予池
───ええ、ええ。知っていますよ。
あの池のことでしょう。この辺りで池と言えば、あそこしか有りませんからね。
✕✕の、うちの周りの●●や■■の人間だって知っていますよ。
おや、何やら腑に落ちない顔をしてますね。
……なるほど、地図ですか。
そうですね。
地図には他にも池の記録があったでしょう。
でもですね、いくつかは無くなってしまったんですよ。
埋め立てられたり、干上がってしまったりしたんです。
それから、●●の方や▲▲▲にあるのとあそこの池は全然違うものなんですよ。
いや、どれも池ではあるんですけどね。
名前が付いてないんですよ、✕✕のは。
だから、池としか呼べないんです。
別にそれで不都合とかも無いですから。誰も気にしてはいませんよ。
それで、池の話が聞きたいのでしょう?
いやいや、怒ってなどいませんよ。
今では少なくなりましたが、昔は見物に来るような人だって居たんですから。
あなたも見に行ったのでしょう、池を。
どうでした?
何かありましたか?
ああ、そうでしたか。それは残念。
そうは言っても不思議なことなど滅多に起きやしませんから、当然ですがね。
それでも時折あなたのように、話を聞きにやって来る奇特なお方が居るんですよ。
で、そんな風に足を運んで来るものだから、こちらとしてもつい話をしたくなるわけです。
言ってしまえば趣味みたいなものですね。いや、そんなに大層なものではなく井戸端会議みたいなものになるのでしょうか。
あの池がいつからあるのかは誰も知らないんですよ。この辺りに人が住み始めた頃には無かったらしいんですがね。なのにいつの間にやら池が出来ていたんです。
集落からほど近い場所ですからね、調べたはずなんですよ。
池と集落の間にある山も実際は小高い丘みたいなものでしたし、木々が生い茂っていても池を見落とすとは思えません。あなたも見てきたならそう思うでしょう?
でも、集落が形作られていき、田んぼを広げるようになっても池には全く手を付けられなかったんです。
人が住むようになってから時代が過ぎて、開発の波がこんな田舎にまで押し寄せてきました。
高度経済成長期の頃ですか。
道路を通すことになったんです。
私が生まれた頃の話になりますね。
ええ。あなたが通ったあれですね。
山を通り抜けるあの道路が作られた時に、いくつかの池が埋め立てられました。
その時にあの池が見つかったのです。
それで、池のほとりを通る道路が作られたんですよ。
池が埋め立てられなかったのは、単純に大きさの話だと聞いています。
中々大きいですし、深さもそれなりにあったそうです。
そんな池が何十年、いやそれこそ百年単位で見つからなかったなんておかしな話ですね。
まあとにかく、池の歴史は浅いのですよ。
ある日突然現れたと言われても驚きません。
見つからなかった理由を考えると、池のある方面に用のある人間はほとんど居なかったことが挙げられますね。
山沿いを歩けば●●に、川沿いに行けば▲▲▲に、川を渡れば■■に行けますが、山を越えてもだいぶ歩かなければ人里に辿り着きません。
■■の先にずぅっと進めば旧市街に出ますし、池のある方に向かう理由はなおさら無かったんですよ。
水だって川がありましたからね。
それでもおかしな話には変わりないですけども。
さて、池が突然見つかったくらいでは田舎の生活が大きく変わることはありません。
集落の暮らしに影響を与えたのは、作られた道路の方でした。
あんな暗い森の中を歩こうという者は居ませんでしたが、車はそれなりに走るようになりました。
✕✕に立ち寄る車はほぼ居ませんでしたが、通過するのはかなり増えましたよ。
一番活気のあった頃じゃないでしょうか。
通り抜ける車は専ら運送業でした。
この辺りに観光地なんて無いですからね。
旧市街への抜け道として使われていました。ただ、道幅がそれほど広くはありませんからね。知る人ぞ知ると言いますか、ベテランの方が使う道となっていましたよ。
そうして通行量が増えましたが、長続きはしませんでした。次第に抜け道を使うドライバーは少なくなり、集落はまた元の落ち着きを取り戻しました。
今では日に二台とか三台くらいですかね。
あの道は✕✕の人間もあまり通らないんですよ。
それで、落ち着きを取り戻した頃に噂話が流れたのです。
出所は分かりません。トラックの運転手か、たまたま通った集落の者か、はたまたそれ以外か。
私も当時は子どもでしたし、大人たちもそれほど気にしておりませんでしたから。
ただどれも池に関する話でしたよ。
そうです。噂話は一つではありませんでした。
三つです。
同時に三つも噂話が流れました。
変でしょう?
私も混同していましたが、後からそれぞれ別の話だと聞いて首を傾げました。
多すぎますよね?
