第四十一話「シノとユキノジョウ」
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闇市の賑わう中、雑踏は潮が引くようにさっと左右へと分かたれた。
人々は口々に、共連れた一団を見やってはざわめいた。
「見ろ、棺桶を担いでらぁ!」
「白装束に袖通して、一体だれがおっ死んだんだ?」
「噂じゃあ黒川という余所者の蝙蝠女だとよう」
「あの白毛黒縞の美人さん、なんでも白上ノ御母堂様という偉ぇ方らしい」
座棺。
白い喪服の一団が担いでいるのは座棺という木製の丸い棺桶であった。
この時代、死者は土葬と火葬のどちらかで埋葬される。土葬の場合、身を清めた遺体を座らせて円筒形の木桶に詰め、これを墓所に掘って埋めた。火葬に用いる細長い寝桶と違って、座棺は小さくて済み、それだけ墓穴掘りの手間が省けた。亡骸の座るさまが仏に通じるともされていた。
喪服は白とされ、白は死装束とされた。
闇市の門前をゆっくりとした足取りで進む葬列はまさに異様だったものの、鹿鳴寺の裏手にある墓所へと埋葬に行く一団というのであれば理解しがたいものではなかった。
「そなたら何者だ、葬列があるとは聞いておらぬ」
「白上ノ御母堂様が遠路はるばる江戸より参り、黒川を討ち取った――と御住職にお伝えあれ」
鹿鳴寺の門前を守る鹿角の僧兵らは慌てて取り次ぎ、そして「中に入れ」と告げてきた。
闇市で外目に触れてはまずいのだろう。
葬列の一団は鹿鳴寺の境内へ。そしてさらに奥の、本堂へと通された。
「これはこれは白上ノ御母堂様、ようこそおいでなさいました」
年老いた鹿族の住職が恭しく頭を下げ、歓迎する。いや、媚びる。
住職の周囲には他の僧侶が二人、そして僧兵が三人勇ましく立っている。――そのうち二人は角があり、一人は角がなかった。
「ふんっ、つまらぬ挨拶はよい。まずは人払いをせよ」
喪服の一団の代表者である白上ノ御母堂様と呼ばれた白毛黒縞のケモノビトは、吐く息も白く輝いてみえるかのように錯覚するほど冷たいまなざしで澄ました顔をしていた。
「し、しかしですのう……」
「戯けが、弟子に読経を聞かせるよりも“ご利益”のある話をするには不都合だと思わぬか」
高圧的な御母堂の物言いに反感を示すでもなく、住職は人払いする。
つまり、本堂には住職と御母堂、その従者が二人、そして角のない僧兵と座棺だけが残された。
「謝礼だ。世話になった」
そして無造作に、白紙包みの“切り餅”を二つ、住職に袖から投げやった。
「そんな、ご不浄はもうすこし丁寧に……」
「要らんのか?」
「いえいえ、滅相もございません」
住職はそそくさと切り餅を、五十両の大金を懐に納めた。仏門の徒が聞いて呆れる有り様だ。
住職と御母堂の力関係は明々白々だ。
長倉奉行白上ジンダイの妻となれば、事実上その代理人。十万石の大名に匹敵する権勢があれば、少々歴史があろうと山中の寺院の住職など塵芥に等しい。
「我が愛しき子ユキノジョウを匿ってくれたことには礼を尽くすが、もう用はない。忌々しい黒川の小娘はこのわたくしが自ら、用心棒を雇い入れて始末しておきました」
「なんと……」
「祟られる覚悟がおありならばご住職、その棺桶を覗くといい」
「いえ、それには及びませんが」
「遠慮するな。薄汚い蝙蝠風情とはいえ、ふふっ、若く美しい女の死に顔は眼福なものよ」
白上ノ御母堂は妖艶に嘲笑い、口許を扇で隠す。
住職は懐の五十両の切り餅によってすっかり手懐けられているが、それでもなお、真っ当な性根が残っているらしく、御母堂から目を背ける。
「ふんっ、戯けが。そなた自ら僧兵を差し向け、黒川を討ち取ってくれればこの五倍の礼金も惜しまなかったものを。小心者よ」
「ご、ご勘弁を! 拙僧あくまでご子息のお命をお助けするだけならば仏の道には背くまいと……」
「まあよい、済んだことよ。悪いが、黒川の亡骸はここで葬り供養してくれ。祟られぬようにな」
「それは勿論……」
