第二十七話「母乳と逃避」
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三十六計逃げるに如かず。
形勢が不利なとき、あれやこれやと策を案ずるより逃げてしまった方が最適だという教えだ。
もっとも、逃げるためにも策を案ずる必要はある、という矛盾がここにはある。
ウコンの今置かれている状況は、まさに逃げ隠れの一手こそ最善に尽きるが、その最善の中でもより最善の策を考えて、ヤクザ一家に追い立てられる現状を回避しようというわけだ。
(連中は奥方様のことを、あのユキノジョウと勘違いしている……。しかし素直に正体を明かしたとして、どのみち無法者と関わってはどんな不利益があるかわからない。相手の出方次第となってしまうのは危険がすぎる。となれば……変装か)
「奥方様、しばしこちらでお待ちを。変装道具を調達して参ります。もしもの時はこちらを」
「ウコン、これは……?」
「煙玉です。地面に投げつければ、衝撃で炸薬が爆ぜて煙を撒き散らすことで煙幕を作ります。煙幕は視覚と嗅覚を塞ぎますので、その場が混乱しているうちに一目散に逃げてください。逆に煙幕を投げれば音と煙によって遠くからでも居場所がわかるので、緊急時に集まる目印にもなります」
「は、爆ぜる……。なるべく使わずに済むようにしないと」
ウコンは闇夜にまぎれてお寺の境内をすいすいと音もなく進み、静かに塀を越えて闇市へ。
闇市ではまだヤクザ一家が探し回っている様子だが、人影に隠れつつも何食わぬ顔して焦らず騒がずただの来客としてまぎれてやり過ごす。
「へい、まいどあり」
ウコンは露店で手頃な衣類を買い、また人目を盗んではお寺の境内へ。奥方の元へ帰り着く。
でっかい図体を不安げに小さく丸めていた奥方は、ウコンが帰ってくるなりパッと嬉しげに微笑んで手招きしてくる。
「無事に帰ってきてくれたのね、よかった……」
「おまたせしました。では奥方様、こちらにお着替えを……」
非常時なので着替えさせるために奥方の衣服を脱がせることをいちいち意識してはいけない。
とは申せども、お寺の境内の夜闇の中、建物と木々の陰に隠れている中で奥方を脱がせるのはいささか旅籠での着替えとは訳が違った。いや、妙にウコンの胸が高鳴るのは、いつでも美しい奥方の肢体に慣れぬのもあるが、なにより追手がいつ襲ってくるかもわからぬ緊迫した状況もあるだろう。
「サラシを解く手つき、慣れてきたわね」
と小声でささやかれて、そのくすぐったい恥ずかしさに、ウコンは全身の体毛が逆立つ思いがした。
(慣れるものか、こんな乳鞠……)
奥方の場合、その双丘はただ見目麗しく眺めて楽しむものではなくて、我が子の千代丸君に与えるために役立てられている。乳飲み子に母親が授乳させる、というのはケモノビトとしてごく当たり前の風景なれど、この奥方がやるとなれば話しは別だ。
湯治宿に訪れてすぐの頃――。
「じつはまだ出るのよね、母乳」
いつのことか、不意にそう言われてウコンは大変に驚いたことがある。
千代丸君は二歳になるが、これは数え年だ。生まれたその日を一歳として、正月を迎えるごとに一歳ずつ増やすのが数え歳である。つまり、生まれてから経過した歳月でいえば、千代丸君は一年間と数ヶ月ほどで満二歳ではない。よって、まだ完全には乳離れしておらずとも不思議ではない。
母乳というのは個人差はあるが、赤子に吸ってもらっているうちは出続けるそうなので、旅立ちの直前まで授乳させていた奥方の場合、数週間そこらで急に止まらないのは納得できる話だ。
「その、胸が張っちゃって……」
「胸が……張る?」
一瞬、ウコンは頭が真っ白になってしまった。
いつものように湯浴み後に着替えさせている最中に、その特大の乳房を前にして言われたのだ。
さしもの奥方もためらいがちに、恥じらいつつごまかすように微笑みながら話してみせる。
「お乳が溜まったままだと次第に痛くなってきちゃって、具合を悪くしちゃうのよ」
「そういった話し、聞いたことはありますが……」
「旅立って数日は我慢してきたのだけど、そろそろつらくて、だからその」
奥方は伏し目がちに。
湯上がりの、浴衣に着替えたばかりの火照った身体を縮こませながら言葉した。
「ウコン、あなたに、おっぱいを吸って欲しくて……」
硬直した。
ウコンは石塊と化した。一体なにをどう返事すればいいのか、全くわからなかった。
道理は通っている。搾乳をせねば健康に差し障る。しかし旅先では都合よく他所様の赤子に乳をやる訳にもいかず、常につきっきりの護衛兼世話役のウコン以外に適任者がいない。
