第三十九話「静養と湯治」1/2
■
温泉宿にて黒川シノが目覚めたのは山城の騒動から丸一日が過ぎた夕方のことだった。
深く寝入ったまま起きる様子のないシノのことを奥方はずっと不安がっていた。
「ああ、よかった! シノさん、あれからずっと寝てるんだもの心配しちゃったわ」
「どうぞ、これでお顔を」
ウコンは蒸し場でぽかぽかにあっためておいた手ぬぐいを差し出す。
まだ薄ぼんやりと眠たげなシノは湯気立つぬくもりに、徐々に意識が冴えていったようだ。
「一度ならず二度までも刃を向けてしまうとは……。ご迷惑を、おかけしました」
シノは布団の上に正座して、深々と頭を下げて謝罪する。
「いえいえ! 今回はこの通り怪我ひとつありませんので、どうかお顔をあげて!」
「……ですが」
「深刻そうに思い詰められると、かえってこちらが悪いことしちゃったみたいで困るのよ」
「……かたじけない」
シノはよろよろと寝床から身を起こそうとするが、丸一日を寝てもまだ回復しきっていないのか、立ち上がれずに尻もちをつく。
「まだおとなしくなさいな。大怪我はなくとも竜鬼化で心身の消耗激しく、小さなかすり傷がそこかしこ。無理は禁物、まずは万全になるまで二、三日静養してもらいたいわ」
「奥方様のおっしゃるとおりにございます。ぐーたらするのも良いものですよ」
ウコンはそう得意げに述べつつ、シノをまた寝床に座り直させては寝汗を手ぬぐいで拭いてやる。
「……あれから事はどうなりましたか」
「万事順調にございますよ、シノ殿。ご安心めされい」
ウコンは寝起きのシノの身の回りの世話をしてやりつつ、事の次第をかいつまんで話した。
「そのようなわけで、あのユキノジョウは影武者だったのです」
「……まさか、左様なことが」
シノは狐につままれたような顔をした。
もちろん、ウコンが頬をつねったわけではない。
五年間もの歳月、よもや偽物の仇を追わされ続けていただなんてシノには青天の霹靂だ。
「コハルの言っていたことは半分、正しかった……。私は、誤った仇を討つところだったのですね」
「無理もない。影武者のユキノジョウ、つまり貧乏役者のセツタは命懸けで仇を演じ切ろうとしていたのですから。あの男は、それが己の約束と貴方の悲願を叶える最善の策だと信じてやり遂げようと尽くしたのです」
「……わかりはします」
寝床に座したシノはおだやかな顔つきで、縁側から障子越しに差してくる夕陽を見やった。
「刃を交えた時、奥方様とも、あの影武者とも、どこか違和感を覚えてならなかった。眼前にいるのは憎き仇のはずなのに、なぜか、私の剣には迷いがあった。はじめてお会いした時も、これでも一太刀で決着のつかぬよう加減して様子見していたのですが、それは正しかったようです」
「それは何とも、ありがたい話だわ……」
奥方の白黒しましまの尻尾がピンと伸び切っている。
よっぽどシノの剣戟が恐ろしかったのだろう。手加減についても、竜魔に対する躊躇ない剣戟、黒い竜巻と化して一撃で屠った所作と比べれば、確かに初めての時の戦いは手ぬるいといえた。
「……私とて、剣術を修めてはいても人を殺めたことはない。ましてや、いかに恨み骨髄に徹する悪党といえど、本当に命を奪ってよい者か、悩みはありました。その迷い、悩みのおかげで、こうして無用な殺生を免れることができたのならば、ためらいや迷いも捨てたものではありませんね」
「じゃあ、もう影武者さんのことは……」
「命を奪うべきはただ一人、白上ユキノジョウのみ。偽物を本物として斬ったところで、武家として名誉は守られるとしても、草葉の陰で見守る旦那には申し訳が立ちませんので」
「そう、それは一安心だわ」
ほっと一安心と胸をなでおろす奥方。
シノも薄っすらと微笑んでいる。どこかとても冷たげに。
「ただし、本物を庇い立てするなら拷問してでも居所を吐かせはする所存」
「ひっ! こわわわわわ……っ!」
青ざめた奥方はぎゅっとウコンに抱きつき、その余りある豊穣な胸元を押し付けてくる。
ぽよぽよとしたやわらかさ以上に、白虎族の怪力豪腕がウコンを苦しめる。
「お、奥方様、ぐ、ぐるじい」
「だって! シノ殿ったら洒落にならないんだもの!」
「もがが! こちらも洒落にな……けふっ」
あわやそのまま絞め落とされる寸前、どうにか腕の力がゆるまってウコンは難を逃れる。
シノ殿の冷徹にして迅速な剣技は恐ろしいが、奥方の無垢にして豪快な力技も侮りがたい。
「けほけほ、本物の所在はもう突き止めてございます。サコンのやつがうまいこと情報を引き出して、裏取りもしてくれました。数日後、次の闇市にて、仇討ちの機会をご用意いたします」
「闇市……? それはなぜ」
「本物のユキノジョウが確実に、その日その場に現れるからです」
「……左様で」
シノはおだやかに眼を瞑り、黙想した。
ウコンと奥方は少々不安げに見守る。毎度シノは焦り、急ぎがちな性分。数日後まで待てないと言い出しかねなかった。静養しなさい、と言われていようとも。
しばし沈黙のひとときが横たわり、そして――。
『ぐぅ』
と、腹の音が鳴った。言うまでもなく、奥方の。
するとシノはくすりと朗らかに、憑き物が落ちたように柔らかに笑ってこう言った。
「失礼、ずっと寝ていて空腹だったもので」
小粋な一言に、奥方も「奇遇ね、私もだわ」と応じる。
ふたりはまるで長年の友人みたいで、ウコンは微笑ましくも羨ましい気分であった。