折り神と御霊の冬至(肆)
「つい、眠ってしまったのかしら…。」
滾々と降る雪に冷たい手を添え、柔らかな雪化粧を雫の琴線に触れないように。ただ、天井に霜焼が落ちてしまう朝方すら、眠りを見る。彼方より覚めし、神々の咆哮も聞こえない奥まった社では、気だるげな霞を指先で掬い取った。
「透明な氷に、叶わなかった悲恋でも吹き込むと言うの?」
巾着を開ければ、折り重なる魂の欠片がある。折形を透かせば、掠れた声の唄声も誰のものであるのか分かるかも…。そう、痴れ者としての情の厚さを胸に秘めていた。
「山々に、彼はもう雪を降らせたのかしら。」
微笑みだけが不思議と流れては硝子の結晶となる、涙の憎たらしさ。思わず袖で、口を押えて冬帝を浮かべてしまっても、私以外にそれを見る者はいない。静まり返った畳越しの海が呼び合う、囀は心の暇として仕舞っておけばいいのだと…。
「けれど、彼はそれを知らなかったのかしら…。」
体を起こして、冷たさより別れを告げられる。豪雪とまではいかない。淡々と着物の肩に雪を積もらすような、少々の重みがある雪が降る中。佇む人の影を見て、私は痛みを感じた胸を押さえ、思わず瞳を閉じた。
「雪の日ぐらい…休んでもいいのよ。」
けれど、私が受け取るべきは彼の折る物であり、その彼が選択できなかったものを押し付けることではないのだから。私は、すっと着物の袖を押さえて立ち上がると、黒いコートの中にスーツを着た青年の元へと、歩み寄ったのだった。
『…。』
その瞳は、私を通り越して連なる山々を見ている様にも見えた。風も強く寒いだろうに、彼はその場から動かず、しんとした雪の最中に佇んでいる。私は彼を見上げ、ただその彼が雪を払うために瞬きをする仕草だけを視線に捉えていた。
『ああ…。』
言葉が紡がれる紫色になった唇。悲し気に遠くの景色だけを眺める表情に、私まで何があるのかと後ろを振り返って彼の見つめる先を見つめた。
『この景色だけが、俺の大事な物だったら良かったのに…。』
「あ…。」
目を瞑って、雪に混じる涙は流れる。寒さに震えている指先を握ってあげたくても、私の体温を感じることのない彼。私の手まで震え始めていた。
『きっと、示された幸福がこの景色だったら。誰にも迷惑をかけなかったのに…な。』
黒いコートのポケットから丁寧に折られた鶴を取り出す。彼は、その羽のたわみを優しく伸ばしてやると、歔欷もない藍色な寒空を連想する、涙痕を残した。
『誰にも迷惑をかけずに、ずっと生きていられると思っていた頃に。戻りたかったな。』
その瞬間、私は彼の手から鶴を受け取るとともに、コートの裾に縋りついて、大きすぎて抱えられない体を抱きしめていた。私は彼の人生を知らず、彼は私の姿すら見えていない。けれど、どうしようもなく彼から零れた小説のように儚い一節であり、単調的な彼を正に表す文節を聞いてしまった。その私は、崩れ落ちそうな膝を奮い立たせて、彼の元へと駆け寄りたい気持ちでいっぱいになったのである。
牡丹が枯れ、憂鬱と見上げる隠れた雲に。流れ着かなかった歪さを、私も知らない寒柝の静穏が飲み込んでいく。玉響の一瞬に暁闇が見えた気がしても、それは誰かの気のせいだと。精一杯伸ばした手で頬に触れると、はっと驚いた顔をして、見渡す姿に吹越を彷彿とする雪が散っていた。
『え…。』
仙郷にでも迷い込んだと言う顔をして、濾過しきれなかったのであろう環状の糸が切れたのを知る。幾星霜を重ねても慣れない彼等との邂逅に、私は潤んで見えない視界を閉じた。
『そうか…。』
何故か頭の上に手が置かれた気がして、俯いていた顔を見上げる。すると、私が居るのとは全く違う方向を見ている青年が、私の頭のあたりを撫でながら、優しい表情で泣いていた。
『神社…かは、分からないけど御社だもんな。神様が居てもおかしくないか…。つまらないこと聞かせてごめんよ。風だったとしたら、なんだか俺は馬鹿みたいだけど。でも、ありがとうな…。』
「っ!」
彼の折り鶴だけを、守るように手で包んで。私から一歩離れた青年が、指先で溶けた雪の面影を払うと、少しだけ無理をしたような笑みを見せた。
『鶴も受け取ってくれたのか…。なら、もう心残りはないかな。ありがとう。…じゃあな。』
「あ…、私は…。」
くるりと背を向けて去っていくサラリーマンの姿。なにも紡げない口元が煩わしく、梅神様や雪神様の様に彼に何も残せない自分が、どうしようもなくて更に言葉は震えてしまった。斑雪を踏み、振り向かずに去っていく彼。胸に抱き止めた鶴に、私は掠れそうになる声で、呟きを残したのだった
「ごめんなさい。でも、私は優しい貴方に…生きていてほしかった…。」