第二十五話「巻物と篝火」
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「これはどうかしら」
闇市の露店にて奥方が着目した品は、一軸の巻物だった。
露天商のネズミは「ほう」と小さく唸って、ひげを撫ぜてはいくらで売ろうかと思索する素振り。
「お武家さま、それは居間に飾って楽しむ絵巻じゃありやせんぜ」
「え! ああ、そういう……」
手にとりかけていた奥方はぴたりと止まって、なにやら顔を背けてしまった。
(奥方様はこれをなんだと思っていたのだ?)
ウコンが巻物を手に「いいか」と尋ねると、店主は「お若いのにお詳しいようで」と薄ら笑った。
「え、え、ウコン待ってそれがなにかわかっているの……!」
「ええ、忍びとして修行には欠かせない物ゆえ」
奥方、一瞬ぴたりと固まる。
ウコンの忍術修行の様子を想像しているにしては、なんとも不可解な反応だ。
「ま、まだウコンには早すぎるのでは!」
「一人前になるためにはいずれ経験すること、読む機会は多く……」
「忍者なんで!? なんで忍者そんな!?」
なにやら奥方が小うるさいが、今重要なのは巻物の内容と真偽だ。
「どれどれ」
巻物を紐解いて、開いてみようとするウコン。しかし奥方が横から巻物を奪い取ったではないか。
「ダメ! 絶対ダメ!」
「は? なぜです?」
「それはその……! うら若い童女が人前で見るのははばかられると申しますか、ああっ!」
「いいから返してください」
奥方がその背丈に任せてうんと高くに掲げた巻物を、ウコンはぴょんぴょん跳ねて奪おうとする。
(なぜ巻物ひとつで大騒ぎしてるんだ、この人は……)
『真字巻物』
真字、という呪い(まじない)が文字や絵として記された巻物だ。
忍術を操る方法として、竜玉を用いる竜魔忍術とは別に、この真字巻物を用いる真字忍術がある。
忍術を会得する高度な修行を積むウコンやサコンは当然、真字巻物には馴染みがあるわけだ。
「よっと」
「ああ! ウコン! ですから貴方にはまだ早いと!」
「それは見て確かめればわかることでございます」
ウコンは奪い返した巻物を、今度こそと勢いよく広げてみせた。
(ん?)
真字、らしき難解な文字や絵図がそこにはなかった。浮世絵、だろうか。
描かれているのは、はて何だろうとウコンは小首をかしげる。
竜魔の本命もかくやという信じがたいほど大きなタコと小さなタコに、犬狼族の艶やかな女人が襲われている絵図である。
犬狼族の女人は一糸まとわぬ裸身であり、無防備だ。
大タコと小タコに襲われて生命も危うい恐怖の絵図、というのはいささかなまめかしすぎる。
よく見ればあられもない秘めやかなところまで克明に描かれ、添えられた文字を読むには――。
「回収! 回収いたします!」
「あ、なにを!」
「これは拙者が買いますで候! 店主お値段は!」
「百六十文でございます」
「買った!」
奥方は乱雑に、おそらく多少足元を見られたであろう価格で巻物を買って懐に仕舞った。
「おくが……! こほん、旦那様、一体なにゆえ」
「ナニもカニもありません!」
「タコでは?」
「だまらっしゃい! 貴方が嫁入りするときにでも差し上げますからそれまでは禁じます!」
「は、はぁ……」
ウコンは困惑していた。
もしやウコンには早すぎる高等な、あるいは危険な真字巻物か、はたまた何かの秘伝書か。
単なる浮世絵だとしたら何を大慌てしているのか。そも、大タコの意味がわかりかねる。
「ここはもういいわ、次の店に行きましょうウコン!」
日頃おっとりした奥方がやけに強引に、ウコンの手を引いて店を去ろうとした。
その解きがたい力強さに、大ダコに襲われる女人の心地はこのようなものかとウコンは想像し。
なにか違うような、どこか合っているような、不可思議な気分をウコンは味わうのだった。
次なる店では。
「旦那様、旅路に不要なものを品定めするのはお控えくださいますように」
「ええ、でもこの木彫りなんともいい仕上がりで」
「私に木彫りの熊をかついで旅せよと仰せですか」
「うう、さよなら熊さん」