「俗僧め、私だけでなく、お前のためにもしっかりと念仏を唱えることだな」
白上ノ御母堂はすっと視線を僧兵へ送る。
薄明かりしかない本堂の中、仏前でも気ままに振る舞う冷徹な猫の瞳が爛々と輝いていた。
視線の先にある僧兵の瞳もまた、猫のソレであった。
「おいでユキノジョウ、母のそばへ」
「……母上、お久しゅうございます」
ゆっくりとした足取りで僧兵が一歩進むごとに、着込んだ鎧の擦れ合う硬質な音がした。
角なしの僧兵――白上ユキノジョウは薙刀を持たず、腰に刀を差していた。
白鞘に氷の文様を刻んだ艶やかな剣は、竜魔刀に相違なかった。
「わたくしの買い与えた“氷月暗光”は血に飢えているのではなくて?」
「黒川クロウを殺めて以来、宝の持ち腐れにござる。それも母上のおかげと心得ますれば」
「かわいい我が子の為ならば。母はそなたの愚かな過ちも消し去って差し上げましょう」
「母上……! ああ、母上!」
久方ぶりの母子の再会というには神や仏を恐れぬ、おぞましい光景であった。
そして一面、真理もあった。
私利私欲の限りを尽くそうとも、いかなる悪事を働こうとも、世の中というのは弱肉強食が理なれば、金と権力に物言わせても我が子を守り抜くことは自然でさえあった。
逆に、どんな道理があったにせよ、我が子を死に追いやる母よりは生類として真っ当でもある。
あるいは罪を償わせるべく、潔く腹を切らせることも母の情けといえるだろうか。
それが武士として、高潔にして誉れある死だとするならば――。
武士とは、天然自然と掛け離れた不可思議な生き様である。
「ああ、愚かでかわいい我が子よ。なぜ、あんなつまらぬ蝙蝠風情を殺めてしまったのか」
「母上、それは……」
「黒川クロウを闇討ちしたとして、それで何が得られたのか。もう討手はいない。安心なさい。あなたの闇深き心を知るのは母のみです」
そう述べ、白上ノ御母堂は住職にもこの場を立ち退くよう視線で催促した。
そそくさと住職も去ってゆき、まさに親子水入らずとなる。
白上ユキノジョウは安堵して、赤裸々に告白する。
「かねてより黒川クロウは父上の密貿易について嗅ぎ回っておりました。佐河藩の警備隊は鬱陶しいが、とりわけ黒川は執念深く。あの田舎侍、運の悪いことにとうとう瀬取りの現場を目撃してしまいまして、それでもう、殺す他ないと……」
「竜の爪痕はいかように?」
「密貿易について情報があるとうまく誘い出して闇討ちにした後、氷月暗光の氷雪を武器とする異能で竜魔の爪を形作り、傷口を上書きして。そうして亡骸を冷やし、死体検分で体温から亡くなった時刻を割り出されぬよう細工を……」
「愚かなりに利口だこと。……けれど、母にはわかります。まだ何か隠しているでしょう?」
白上ノ御母堂の冷たく責め、それでいて慈しむ眼差し。
白上ユキノジョウは、それこそ茶器や花瓶を割った童のように恐れながら言葉する。
「クロウの姉は……。仕事場に弁当を届けにくる黒川シノは大層に美しかったのです。私は、母上がおっしゃるほどには蝙蝠を嫌ってはおりませなんだ。あの美しい黒翼で羽ばたく姿は天女のように優雅で、けれど……」
「けれど?」
「汚らわしいと! 母上が仰られた! ツバサビトに似る蝙蝠は忌み血だと!」
「……それはそうでしょう。蝙蝠でなくとも、ケモノビトは姿形や家格身分の近しき者とでなければ契り結ばれることはありません。それが“世の正しき”です」
「拙者は! 母上のお言葉に従い、恋心をあきらめたまではよかったのです! ところが密貿易の件からクロウを探るうちに、あの者が! 実の姉のシノと仲睦まじく! 狂おしかった! もし、拙者に世の正しき等と気に止めず、シノに、おシノにひとりの男として慕っていると申せていれば……」
「拙者は父を守り、母を守り、正しく生きようとしただけだというのに、どうしてこんなことに」
「ああ、愚かな子……」
白上ユキノジョウは御母堂に抱きとめられて、なぐさめられた。
