」
私達はただ見守っていることしかできないのだから。けれど、それがどれほど悲しいことか。中身のなくなった巾着袋を握り締めて、二人の神が待つ社へと戻る私の胸中に、六花の欠片はいまだに残っているのだと。
「…。」
御霊の冬至に、最後の涙を流す。そして、その一滴が折紙に沁み込まないうちに。私は、私を待つ人々の傍へと帰っていったのだった。
(了)