上うな重でいいです
その店は、国道沿いから分かれている細い路地を右に折れたところにあった。ほとんど山の麓のような土地の隙間に、瓦屋根が目を引く古風な民家風の建物があるようだが、今はそれも、ほとんど雪で白くなっている。
十台ほど停められるであろう駐車スペースの脇に、雪に潰されている小さな看板がある。《うなぎ本舗 みなみ》
「ここが?」
「連日大盛況と噂の、みなみさん」
私は改めて、その雪で埋まった駐車スペースを見渡してみた。車は、端っこに二、三台が停まっているばかりである。
「あまり、大盛況とはいっていないみたいだけど」
「お昼時は、もう過ぎているからね。それに、今日は雪が降っている。でも、ほら。その雪を見てごらん」
織子は、顎をクイと動かして、「そっちを見ろ」のジェスチャー。言われるがままに、駐車スペースに積もっている雪に目をやると、おびただしい数のタイヤの跡が雪に切り傷を刻んでいた。
「少し前までは、大盛況だったと見えるね」
「本当ね」
玄関前で立ち止まりながら、二人してタイヤの跡を見ていると、ふいに織子が私に顎を向けた。
「お母様に伺ったんだけど、うちの家が米を提供しているらしい」
「へえ!」
農家のお嬢様ともなるとそういうことがあるのかと、私にしては珍しく目を丸めながら素直に感心してしまった。
やがて織子が、うなぎと書かれた暖簾に向かって歩き始めたので、私も後をついていく。なるほど、こう店構えだけを見ていると、一人で入りにくいという織子の主張も頷ける。
織子が引き戸をガララと開ける。すると当然、動かされた引き戸は、横に居た私の目の前に現れるのだが、その時、引き戸についていたある装飾品がどうしても目に焼き付いて離れなかった。
──その装飾品とは、お正月飾りである。
単純にしめ縄と呼ぶこともある。年末年始にかけて、数多の玄関先をお正月色に染めてきた、藁製のアイツである。
《うなぎ本舗 みなみ》も、お正月様を店内にお出迎えする時の目印として、縁起担ぎのために、引き戸にお正月飾りを飾ったのであろう。それは、理解できる。しかし、私の目の前に、その鶴の細工と〈謹賀新年〉が飛び込んできた瞬間、強烈な違和感を覚えてしまった。
その違和感の正体が、お正月飾り自体ではないことにはすぐに気が付いた。《うなぎ本舗 みなみ》のお正月飾りは、どこを切り取っても至って普通だったからである。なら、この胸に渦巻く黒い靄は一体、何者なのか。
「何しているのさ」
織子の声で、こちらの世界に帰ってきた。どうやらお正月飾りを見ながら固まっていたらしい。織子は、暖簾の下で上半身だけひょっこり出して、こちらを不安そうに見ている。店内に一人で入ったはいいものの、私がついてきていないことに気づき、慌てて戻ってきた様子である。
「あ、ううん、ごめん」
慌てて明るい表情で取り繕ったものの、また眉をしかめてしまう。
店内は暗い色合いであった。深海を思わせる深い青色のタイル床や、ニスで光沢を放っている、焦げ茶色の木製のイスや机が親しみづらさを演出している。カウンター席には、うな重を食べている男の背中が二人分見えるが、イスの間隔から察するに、それぞれ別の客のようだ。
「すいません、二名です」
織子が、後ろ頭を掻きながら、照れくさそうに言った。相手は、配膳係のおばさんである。おそらく、私が固まっていた間に、「いらっしゃい、一名様?」「いや、二名──あれ」といったやり取りがあったのだろう。
割烹着がはち切れそうなほど恰幅のいい配膳係のおばさんは、テーブルを拭く手を一旦止めて、
「それでしたら、奥の座敷のほうへどうぞ」
人のよさそうな笑顔から、特徴的なガラガラ声が繰り出された。目尻に刻まれた深いシワの数々が、今までどれほど献身的に接客してきたかを物語っている。
