折り神と御霊の冬至(壱)
蛍の燈籠に、嘆く余情を込めて。青光りする霜雪に、風花の折々を待ち望む。冷えわたる宵は調べを浄化して、年の瀬に飛び立つ鶴を見送るのだろうか。懐かしさに、微笑む髪飾りを付けた幼子も、今は消えてしまった秋雨を恋しがって泣いている。ただ、白煙の立つ雪景色が一面に見渡せる朝の呼吸と、山中に据えられた社を背にして佇む私だけが在る世界。折形だけを胸に秘めていた。
透明な白木蓮が私の涙を壊して、罅の割れた景色も消し去ってしまう季節。水の香りがする境内にて。雪に降られようとも、雨に打たれようとも、私は一枚の折り紙を手にしたまま彼等の訪れをじっと、待っているのだ。
春に訪れた者は、ナイチンゲールの響きを求めてやって来る。夏の暑さを纏まとった彼等は、木陰の涼しさに救いがあると信じていたのだろう。秋を見上げる人々は、燃ゆる山々に惹かれてしまったのかもしれない。そして、冬の時期とは…。
「凍えた体を暖めたかったのでしょう。」
傍らに置かれた火鉢からは、何の疑いもない炎の温もりを感じることが出来る。けれども、折り紙は簡単に炭へと変わってしまい、後には何も残らないのだ。そんな当たり前に過ぎない心象を、私は明朝に暮れる靄の濃い時間を過ごしながら、淡々と描いていたのだった。
「今日もまた、その場に座っているのだね?」
「そうね。雪の日は、特に心が落ち着いて静寂に耽ることが出来るから。」
曇天の空を模した髪色が視界を塞ぐ。ちらつく雪から察するに、雪神様が来たのだろうと頭をあげれば、予想通りに年若く見える青年が立っていた。
「君の中で時とは、飛べない雀を見守るような物らしい。」
「それだけ止まった時間であれば、彼等を待つには丁度いいわ。」
私は微笑みながらも、立ったままだった彼の手を取る。そして、自分の座っていた場所の隣に彼を座らせた。
「ああ、ありがとう。相変わらず、君は優しいのだね。」
「そうでもないけれど。」
水辺に歌う木霊達を澄み渡った心でしか、聞くことが許されないように、青年の言う優しさとは私が賜っていい物ではない。やんわりと、彼の言葉を否定しながらも彼が持つ感謝の意は伝わったことを示す為、彼の右手に私の左手を置いた。
「今日は、どのような?」
「君と久々に語り合おうと出て来ただけさ。それに丁度、向かい側の山に吹雪をもたらしたばかりだからね。その帰り。」
白い袴に上等な羽織を着ている彼は、己の指から雪の結晶を浮かばせつつ、そう語った。各々の山に属す雪神様であるが、彼はこの地方一帯を管轄するほどの強い力を持った神である。そして、その彼は私の数千年前からの友人であり、良き隣人でもあった。
「貴方の雪は、落ち着いていて。昨日の夜も見上げるほどに、弓矢の張りつめる雰囲気を感じられたわ。灰を降らすこともなく、純質な白さを誇っていて…。」
「私の雪に混じり気などあってはいけないのだよ。けれど、最近ではそれも難しくなってきたからね…。昔よりも気を使わなければ、この純水は生み出せなくなってしまった。」
彼の手が私の方に伸ばされて彷徨った為、そのまま私の髪へと彼の手を持っていく。普通とは違って、絹の様な感触を持つ、私の真っ白な髪に指を絡めつつ、彼はため息をついた。
「君はどうかな?常に、この火鉢の傍で靄のかかった鳥居の向こうを見つめているけれど、疲れていないかい?数千年前から君が、この地で神として居続けていることは知っているけれどね。最近では、この社への来客も多くなってきたと、西の風神様から聞いたのだよ。」
「ええ。でも、何処も…西の風神様も大変そうだから。」
ついこの前、私の元へ立ち寄った際には、小さい風を起こせば強風が吹き、大きめの風を誤って起こしでもすれば台風になってしまうと嘆いていた。
「そうだね…。」
白く透き通った肌を持つ彼が、彼の持つ色と同系色の睫毛を震わせ、また深いため息をつく。私の髪を梳く事にも飽きたのか、ぱさりと指で絡めていた一房を落としてしまった。世界が変わって、雪を降らす作業も年々、大変になっているのだろう。私は慰めを込めて、肩を叩いた。
「ありがとう…。君の所に来ると、暖かい気持ちになれる。此処には小さな社と、数枚の折紙と火鉢。後は鳥居の向こうに続く道しかないというのにね。」
「でも、山頂にあるから景色は奇麗よ。」
「ああ、きっとその通りだ。」