その噂話なのですが、一つ目は「池の傍に立つ若い女を見た」と言うものです。
髪が長く、スカートのようなものを履いているそうですよ。
それから二つ目は「スーツを着た男が池の中に入っていくのを見た」と言うものです。
既におかしいでしょう。
一つ目と二つ目でまるで違います。
時期がずれているのならばまだ理解できますが、同時に流れては作り話だと吹聴するも同然ではありませんか。
見間違えることも無いでしょう。共通点が見当たりませんから。
服装を判別出来るのであれば、性別を間違えることはそう無いですもの。
両方とも本当の可能性ですか……。
減りつつあった道路の利用者がそれぞれ女の姿と男の姿を目撃して、それを集落の人間に話して、集落の人間が別の人間に話してどちらも噂話として集落中に広める。
それは中々に骨が折れる話ですね。
無くはないでしょうが、そう簡単にはいかないでしょう。
最後に三つ目ですが、「白い車が池の脇で事故を起こした」です。
これに至ってはもう噂では済みませんよね。事実か嘘かの二択になります。
そして当時、事故などありませんでした。
いえ、もしかすると軽い自損事故くらいなら起きていたかもしれません。それが白い車だった可能性は否定できません。
ですが、わざわざそれを噂する必要はありませんでしょう。
しかし実際に、これらの三つの噂話は集落中に広まりました。
大人たちがよくこの話をしているのを、傍らで聞いていたことを覚えています。
これもまたおかしな話です。
この狭い集落では、噂などあっという間に広がりますがそれで終わりです。
余程の話でなければ消え去るはずなのですよ。
そしてこれらの噂話はよく話をするほどのことでは無いですし、事実かどうかはすぐに分かってしまうことです。
だというのに、これらの噂話はかなり長く残り続けて語られていました。
そうして根も葉もない噂話がまことしやかに囁かれている時に、あの事故が起こりました。
そう、乗用車が池に転落したあの事故です。
新聞にも載って、取材が来ていたのを見ましたよ。
記事は読みましたか?
サラリーマンの男性が学校帰りの娘を乗せて運転していた白いセダンが、カーブを曲がりきれずに勢い余って池へと転落した痛ましい事故です。
いや、恐ろしかったものです。
噂話が噂話で済まなくなりましたから。
背筋が凍りましたよ。
ですが、真に恐れるべきなのはその後でしてね。
まず事故の後、三つの噂話はパタリと止みました。
人が亡くなっているから当然ですよね。
でもそれから少しして、新しい噂話が流れ始めたのです。
今度は「幼子を抱えた女性が池に膝まで入ってこちらを見ている」と言うものでした。
趣味の悪い話です。
それが人々の口にのぼるようになりました。
それまでしていた噂話など初めから無かったかのように、新しい噂話に興じる大人たちの姿はそれはもう恐ろしく見えました。
私はその噂話を聞きたくありませんでしたが、嫌でも耳にしてしまう。そんな状態でした。
気持ちの悪いことに、皆面白がっていたのです。
そんな新しい噂話がされるようになってからどれくらい経ちましたでしょうか。最初ほど時間はかからなかったと思います。
また、池で人が亡くなりました。
自殺だったそうです。
望まぬ子を孕まされ、産むことになってしまった女性が赤子とともに池に身を投げたのです。
私はその話を聞いて震えました。
噂話と似ていましたから。
ああ、まただ。そう思いましたよ。
でもさすがに、もう噂話が出回ることは無いだろう。そうも思いました。
一度目の時と同じように、噂話はパタリと止みました。
ある日、皆一斉にその話をしなくなるのもまた少し気味の悪いことですよね。
とにかく、誰も女性と子どもの噂話をしなくなりました。
それからしばらくの間、そういった話は聞かなくなりましてね。
私は気味悪がっていましたが、次第にそんなことを忘れていきました。
あれは、成人した頃ですね。
また、噂話が広まったのです。
「首にタオルを巻いた作業服の男が池にいる」と言うのです。
私はすぐに子どもの頃聞いた噂話を思い出しましたよ。
人が死んでしまうと恐れました。
当時の私には恋人が居ましてね。彼に不安を打ち明けたりもしました。
彼は、考えすぎだと笑っていました。
それからすぐの事です。
池から死体が見つかりました。
彼でした。
殺されたのです。
凶器は白いタオルで、首を絞められたことによる窒息死でした。
犯人はすぐに捕まりました。
なんでも彼は友人に金を貸していたらしく、仕事帰りにその取り立てに行って殺されたとの事でした。
私は自分の足元が崩れるような絶望感を味わいましたが、それ以上に周囲の人間が恐ろしくて堪らなかったことを覚えています。
これまでと同じように噂話を一斉に止めて、まったく普段の通りに生活をしていました。
彼のことを知る私の親でさえそれは同じで、その様子は機械的ですらありました。
それまでにしていた噂話と似ているなど、集落の人間は露ほども感じていなかったのです。
たまらず私は家を出ました。
東京の方に引っ越して、✕✕からは距離を置きました。
ここを離れている間のことは分かりません。
ですが、時折連絡をとった時に噂話が出てくることはありませんでしたから、きっと何事もなかったと思いますよ。
どうして戻ったのかを問われると、……そうですね。
恐ろしく感じてはいても、ここは故郷であるからですね。
よく分からない話があっても、✕✕は私の故郷だから帰ってきてしまいました。もう十年近くになりますね。
最近までずっと噂話を聞くことは無かったので、とても穏やかに暮らせて居ましたよ。
ですが、それも終わりです。
近頃、また噂話を聞くようになったのです。
「……お話、ありがとうございました。お時間をいただき感謝しています。」
ゾワゾワとした予感に引っ張られ、老婆の話を強引に打ち切ってしまおうとする。
……こんな空き家だらけの限界集落で何が噂話か。
不穏な予感をかき消そうと内心で強がるが、ある答えに自然と行き着いてしまう。
腰かけていた縁側から立ち上がる俺は、苦虫を噛み潰したような表情をしていたことだろう。
そこに老婆から声がかかる。
───池のほとりに大学生くらいの若い男性が佇んでいるそうですよ。
ご高覧くださりありがとうございます。