等と、木像の熊との別れを惜しんだ。木彫り細工のどこが闇市で売らねばならぬものかといえば、これがおそらく“魔境”の産物だからだ。
ウコンの知りうる限りにおいて、このように精巧な木彫りの熊の像をどこかの地域で作っているという話を聞いたことがない。
「旦那様はお気づきですか、あの熊は魔境の財物だということを」
「ええ、それしきは……。だって、この鹿鳴寺の裏手に魔境があるのでしょう? 魔境の品々がここで売買されているからこそ闇市にこぞって人がやってくるわけですし」
「とするとやはり、客の中には流離い達も……」
奥方は不意に不安がっているのか夜闇を見回した。
鹿鳴寺の門前闇市を行き交う人々は、誰しも篝火に照らされて怪しく不気味に見えてしまう。僧兵の見張る中、穏やかに活気のあるものの、行き交うものの大半は刀や短刀を帯びている。
来客たちは今ここで、あるいは帰りの夜道で襲われでもしまいかと警戒しているのだ。
流離い。
竜魔狩り、魔境歩きを許された流浪する者達。
雪代ノ奥方の仇討ちすべき相手もまた流離いの者、西海道の彼方にいる怨敵の同類がそこかしらにうろついているのだから心中穏やかでなくなるのも無理はない。
「旦那様」
心細いであろう奥方のすぐ隣に立って、ウコンはその小さな体をぴたりと寄せた。
「わたくしがついておりますのに、なにを闇市くらいで怯え怖がることがございましょうや」
少々、ウコンは格好つけてみた。
「どうか今はお買い物をお楽しみあれ」
「……ふ、ふふっ」
あっけにとられていた奥方はやがて、くすくすと溢れるように笑った。
「む、左様に似合いませなんだか」
「だってウコンったら、あの人にそっくりなことを言うのだもの」
雪代ノ入婿。
今は亡き奥方の伴侶に似ているといわれて、ウコンは己の胸の奥底がざわつくのを感じた。
一種類の感情として言葉に表せない、整理しがたい情緒だった。
「夜道であれ、雷雨であれ、すぐにね、安心しろ、いつでも俺がついてると自信満々に言うのよ」
述懐する奥方の眼差しは、ウコンではなく篝火を見つめていた。
闇夜に揺れる炎。
きっと、奥方はその向こう側になにかを思い描いて話している。
「今でも草葉の陰で見守っているつもりなのかしらね、あの人ったら」
「……奥方様」
「貴方がぐーたらのサボり魔でよかったわ、おかげでこんな時にしかあの人に似てないんだもの」
奥方の手が、ウコンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
まるで子供扱いだ。
ウコンは奥方へ亡き母への恋しさを心抱く時もありはするが、今は娘扱いのようでは不服だった。
「お、おやめください奥方様」
「貴方は私を守ってくれるのでしょう? だけど私だってあなたを守りたいのよ、あの人にそうできなかった分もね」
「む、そこで強情を張る私ではございませんが、どうも暗に弱いといわれているようで」
「それはまぁ、そうでしょう」
「失礼な! 私は今より強くなってみせますとも!」
「あら、どうやって?」
尻尾を逆立てて意気込むウコン、おだやかな眼差しで微笑む奥方。
夜闇の中にあって、不思議と、ウコンには奥方のことが白昼に在るかのように明るくみえた。
「強くなりますとも! 無論、この闇市で、金の力で!」
ウコンがそう言い放つと奥方はころころと鈴を転がしたように笑った。笑ってくれた。
「ああ本当に、やっぱりあの人とは似ても似つかないわね、ウコンったら」
買い物は和やかに、おだやかに続く。
この“金の力”がいかに使われたかについては、また別の機会に。
毎度お読みいただきありがとうございます。
江戸時代を代表する文化のひとつ、浮世絵! そして春画も…?
浮世絵は値段が十六文(そばと同じ値段で安価なわけです)、色は七、八種類といった決まりがあり庶民に親しまれておりました。
春画は大っぴらに売買できないため裏取引が前提となり、高値で取引され、色彩の制限といった検閲もなく自由で豊かな表現が絵師によってなされていたといわれています。
ではでは、今後ともよろしくおねがいいたします。
 