僧衣の下に鎧を着込んでいるせいか、母の温もり、やわらかさはロクに感じられなかっただろう。
「黒川クロウが死んだのは父上のせい」
悔しげに、声を震わせていた。
「黒川シノが死んだのは母上のせい」
御母堂の懐中で、くぐもった声でユキノジョウは嘆く。
「拙者は悪くない! 拙者は悪くない! おシノの命まで奪うことはなかった!」
「であれば、棺桶を開いてしかと己の罪と業に向き合うことです、愛しき我が子よ」
「嗚呼、ああ……! 許せ、おシノ! ここまでする気はなかったのだ……!」
白上ユキノジョウは座棺にすがりつき、号泣した。
白上ノ御母堂様はふと背後を振り向いて、外の騒動に耳を傾ける。
『竜魔が出たぞ! 怪物が出たぞ!』
『こっちに来てくれ僧兵さん! おばけカエルが出やがったんだ!』
なにやら外では大騒動の様子なれど、しかし本堂はしーんと静謐としていた。
仏前に、ユキノジョウの嘆き声だけが虚しく響く。
「拙者は、そなたのことを……」
座棺を開く。
刹那、白刃が光る。
白上ユキノジョウの右腕と胴体の境目、鎧甲冑の隙間、右脇を正確無比な刺突が貫いていた。
「がっ!?」
座棺に眠っていたのは黒川シノの遺体ではなかったことを白上ユキノジョウはようやく知る。
生きていてほしいと願った女が、生きていた。
復讐を果たすために、生きて、息を潜めていた。
「ぐ、がああああああっ!!」
叫ぶ。
ユキノジョウは叫ぶ。泣き叫ぶ。壮絶な痛みに情けなく叫ぶ他になかった。
無銘の竜魔刀は一点を穿つ。
人体の急所、脇下の動脈に深々と凶刃は突き刺さっていた。鎧の内側に切っ先が埋まり、痛みに暴れても悶えても抜けることはなく。
血はとめどなく滴り落ちる。どうしようもなく止まらない。
何重もの策謀も、頑健な鎧も、高価な竜魔刀も、もはや役立ちはしなかった。
ユキノジョウは安心しきっていたのだ。寺社仏閣の境内は神聖な場所であり、ここでの仇討ち騒ぎは討手も死罪になりうる。ここならば安寧の日々が送れるはずだった。
黒川シノにとって事後の死罪など何ら恐るるにたらぬ瑣末事だと彼には想像できなかったのだ。
「誰か! だれか、助けてくれ……っ!」
「誰もいませんよ」
漆黒。
座棺の薄暗い闇の底から覗き込んでくる、黒川シノ。
「誰も、ここへ助けにはこない」
「そんな! 嘘だ! 寺の者がすぐそばに!」
「金と虚言で得られた仮初の仲間など、この修羅場には辿り着けない。わたくしのために、お節介焼きの仲間たちが力添えしてくださっているのですから」
「う! あ! くっ、刀が……!」
ユキノジョウは残る左腕を使って、どうにか竜魔刀・氷月暗光を握ろうとする。しかし刀剣は左腰に差し、右腕で抜くものだ。ユキノジョウはとっさに左腕を使い、逆手で抜こうとして手こずる。
その十数秒という時間の限りを使って、黒川シノは右脇に刺さった竜魔刀をねじった。
えぐって、ねじって、肉と血と骨を怨恨と憎悪の限りに傷つけた。
もはや致死はまぬがれぬ出血量であることを、当のユキノジョウは理解できていただろうか。
否、そう冷静であったはずもなく。
白上ユキノジョウも、黒川シノも、生死を分かつ命運が決してもなお――。
生きるべく。
殺すべく。
一生懸命だった。
「は、母上! 母上、どうかお助けを……!」
白上ユキノジョウの生きる希望は、もうそこにしかなかった。
黒川シノを殺したと恨み節を吐いてしまった母親に、黒川シノに殺されかけて救いを求める。
「本当に、愚かな……」
「母上……?」
その一瞬の、まさに絶望に染まるユキノジョウの表情を――。
従者の一人に扮して仇討ちに立ち会っていたウコンは、その瞳に焼きつけることになった。
「ウコン、手を借ります」
隣に座していざという時のために控えていた雪代ノ奥方は、ウコンの手に手をぎゅっと包む。
雪代ノ奥方は、黒狐のウコンは、仇討ちをあきらめたいと企んでいる。
この仇討ち旅の果てに待つ結末が今ここに先んじて在るとしたら、見届ける他になかった。