頷いて、彼が微笑む。友人がもう一度ありがとう、と呟くのを聞きながら、少しでも彼の心が晴れたなら良かったと、ほっと息をつく。雪の重みが少しでも彼から離れてくれたことに、胸をなでおろした、その時だった。私は鳥居をくぐって此方へやってくる一人の人に気が付き、思わず隣に座る彼の袖を引っ張った。
「今、丁度折り紙を持った人が現れたみたい。」
「ん?」
私の待ち人は石畳を歩き、辺りをきょろきょろと見渡している。憂国の寒空など知らない無垢な表情は一本だけ植えてある松の木を見上げて、嬉しそうに黒髪を揺らした。
「どんな子だい?」
「可愛らしい女の子よ。カーディガンを着てはいるけど…、少し寒そうだわ。」
「…。」
少女は濁りのない瞳でしばらく、物珍しそうに散策をしていたが、やがて真っ直ぐに私の座っている社の縁側の中央。本坪鈴のある下に置かれた、賽銭箱代わりの箱に、手に持っていた折紙を投げ入れた。
『…?』
首を傾げて、これで合っているのか確認するように折紙の位置を調整する。形は崩れているが、小さくて愛らしいチューリップの形状に折られた紙。私は、鈴を鳴らして頭を下げる女の子をじっと見つめていた。
「鈴を鳴らす音は聞こえたけれど。今、その少女は何をしているのだい?」
「ずっと、頭を下げて祈っているのかしら?…私は願いを叶えてあげられるような神ではないのに。」
思わず、悲しみに瞳が真空の空虚さを求めてしまう。ぎゅっと手を握り締めて、真剣そうな顔をしている幼い子を見て、私は立ち上がると箱の中のチューリップを手に取った。
「ごめんなさい。私にはこれしかできないのよ。」
聞こえない声で、そっと囁いた私は可愛らしいチューリップを着物の袖に大切にしまっている巾着袋に、入れた。
「…。」
目の前の折紙が消えたことにも気づかずに、熱心にもう一度鈴を鳴らす姿に、息が漏れてしまう。すると、座ったまま何か考え事をしていたらしい雪神様が私に声をかけた。
「私を、その少女の元へ連れて行きなさい。考えがある。」
「…、でも。」
「ほら。私の手を掴んで、近くまででいいから。」
少し戸惑った末、私は彼の手を取って少女の元まで連れて行った。彼に女の子の居る方角を伝えて、彼の手を彼女の肩に乗せる。人が神の気配を感じることはないが、彼が触れているからか女の子は不思議そうに後ろを振り返った。
「君から聞くところによれば、その子は薄着でいるのだろう?」
「ええ。」
私が頷くと、彼は指を鳴らして雪の結晶を一つ作った。
「願いを叶えるなどと言う崇高な真似事はできないが、雪で服を作るぐらいのことはできるからな。少女よ、君に暖かいコートを送ろう。」
雪は私の瞬きの間に、白さの際立つダッフルコートとなり、小さな女の子の身を温めた。
『…?なんだか、暖かい気がする。』
目をぱっちりと開けて、初めて声を出した女の子は、不思議そうに首を捻っていた。雪神様にその様子を伝えれば満足そうに、彼は頷いた。女の子は、やがて嬉しそうに笑うと、鳥居の向こうへと駆け足で去っていた。帰りがけには、ちゃんと社に頭を下げて。
巾着袋には女の子の置いて行った折り紙がひとつ。そして、隣には女の子の姿が見えなくて残念だとぼやく、濁って何も見えなくなってしまった瞳を惑わせている雪神様だけが居た。
「ありがとう。」
「ああ。こういう時、目が見えないと言うのは面倒くさくて困るものだな。」
右手で目を擦って、不服そうに言う彼の顔を見上げて、頬に手を置いた。
「私が本当は彼女の為を想わなくてはならなかったのに、私の分まで動いてくれて。しかも、純質な雪を生み出す為に、瞳まで濁らせているのだもの。貴方は、誰よりも素敵な神様よ。」
「はは。そうかな。」
大気の水から邪気を払うため、彼は瞳を濁らせ続けている。多くの地方の雪神様が諦めた事を、彼は身を犠牲にして取り行っているのだ。けれど、青年は少しだけ私に顔を近づけると嬉しそうに笑った。
「誰よりも神として美しいのは、君だよ。あの女の子の折紙を受け取るのは、折神様である君なのだから。こうして、近づかないと君の透明な瞳を見ることが出来ないのは残念だけれど、そんな美しい神に素敵だと言ってもらえて、これほど幸福なことはないよ。」
雪風が彼を取り巻き、また違う山へと神を運んでいく。
「ごめん、そろそろこの山の更に奥の方へ雪を降らしに行かないと。でも、また冬至の時には訪れるからね。」
「ええ。」
すっと、彼から離れると霜が覆い尽くし、次の瞬間にはもう冷たいだけの風が境内に吹き荒れていた。
「待っているわ。」
私の呟きは彼に聞こえていたのだろうか。虚空に吸い込まれていく声が、今日この場に訪れた二人へと囁きを残したのだった。