しかし、いや、しかし。
「……ダメ?」
不安げに、羞恥心に耐えながらおねがいしてくる奥方の何と可憐なことか。
「慎んで、おっぱいを吸わせていただきます」
ウコンは意を決した。
十二歳にもなって母乳を吸うのか、等という小さな葛藤は所詮ウコンの私事。守るべき主人の体調より願い出より優先される訳がない。
断じて、ごく個人的に興味があって奥方の双丘に赤子のように甘えようというのではない。
おっぱいを吸うこともまた、忍者の仕事なのだ。
「では、失礼して……」
はて、しかし乳を吸うといっても、一体どうやるのか。ケモノビトなら誰しも物心つかぬうちは乳飲み子、されども物心つけば縁遠いことも然り。ましてやウコンは母親を亡くし、忍び里でも授乳させるところをじっくり見た覚えがない。
「……お、奥方様、どのようにすれば」
「こっちへおいで」
どうも緊張してるウコンを見て、かえって安心したのか奥方はやや余裕を見せつつ手招きする。
ふらふらと半ば放心状態で近づいてしまったウコンは気づけば赤子のように仰向けに抱きかかえられて、奥方の大きく広い懐中に抱かれていた。
湯気も冷めきらぬ入浴後ということもあって、奥方のからだは暑いほどに温かった。
そして鼻先にあるのは当然必然、奥方の母たる胸元だった。
「あなたは今、わたくしのこども」
「はい……?」
「ウコン、あなたがあなたのままでいるから躊躇ってしまうのよ。あなたは今から我が子、千代丸の代役を果たすの。そう考えてみて」
「私が、千代丸君の……」
「さ、やさしくおねがい、ね」
いざ吸ってみると、はじめのうちウコンは心の昂ぶりで味がわからないでいたものの、次第に懐かしい心地と穏やかな感触、あっさりとした自然な甘みに酔いしれていった。
――夢見心地。
それはウコンだけではなくて、奥方もまたそうであるようだった。
母乳を与えながらウコンの毛並みを撫でつける奥方の様子は、それこそ故郷に残してきた千代丸君のことを重ね見ているようであった。
(……母乳がああも美味いとは、知っているはずなのに知らなかった)
変装のための着替え作業の最中だというのに、ついウコンは人に言えぬ物思いに耽ってしまった。
じつのとこ母乳を飲ませてもらったのは通算三度にもなる。だというのに、授乳させてもらっておいて今更にサラシを解いて胸をさわることになぜ慣れないのかウコンは不思議であった。
(……わからん。自分が自分でわからん)
接触度合いとしては授乳が勝るのに、脱衣に伴う緊張感の方がより大きいのは、もしかすると「味」だろうか。
つまり「食事」の一種として数えてしまうがために、ウコンの中では授乳は食い気に分類される。
しかしながら脱がせて触れる分には食事ではなく、色気に分類されてしまう、と。
(……ますますダメではないか、それは)
この頃、もうウコンの中では確信に近くなりつつあった。
黒狐のウコンは、雪代ノ奥方にすっかり魅了されてしまっている。
友愛か、恋慕か、母恋しさか。
感情という形のないものに明確な名づけのできるほどには、ウコンは自己分析に長けてはいない。
いずれにしても道ならぬ想いだ。
ウコンがどう想おうと奥方は高貴な武家の女、一番に愛するのは亡き夫や我が子と決まっている。
何一つとして、ウコンの思慕が報われる道理はない。
(どれだけこの方のことを気に入ろうと、私がすべきはあくまで側にお仕えするだけのこと)
三十六計逃げるに如かず。
ウコンはまたもや逃げることにした。結論づけることから逃げたのだ。
着替えや授乳からは逃げないクセに。
毎度お読みいただきありがとうございます。
哺乳類がまず第一に摂取する食事こそ母乳です。粉ミルクなどのない昔は、母乳は必要不可欠な赤子の食事でした。
生まれたばかりの子供にとって唯一の栄養源であるために死活問題であり、実母の母乳が確保できない場合に備えるためにも職業として乳母が重宝されてきました。
奥方の場合、千代丸君の養育を乳母にゆだねて実家を出ているものの、できればまた自分で子育てしたいと考えているため、今はまだ授乳ができる状態を維持したいと考えているようです。
仇討ちさえ果たせれば生命がどうなってもよい、とは考えていない生還第一の奥方らしさの現れといえるかもしれませんね。
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ひきつづき、今後ともよろしくおねがい致します。