私は織子につられるがまま、奥の座敷へ向かう。靴を脱いで、畳にあがると、そこには、宴会場を思わせる広々とした空間が広がっていた。大きなテーブルと座布団が、ゆとりをもっていくつか置かれているが、ピークが過ぎたこともあってか、私たち以外に客は見当たらなかった。
この広々とした空間を、女の子二人組だけで独占である。
私たちは自然と、脱いだ靴がすぐ履けそうな、入り口近くの席に腰を下ろした。
織子は、私の向かい。私は、壁を背にして座っている。寄りかかれる分、私の方がお得だ。
座るや否や、織子は漆黒のダウンジャケットを脱ぎ始める。ふかふかのジャケットとは対照的に、これまた病的なまでに細い──しかし、女性特有の曲線や、柔らかい丸みはちゃんと面影を残す──織子の中身が、蛹が羽化するように、ヌルリと出てきた。その中身さえ、真っ黒のニットを着ていたことに、少しくすっと笑ってしまった。織子が、ジャケットを脇の座布団に畳んだのを見て、私も上着を脱いだ。
やがて、配膳係のおばさんが、テーブルにお冷とおしぼりを運んできた。
「ううん、何がいいかねえ」
メニュー表を、食い入るように見ている織子を傍目に、私は、ざらざらした左官の壁に寄りかかりながら、お正月飾りのことを、まだぼんやりと考えていた。
あの違和感の正体に、もう少しで辿り着けそうなのである。
「うな重というのは決まりなんだけど、〈上うな重〉にするか〈特上うな重〉にするかが、悩むねえ」
織子はというと、珍しく浮ついているのか、なにやら一人でぶつぶつ呟いている。
「うちは決まった! ふれんは何がいい。奢りなんだから、好きなものを頼むといいよ」
と言って、メニュー表を差し出してきた。
私は、それをしぶしぶ受け取ると、うな重のページを開いた。しかし、心に何かが引っ掛かっているので、見る文字全てがつるつると滑って、頭に入らない。
「どれがいいかな」
とテーブルに身を乗り出して織子が急かしてくる。私は、「ゆっくり決めさせてくれよ」という気分になって、話題を反らすことを画策した。
「──織子の家って、ここにお米を提供しているのよね」
「む、そうだけど」
机に乗り出していた織子の体は、以外にすんなりと引っ込んだ。
「お店に入ったら、『あら、有阿谷さん、いつもお世話になっています』なんて挨拶のひとつくらいあるかと思った」
「あは、そうだね」
織子は、お冷をくいっと一杯やると、
「まあ、顔が知れているのは父母だけだろうねえ。『有阿谷家』は名が知れていても、『有阿谷家の娘』までは知らないさ」
確かに、こんな黒ずくめの風体をした女が、名家のご令嬢とは思うまい。
「織子は来たことないのよね、ここ。意外。普通、贔屓にしてもらっているうなぎ屋さんは、一度くらい外食に行きそうなものよねえ」
うな重のページを見るふりをして、言ってみた。
「普通って、そりゃどこの世界の普通だい。少なくとも、我が家は、そんなに外食が好きじゃないのさ」
ふうん、と空返事をして、メニュー表を織子に突き返す。決めるのが面倒くさくなったのである。私は、「織子と一緒のやつでいいわ」と言って、再びお正月飾りの違和感について思考を巡らせ始めた。
織子はすみませえん! と大声を出して、店員さんを呼んだ。ガラガラ声の「はあい」が壁の向こうから聞こえたかと思うと、配膳係のおばさんが、パタパタ足音を立てながら、伝票を持ってやってきた。
「特上うな重、二つで」
とくじょううなじゅうふたつ、とおばさんが口に出しながら伝票に記入している時である。その違和感がようやく判明して、頭の中で何かが弾けた。
「ああ!」
素っ頓狂な大声を出してしまった。おばさんと、織子が、ぎょっとした目でこちらを見ていた。
私は、顔が真っ赤になった。永遠とも思える五秒間、上手く誤魔化せないかと頭を働かせた。そして、おばさんと織子を交互に見て、一言。
「あ、片方、上うな重でいいです」