「これが……復讐」
白上ユキノジョウの最後の希望となっていた母親は――。
白上ノ御母堂など、ここに存在しなかったという事実を知り、白上ユキノジョウは絶句した。
それは影武者ユキノジョウことセツタが演じる、真っ赤な偽物だったからだ。
そう、紅酒左文字の赤鞘のように、真っ赤な――。
「母上は! 母上はどこにおられる! セツタ! なぜお前が……」
「稚拙な三文芝居、ご容赦あれ。若、御母堂様はここには参られておりません。せめてもの死出の手向けに誠心誠意、我が子を愛する御母堂様を演じさせていただきました」
「この……! 役者くずれガァ!!」
白上ユキノジョウは激高した。
しぶといことに致死の傷を負ってなお生きもがこうと、練気によって一時的に右脇の傷からの出血を抑え込む。そして左腕で逆手に振り抜くことで竜魔刀・氷月暗光を抜刀した。
その抜刀の勢いで、無銘の竜魔刀を真下から斬り上げて叩き折ってしまった。真っ二つにだ。
死に瀕して、白上ユキノジョウは手負いの虎と化した。
旗本侍として十全な鍛錬を積み、恵まれた体躯を有する白上ユキノジョウの獰猛さ強靭さは黒川シノとはまた違った達人だ。
「死なば諸共! 最悪ではない! 最悪などではない! 拙者は武士として死ぬるのだから!」
逆上したユキノジョウはどう抗っても死ぬとしても、だれかを道連れに死ぬ余力がまだあった。
生き延びる可能性が絶たれた今、白上ユキノジョウにはこれしかなかった。
甘美なる死に様を求めるしかなかった。
最後に縋れるのは寝物語に知る英雄が如き、劇的な死のみなのだろう。
「正真正銘、氷月暗光」
消え入りそうな小さな声でぼそりとつぶやけば、たちまち、千切れ落ちそうになっていた右腕と胴体を凍てつく氷塊が固めて繋いだ。
はぁはぁと熱く浅かった呼吸が、粉雪の交じる冷たい吐息へと変わっていく。
僧衣に鎧甲冑を着込んでいたユキノジョウの全身を、さらに氷の鎧が覆い尽くそうとする。
「シノ殿! 紅酒左文字、お返し申す!」
「――あぁ。一族の魂、我が手にあり」
影武者ユキノジョウの投げ渡した紅酒左文字を、すかさず黒川シノもまた正真正銘した。
最後の一合。
白上ユキノジョウは大上段に構えて、縦一文字に全力で氷月暗光を振り下ろそうとした。
闇雲な斬撃であった。
しかしその一撃に伴って、白上ユキノジョウの全身に纏っていた氷の鎧が弾け、無数の氷片と化して強襲する。逃げ場はなく、防ぎようもない。もし鎧甲冑でもあれば氷片を容易に凌げたかもしれないが、それは空中殺法のために軽装しかできないシノには無理難題だった。
「シノ殿!」
よって、影武者ユキノジョウは氷片の矢雨に我が身を捧げ、シノの盾となる決断を下したのだ。
そして一切の迷いもなく、己への献身に目もくれず、シノは怨敵の懐へと飛び込んだ。
迫る氷月暗光。
黒川シノは一瞬にして、剣撃の回避のために己を“より小さな者”に変化させる。
――黒狐のウコン。
その小狐の姿こそ黒川シノが刹那にひらめいた唯一の選択肢だったようだ。
「死ね」
白刃をかわした黒影。
復讐の刃が、喉首に狙い定める。
「死ね」
黒く。
真っ黒く。
「死ね」
純然たる殺意を刃に込めて。
標的の首を。
「死ね!!」
斬り捨てた。
薄闇に散る血飛沫は鮮血というには赤黒く、そして。
凍てつく冷気によって、返り血は浴びる前に空中に静止、赤黒い華を咲かせた。
仏前に供える花としては少々、それは華美に過ぎた。
毎度お読みいただきありがとうございます。
ケモ奥方第二章、ついにクライマックスです。堂々たる復讐劇はこれより幕引きと相成ります。
これまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
第二章は次で最後のお話となります。(お正月中に最後まで更新予定)
お楽しみいただけましたなら惜しみなく感想・評価等ご贔屓のほどお願い申し上げます。
それでは、待て、次回!